第86話 ゾンビ映画でよくある話じゃないか
「あの……茜。噛まれたのって、どれくらい前か覚えてるか?」
突然の質問に、茜が少し驚いた様子で振り返った。
「え……と。今、何時ですか?」
「18時半だ」
腕時計を確認して答える。
「えと……確か、14時頃だったので……四時間半、くらいだと思います」
なるほど。
もうこうなったら一か八かだ。帰り際にずっと考えていた言い訳を、放つ。
「実は、自衛隊員の話を盗み聞きしたんだ。噛まれると、必ず三時間以内にゾンビ化するらしい」
ごめんなさい。完全にウソです。
「え? でも、私……」
「そ、それなんだけど。い、一部の人間には、その……”抗体”があることが分かったらしい。そういう人はゾンビ化しないんだって」
我ながら無理がある。でも茜だけゾンビに噛まれてゾンビ化しない理由なんて、他に思いつかなかった。
茜がしばらく、俺の顔をじっと見ていた。
「……本当に?」
「あ、ああ」
目が泳がないように、努力した。
「ま、まだ断言出来ないけど、一晩様子を見て大丈夫だったら、まず間違いないんじゃないかな?」
いや、確実に大丈夫なんだけど。こういうのは少し勿体ぶった方が信憑性が増すだろう。たぶん。きっと。
茜がまた黙った。夕陽が窓から差し込んで、その表情がよく見えない。俺は余計なことを言わないように口を閉じた。
「晴翔さん……」
茜がぽつりと繰り返した。
「私、助かる……んですか?」
「た、たぶん。……いや、絶対大丈夫だから。心配するな」
「……はい」
茜がゆっくりと息を吐いた。
窓の外を見たまま、しばらく黙っていた。
夕陽が陰り、空には薄らと星が見え始めている。
「今日は、疲れただろう。ゆっくり休め。何かあればすぐ呼んでくれ」
「……はい」
俺は部屋を出た。
背後で、静かにドアが閉まる音がした。
それから、カチャリと、鍵の閉まる音が廊下に小さく響いた。
……
管理室に戻り、ドアを開けた瞬間。左右から同時に何かがぶつかってきた。
「晴翔……!」
「晴翔さん……っ!」
柚葉と能彩だ。
二人して俺の服を掴んで、それぞれわんわん泣いている。
「落ち着け、二人とも」
「だって……だって……!」
「茜が……茜さんが……!」
全然落ち着かない。会話にならない。
仕方なく、茜にしたのと同じ説明をした。
普通は三時間以内にゾンビ化すること。一部の人間には抗体があること。四時間半異常がなかった茜は、おそらくその一人だということ。嘘のオンパレード。
しばらく間があった。
「……ほんとに?」
柚葉が目を赤くしたまま、じっと俺を見る。
「ほんとだ」
「……なんか、都合よすぎない?」
うっ。俺が最も恐る言葉が、遠慮なしに投げかけられた。
「そ、そうですよね。ただ……」
能彩が涙を拭いながら、急に真剣な顔になる。
「もし、仮に。こ、抗体があるということは……やはりゾンビ化は、その、ウイルス性の感染が原因で……。ということは、もしかしたら、ワクチンとか」
待て待て待て。
「お、おい能彩。今日はもう遅い、考察の続きは明日にしてくれ」
「あ、で、でも……もしそうなら、茜さんの抗体が……」
「ストーップ! とにかく今は茜の無事を祈ろう。続きは明日!」
「は、はい……!」
お願いだから、これ以上突っ込まないでくれ。胃がもたない。
◇ ◇ ◇
翌朝。
柚葉と能彩を連れて、茜の部屋の前に立った。
「茜、気分はどうだ?」
「あ……はい。今のところ、落ち着いてます」
ドアの向こうから返ってきた声は、確かに落ち着いていた。
「入っていいか?」
「はい」
カチャリ、と鍵の開く音がした。
中に入ると、茜はすでに身支度を整えていた。髪も服も、いつも通りきちんとしている。
ただ、目の下に薄らとクマがあった。眠れなかったんだろう。それはそうだ。
「茜……大丈夫なの?」
柚葉が鼻を啜りながら、一歩近づく。
「……そう、みたい。ごめんね、心配かけちゃった」
そう言って、笑った。
「あかねぇーー!」
感極まった柚葉が茜に飛びついた。茜が少し驚いた顔をして、それから柚葉の背中にそっと手を回す。
能彩も目元を手で拭いながら、二人の様子をじっと見ている。
「茜、一回傷口洗っとくか」
ペットボトルに汲んでおいた水を渡す。
「あ、はい。ありがとうございます」
茜は室内の給湯室のシンクで包帯をほどいて、血が飛び散らないよう慎重に水を流した。
もちろん、傷一つない。
柚葉が首を傾げた。
「晴翔から抗体の話は聞いたけど。……噛まれた痕も無いって、さすがにおかしくない?」
「そ、そうですよね。抗体があったとしても、一晩で傷が完全に塞がるとは……」
能彩も覗き込んでくる。
ま、マズイ。
「もも、もしかして、そのゾンビ! お年寄りじゃなかったか!? ほら、入れ歯で歯がなかったとか! ゾンビ映画でよくある話じゃないか!」
いや、そんな話あったか?
「……さすがに無理あるでしょ」
柚葉が眉間に皺を寄せる。
「た、確かに……」
能彩も。
三人の視線が俺に集まろうとした──その瞬間。
「ハルト、おなかすいた。朝ごはんまだ?」
管理室の方からとてとてと足音がして、フェリが寝ぼけ眼で現れた。
そういえば昨日、帰ってくるなり「つかれた」と言ってソファに倒れ込んでそのまま寝ていたな。
魔法のことを知っているフェリには、昨日から終始緊張感がない。
「……ご飯にするか」
俺がそう言うと、場の空気がふっと緩んだ。
「賛成ー」と柚葉。
「そういえば私、茜の事心配で昨日から何も食べてなかった。よし、二日分は食べるぞー! 茜もお腹減ったでしょ」
そう言って背伸びをしてから茜の手を引く。
「あ、私、何か手伝います」と能彩。
茜がくすりと笑いながら「お詫びに、何か美味しいもの作るね」と返す。
フェリが真っ先に管理室へ駆けていく背中を見ながら、俺はこっそり息をついた。
なんとか、乗り切った。




