第82話 記憶が、あまりないんだ
やがて、開けた道路に出た。
片側二車線の幹線道路。歩道の街路樹には散乱したゴミが溜まっている。
コンビニの自動ドアは割れて枠組みだけ。駐車場に停められた車は、いつ帰ってくるとも分からない持ち主を無言で待っている。
空だけが、妙に青くて綺麗だった。
辺りにゾンビの姿はない。二人の足音だけが、静かなアスファルトに響く。
「ねぇ、茜」
柚葉が隣に並んで、何でもないように切り出した。
「茜って──晴翔のこと、好きでしょ」
茜の歩幅が、一瞬だけ乱れた。
「……突然、だね」
「だって、何か話してないと、切羽詰まるじゃん。あと、前からちょっと聞いてみたかった」
茜は前を向いたまましばらく黙っていた。
テナントの二階の窓ガラスが割れていて、風が吹くたびにカタカタと鳴っていた。
「……やっぱり柚葉は、鋭いね」
「否定しないんだ」
「否定できないから」
あっさり言った。柚葉が目を丸くする。
「えっ、思ったより素直に認めた」
「隠してもしょうがないかなって」
茜が少し苦笑いする。
「最初は、よく分からなかったの。ただ、頼りになる人だなって。でも……一緒にいる時間が長くなるにつれて」
言葉が途切れる。
「なるにつれて?」
「……この人がいなくなったら嫌だな、って思うようになって。それが今日みたいに現実になりそうになると、こんなに怖いんだって分かって」
柚葉は何も言わずに聞いている。
「だから多分……やっぱり、そういうことなんだと思う。あんまり恋愛とかしたことないから、よく分からないけど」
茜が少し照れたように視線を落とした。風に揺れる電線の向こう、遠くの山並みに目をやる。
「そっかそっか。確かに茜そういうのあんまり得意そうじゃないもんね」
柚葉がうんうんと何度も頷いて、それからドンと胸を叩いた。
「よし。ここは先輩に何でも聞いて!」
「……柚葉って、恋愛経験豊富なの?」
歩きながら、茜が少し振り返って聞き返す。
「まぁ、それなりに。だいたいロクな終わり方しなかったけどね」
ペロリと舌を出して、柚葉が笑ってみせた。
「えぇ……それは少し心配だな、先輩」
「何でよ! 大丈夫だって!」
「本当に……?」
立ち止まって顔を合わせ、二人同時に笑う。
それからまた、並んで歩き出した。
しばらく無言で歩いていると、茜が少し難しい顔で俯いた。何か言いかけて、飲み込んで、また口を開く。
「……経験が無いっていうのは、奥手なのもあるけど、それだけじゃなくて」
「どいうこと?」
「実は……私、高校に入る前の記憶が、あまりないんだ」
「……え?」
「交通事故で。だから、それまでのことがはっきりしなくて」
柚葉が足を止めかけたが、茜は歩き続けた。柚葉も合わせて歩く。
「……それって、大丈夫なの?」
「うん。全く覚えてないわけじゃなくて、断片的に飛び飛びって感じ。日常生活にはほとんど問題ないんだけど……頭を激しく打っていて、結構危なかったらしくて。一生植物状態でもおかしくなかったって、後から聞いた」
淡々とした口調だった。でも、どこか遠くを見ているような目をしていた。
「でも、お父さんとお母さんの研究のお陰で奇跡的に回復したんだって。だから、少し記憶が無いくらい、全然マシだと思ってる」
「そ、そうなんだ……」
「普段はあまり人に話してないから、内緒にしておいてくれると嬉しい。……ごめんね、急に重い話して」
「ううん」
柚葉が、茜の肩にトンと頭をくっつけた。
「大事な事、話してくれて、嬉しい」
それだけ言って、また前を向く。茜も前を向く。
「あー、じゃあ私も何か秘密打ち明けたいけど、そんな凄いのないんだよな。どうしよ……今まで一番酷い目に遭った男の話でもする?」
「……別に聞きたくないかも」
「何でよ! 聞いてよ、ホントに酷くてさ! 街でナンパされた自称コンサル業の男だっただけど──」
「えぇ……なにそれ」
荒れた街の中で、二人の笑い声だけが妙に柔らかく響いた。まるで、何でもない休日に買い物に来た仲の良い女友達の会話みたいに。
忍び寄る影に、気付く余地は無かった──




