第84話 「……ごめん」 「謝らないで」
目が慣れてくると、室内の全容が見えてきた。
どこかの事務所だったらしい。デスクが並んで、書類が散乱している。奥に非常口らしき扉が見えた。
「あっちから出られそう」
柚葉が小声で言う。
茜が頷いて、デスクの間を縫うように進んだ。
足元に気をつけながら、慎重に。
その時……奥の暗がりで何かが動いた。
一体。二体。三体——。
「……っ」
ゾンビだ。
しかも、一体や二体じゃない。薄暗い室内の奥から、次々と気配が膨らんでくる。避難してきた人たちがそのまま、ということだろうか。
「……この数、ヤバいって」
背を屈めながら柚葉が囁く。
「気付かれる前に、行こう」
茜が低く言った瞬間、ゾンビたちがこちらへ向いた。
「手遅れ……みたい」
「走って!」
二人で走る。
デスクを飛び越え、椅子を蹴り飛ばしながら非常口へ向かう。背後でゾンビたちが家具をなぎ倒す音がした。
非常口の扉を柚葉が押した。
開かない。
「うそっ——!?」
「一緒に!」
二人で体重をかける。錆びた蝶番が悲鳴を上げて、扉がぎりぎりと動き始めた。
背後の気配が迫る。
「まだ!?」
「もうちょっと——!」
ぎぃ、と音を立てて扉が開いた。
外の光が差し込んでくる。
路地へ飛び出した瞬間……茜の足が止まった。
ゾンビだ。狭い路地の両側から、複数が向かってくる。
「……こっち!」
柚葉が右へ走る。迫り来るゾンビ達の手前に、曲がり角が見えた。とにかくゾンビの居ない方に逃げるしかない。
茜が続く。
ゾンビと正面から鉢合わせる直前。角を曲がろうとした瞬間──足元に散乱した瓦礫に柚葉の足が取られた。
「きゃっ——」
「柚葉!」
体勢を崩した柚葉へ、先頭のゾンビの手が伸びる。
その間に──茜が割って入った。
ガチ、と鈍い音がし、左腕に違和感が走る。
「——っ!」
「茜!?」
……噛まれた。
分かっていても、体が固まりそうになる。茜は歯を食いしばって、ゾンビを肩で押し返した。
柚葉が踏ん張って立ち上がり、茜を押しのけるようにゾンビへ向き直る。
「このっ——!」
思い切り蹴り飛ばした。ゾンビが後ろへよろけて、後続とぶつかって倒れる。
「茜、腕っ!? 噛まれた!?」
「大丈夫、走れるから、行って!」
二人で路地を駆け抜ける。角を曲がる。また曲がる。
……どのくらい走っただろう。背後に気配がなくなったところで、柚葉が茜の腕を掴んで壁際に引き寄せた。
「見せて」
茜が首を振る。
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃないでしょ!!」
柚葉の声が、わずかに震えていた。
茜は黙って腕を差し出し、袖をまくる。
布が破れて、血だらけだった。柚葉が手を伸ばしかける。
「——触っちゃだめ。危ないかも」
茜が静かに制した。
柚葉の手が止まる。
ゾンビが噛みついたまま暴れたのか、傷の周りは血で真っ赤だ。傷口がどこなのかすら、見て取れない。
「……茜」
「……大丈夫。見た目ほど——痛くない、から」
実際、痛みは全くない。
それがかえって、怖かった。
柚葉が息を飲む。
「……ごめん」
「謝らないで」
茜が静かに言った。
「柚葉が怪我しなくてよかった。それだけでいい」
柚葉は何も言えないでいる。
茜は袖を下ろして、壁から背を離した。
「戻ろう。拠点に」
泣きそうな柚葉の目を見て、茜は小さく……微笑んで頷いた。
「……うん」
二人は並んで歩き出した。
来た道を戻るように、静かな街の中を。
◆ ◆ ◆
人の気配を避けながら街を抜けると、道が山へと続いていた。
木々の間をアスファルトの道が伸びている。自衛隊基地まで、もう少しだ。
「なんか、ゾンビ、前より増えた気がするな」
『ウー、ワンワン』
「そっか。お前ずっとショッピングモールにいたんだもんな。分からないか」
フェンリル姿のフェリの背中に跨りながら、のんびりと山道を行く。
途中で乗り捨てられた車を避けながら、フェリがリズム良くアスファルトを踏んでいく。
風が木々を揺らして、鳥の声がどこかで鳴いた。街中とは別の世界みたいだ。
不意に、フェリの鼻がヒクヒクと動いた。
『ワンワン!』
「人……か。フェリ、隠れるぞ」
背中から降りると、フェリが人間の姿に戻った。さすがにフェンリルの巨体では目立ちすぎる。
道を外れて林の中へ入る。
暫く進み、木の幹の陰から覗くと、道の前方に人影が見えた。
緑の迷彩服。自衛隊の隊員たちのようだ。
数人が道の真ん中に集まって、地図らしきものを広げている。
「……ここからじゃ、さすがに話は聞こえないな」
距離を目算する。
二十五……三十メートルほどか。
「──よし、シャドーウォーク」
魔力を込めると、足元の影がぐにゃりと広がった。
視界が白黒に切り替わり、俺とフェリの姿が影の中へ沈んでいく。
影から影へ。木の根元、車の下。
おおよその距離を計算しながら、隊員たちとの間合いを詰めていく。
……やがて、声が聞こえてきた。
「——以上が現在確認できている各部隊の位置です。第三、第五小隊は基地東側に展開。第七は……消息不明のままです」
「消息不明、か」
低い声の男。階級章から見て、それなりの立場の人間らしい。疲労と、それを隠そうとする緊張が顔に滲んでいた。
「基地の現状は」
「壊滅的です。Σ-05、06の暴走で正門から第二格納庫にかけて大規模な損壊。未だ鎮圧中ですが、増援の目処が立っていません」
「……そうか」
その時、一人の隊員が無線機を耳に当てながら駆け寄ってきた。
「報告です! 今ほどΣ-04に動きがありました」
男の目が鋭くなる。
「04は正常稼働中だったな。状況は」
隊員が手元のメモに目を落とした。
「はっ。Σ-04、市街地にて目標と接触。が、取り逃したとのことです」
「取り逃した? Σ-04が?」
「はい。ログによりますと、目標からの反撃により、20秒程度機能を停止。その間に逃走を許したようです」
男が眉間に皺を寄せた。
「馬鹿な……相手はただの女子高生だぞ。あのΣを止めるとは」
「おそらく、問題となっていた通信ユニットに障害が出たものかと」
「前々から指摘が上がっていたあれか……」
「……それと、気になる点がありまして──」
隊員が一瞬、言い淀む。
「現場に、ゾンビの生体反応が多数見られました。交戦中、目標がゾンビの群れに巻き込まれた可能性があります。負傷、もしくはそれ以上の状態である可能性も……排除できないかと」
「……そうか」
男が地図を折り畳んだ。
「目標の確保は最優先事項だ。使える部隊を回せ」
隊員たちが頷き、準備を整え始める。
──俺はその場で動きを止めていた。
目標……つまり茜の事だ。
ゾンビに巻き込まれた。負傷の可能性……。
頭の中で、言葉がゆっくりと繋がっていく。
フェリの袖をそっと引く。フェリが小さく頷いた。
駆け足で、来た道を引き返す。




