第85話 本当に。大丈夫なんだ。
フェンリル姿のフェリに跨り、市街地を足速に掛ける。
遠くに拠点が見えてきたあたりで、無線が鳴った。
『……ザッ……さん、お、お願いします……晴翔さん、繋がって……!』
能彩の声だ。
「能彩、聞こえてる。どうした」
『は、晴翔さん! やっと繋がった! 茜さんが……茜さんが、ゾンビに噛まれたって……!』
やっぱりか。
心臓が嫌な音を立てたが、努めて落ち着いた声を出した。
「分かった。今戻ってる。もうすぐ着く」
『は、早く……早く来てください……!』
能彩の声が震えていた。
◇ ◇ ◇
拠点のドアを開けると、能彩が飛びついてきた。
「晴翔さん……! 晴翔さん……っ」
泣いている。
声にならない声で、俺の服を掴んで、震える手でがむしゃらに引っ張ってくる。
「落ち着け。大丈夫だから」
「で、でも……茜さんが……っ」
「能彩。茜はどこだ」
少し強めに言うと、能彩がびくりとして、廊下の奥を指差した。
「……奥の、部屋に」
「わかった」
……
薄暗い廊下を進む。
部屋の前には、柚葉が座っていた。
膝を抱えて、ドアにおでこをくっつけたまま、肩を震わせている。
足音に気づいた柚葉が顔を上げた。目が真っ赤だ。
「──茜! 晴翔、晴翔来てくれたから!」
「……何があった」
柚葉に声をかける。
「ごめん……ごめんなさい……私のせいで、私が転んだから、茜が私を、庇って……っ!」
両手に顔を埋めて、柚葉は泣き崩れてしまった。
俺はドアの前に立って、中に声をかけた。
「茜、居るか」
返事がない。
「茜?」
少し間があって。
「……は、はい。居ます」
泣いていたらしい。声の端が、湿っていた。
「茜、大丈夫!?」
柚葉がドアに張り付く。
「まだ……大丈夫」
少しの沈黙。
「──晴翔さん、ごめんなさい。私、ここまでみたいです」
気丈な声だった。でも、鼻を啜る音が混じっていた。泣くのを堪えているのが分かる。
「茜、ごめん……ほんとに、ごめん……!」
柚葉の嗚咽が廊下に響く。しばらく、ドアの向こうから声がなかった。
やがて、静かに。
「柚葉、もう謝らないで」
「で、でも……っ」
「柚葉、私本当に良かったと思ってるの。柚葉が無事で」
「……でも、何で。私達まだ会って一月も経ってないし。最初なんて、私、茜のこと騙そうとして……なのに、何で、私なんか庇って……」
柚葉が口を噤んだ。
「ねぇ、柚葉」
「……なに」
「私たち……友達、だよね?」
「……友達? 当たり前じゃん!」
「よかった」
少し間が空いて。
「柚葉、私、実は……ちゃんとした友達って、今までいなかったんだ」
「……え? う、嘘だよね? 茜みたいに可愛くて、いい子が……」
「ううん。さっき話した事情でさ、私、自分の記憶に自信が無いから、何でも人の言う事を信じてたら……女子から『天然のお嬢様気取った嫌な奴』って言われちゃって。それで、仲間外れ……みたいな感じで」
柚葉がぱっと顔を上げた。
「な、何それ。──何それ!? ちょっと、そいつら連れてきなさいよ。私が全員張っ倒してやるから!!」
さっきまで泣いていた柚葉が、涙を拭いながら声を荒げる。
「……ふふ。ありがとう。柚葉と一緒に学校行けたら……きっと楽しかっただろうな」
「──ぜ、絶対楽しいよ! 学校終わったら一緒に買い物して、カフェ寄って……あ、私、茜と一緒なら勉強だって頑張れるから。だから……だから」
そこで柚葉はまた泣き崩れた。
胸が痛くなる。
俺はドアに手をかけた。
「なぁ、茜。入っていいか」
