第83話 ──お兄ちゃん!?
路地を抜けると、道が広くなった。
左右に連なるビルの窓はほとんどが割れて、風が吹くたびにどこかで何かが落ちる音がした。
それ以外は静かだ。ゾンビの姿もしばらく見えていない。
「ねぇ茜、矢の残りって大丈夫?」
柚葉が背後を確認しながら小声で聞いた。
「……ごめん。ここまで急ぐために、だいぶ使っちゃった。もう……あんまり無い」
「何本?」
「……五本。ごめん」
柚葉が小さく息を飲む。
「謝んないでよ。茜のせいじゃないし、そもそもやたらゾンビ多かったから。晴翔と一緒のときはこんなに出てこなかったんだけどな」
「……うん」
ここに来て、自分たちの見通しが少し甘かったんじゃないかと感じ始めていた。
晴翔が一緒のときはゾンビはこんなに出なかったし、出ても晴翔が大半を片付けていた。
そもそも晴翔は、何だかんだ理由をつけて、不思議とゾンビの少ない道を選んでいたような気がする。
「なるべく温存しながら進もう」
茜が頷いて、また前を向く。
……その時だった。
茜の足が、ぴたりと止まった。
「どしたの?」
数ブロック先、交差点の角。何かが横切ったように見えた。
人の、シルエット……?
柚葉も足を止める。
気のせい?
いや、もう一人、人影が駆けていった。
「茜、今人が……」
「──お兄ちゃん!?」
突然、茜が駆け出した。
「ちょっと、茜!?」
柚葉が慌てて追う。
あれだけ慎重だった茜が、周りも確認せずに走っている。
通り過ぎた路地の向こうには、ゾンビの姿があった。
「茜、待って!」
交差点まで走り込んで、角を曲がろうとした瞬間——茜の足が固まった。
巨大な人影。
さっきの人影を追うように、それが現れた。
防弾コートに身を包んだ異形。
頭部には稼働するヘッドギア。人の形をしているが、人ではない。ゆっくりとこちらへ顔を向けて、何かを確認するように一瞬静止した。
学校に現れたのと同じ——変異体だ。
「──やば」
柚葉が呟いた瞬間、それが猛然とこちらへ向きを変えた。
「走って!」
茜が弓を引きながら後退する。柚葉が横に並んで全力で走った。
矢が放たれる。
命中した弓から、ただの木の弓とは思えない衝撃音が走り、変異体がふらつく。
けれど、膝をつかない。体勢を立て直して、また追ってくる。
もう一本。
今度は肩。ヘッドギアの稼働音が一瞬乱れた。
だが、それだけだ。
「うそ、効いてない!?」
「──走って!」
走りながら弓を引く。矢を番える。放つ。また引く。
路地を折れ、また折れる。
変異体の足音が背後に響く。重く、規則的な音。疲れを知らない追跡者の足音だ。
弓は残り二本。
角を曲がる前に一本を放つ。
肘の関節に命中して、変異体がよろける。わずか数秒。それだけの時間を稼いで、また走る。
角を曲がった瞬間──柚葉が足をもつれさせた。
「きゃっ——」
「柚葉!」
茜が咄嗟に腕を掴んで引き起こす。
その一瞬で、変異体との距離が詰まった。
……もう逃げ切れない。
最後の一本を番える。
手が震えている。息が上がっている。それでも照準を合わせようとした瞬間、足がもつれた。
祈るように放った矢は、あらぬ方向へ飛んだ。
けれど——矢は空中で向きを変えたように見えた。
「……え?」
首の付け根。
ヘッドギアの機械の接合部に、矢が深々と突き刺さる。
駆動音が激しく乱れ、変異体がその場に膝をついた。
「……今のうち!」
二人で走る。
路地の奥、シャッターが半分開いたままのビルに飛び込んだ。下を潜り、内側から一気にシャッターを下ろす。そのまま暗い室内へ転がり込んだ。
……暗がりで、息を殺す。
外で変異体が再び動き出す気配がした。
辺りを探し回る気配がして……やがて遠ざかっていく。
二人とも、その場にへたり込んだ。
「……はぁ、はぁ……」
「大丈夫?」
「なんとか……」
柚葉が乱れた息のまま、薄暗い室内を見渡した。
どこかの事務所だったらしい。デスクが並んで、書類が散乱している。窓に光が差し込んで、埃がゆっくりと舞っていた。
「……お兄ちゃん、って言ってたよね」
しばらくして、柚葉が静かに言った。
「……うん。でも、見間違いかも」
茜が膝を抱えて、俯く。
「でも、もしそうじゃなかったら」
「今は——」
茜が首を振った。
「今は、晴翔さんたちのところへ行かないと」
それだけ言って、立ち上がった。