「だ、ダメです……危ないですから。私、いつゾンビに……」
「大丈夫だ。頼む」
しばらく間があった。
かちゃり、と鍵の開く音がした。
「柚葉、悪いが茜と二人で話がしたい。少し向こうに行っててくれるか」
「……うん」
柚葉は小さく頷いて、袖で目元を拭いながら管理室の方へ歩いていった。その背中が、廊下の角に消える。
俺はドアノブに手をかけた。
……
ドアを開けると、室内は電気も点いておらず薄暗かった。
夕暮れが窓から差し込んで、室内をオレンジ色に染めている。埃っぽい空気の中に、光の粒がゆっくりと舞っていた。
茜は部屋の真ん中に、ただ立っていた。
ぽつんと。何かに寄りかかるわけでも、座るわけでもなく。まるでそこに立っていること自体が、精一杯みたいに。
「ごめんなさい」
俺の顔を見るなり、茜が謝った。
「私、最初から最後まで……迷惑かけてばっかりでしたね」
笑っていた。
涙を溜めたまま、それでも唇の端を上げて。
茜は、たまにそういう笑い方をする。どんな時でも、人に心配をかけたくないから。
「迷惑だなんて……」
言いかけた俺の言葉を遮るように、茜は一歩前に出た。
「あの、最後にもう一つだけ」
こちらへ向き直る。
夕陽が横から当たって、濡れた目元が光っていた。
「特大の迷惑を、お願いしてもいいですか」
「……何だ」
少し間があった。
茜が、息を一つ吐く。覚悟を決めたような目で、それでも穏やかに、微笑んだ。
「私がゾンビになったら。──晴翔さんの手で、殺して欲しいです」
その笑顔が、胸に突き刺さった。
その顔が……安らかすぎて、かえって痛かった。
「茜……」
「お願い、します」
頑なに、俺の言葉を聞こうとしない。
まるで、もう決心をして──諦めてしまったかのように。
「……大丈夫だ。茜はゾンビになんかなったりしない」
今、俺に言える精一杯の言葉をかける。
「……ふふ。晴翔さんは、本当に最後まで優しいですね」
茜は小さく微笑んだまま、後ろを向いた。
窓の外、夕暮れに染まった街が広がっている。どこまでも静かで、どこまでも荒れた景色だ。その向こうに、うっすらと山の稜線が見えた。
茜の肩が、静かに揺れている。
「……本当は、もっと晴翔さんと一緒に居たかったです」
ぽつりと、独り言みたいに言った。
「もっと色んな所に行ったり、美味しい物を食べたり、遊んだり……したかった……」
茜の、初めての我儘かもしれなかった。
本心を、初めて聞いた気がした。いつも気を張って、いつも誰かのことを先に考えて。そんな茜が、やっと、自分のことを口にした。
「茜……大丈夫、だから」
「……はい」
力の無い返事だった。
──いや、そうじゃなくて。
気休めとか、慰めとかじゃなくて。
本当に。大丈夫なんだ。
……万が一に備えて、茜たちには防御魔法をかけてある。
特に、狙われているかもしれない茜のはガチガチだ。たぶん対物ライフルで狙撃されても、ポップコーンが当たった程度で済むはず。
当然、ゾンビに噛まれたくらいじゃ傷一つつかない。
茜の腕に目をやる。
包帯が巻かれていた。血はついているが、もう乾いている。つまり、追加の出血はない。
おそらく血は元々ゾンビの口についていたものだろう。皆、気が動転していて、落ち着いて確認できていなかったんだな。
それでも茜は、窓の外を見たまま動かない。
夕陽に横顔を照らされて、睫毛の影が頬に落ちていた。泣いているのか……後ろからじゃ分からない。
また、胃が痛くなってきた。
問題は──いつも通り。
言い訳をどうするか、だ。
ただ今回は、特大にやっかいだな。




