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第78話 ホアジャオあったらもっと良かったけど

 倉庫の中は想像以上に暗かった。

 当然だ、電源が生きているはずもない。

 天井の蛍光灯は沈黙したまま、外からの僅かな光だけが埃っぽい空気の中に差し込んでいる。


 目が慣れてくると、倉庫の広さが輪郭を持ち始めた。天井まで届く金属製のラックが何列も並び、パレットの上に段ボール箱が積み重なっている。

 どれも業務用のサイズで、一箱でも相当な量が入っているはずだった。

 奥には冷蔵・冷凍区画があるらしく、ドアが並んでいたが、電源が落ちた今は中身がどうなっているか分からない。


 女は、そんな暗がりの中を迷いなく歩いていた。

 ラックの間を進みながら、棚の商品を手に取っては眺め、少し考えて袋に入れていく。缶詰、乾麺、レトルトのパウチ。選ぶ基準があるのか、それとも気分なのか、とりあえず判断が早かった。


 俺と蒼は入り口近くで立ち尽くしたまま、声をかけあぐねていた。

 あれは、敵なのか、味方なのか……? 危険性は?


 だがあの目を思い出すと、口が動かなかった。


「ひとつ尋ねたい」


 不意に、女の方から声がきた。

 こちらを向いている。薄暗い倉庫の中で、緋色の目がはっきりと見えた。その目に捉えられると、理由もなく背筋が固まった。


「な、なんだ」


「この中で、日持ちの良い食料はどれだ」


 女は棚を一瞥して、俺を見た。

 俺が答えるより先に、蒼が前に出た。


「缶詰が一番です。未開封なら数年は持ちます」


 蒼はラックの間を進みながら続けた。


「レトルトも悪くないですが、パウチが破れてないか確認した方がいい。あとは乾麺——パスタや蕎麦。水さえあれば調理できます」


 蒼がラックを指差した。暗くてよく見えないが、確かに“鯖の水煮缶”と箱に書いてあるようだ。

 女は一度だけ頷き、蒼の言葉を確かめるように箱から缶詰を一つ手に取った。

 状態を確認しているのか、マジマジと缶を眺めてから袋に入れる。それを黙々と繰り返した。


 俺はその間、女から目を離せなかった。

 やがて、物資を回収し終えた女が袋を肩にかけ、入り口へ向かって歩き出した。


「あ、あの」


 蒼が声をかけた。女の足が止まる。


「僕たちも、貰っていいですか」


 一瞬の間があった。


「……好きにしろ」


 女は振り返らなかった。


「どうせ二人では食べきれん」


 ……二人?

 俺たちのことを言っているのか。だが——それだと意味が少し分からないが。


 ふと、女が思い出したように顔を上げた。


「あぁ、そうだ。ホアジャオはあるか?」


「ほ、花椒ですか? ……無い、んじゃないですかね」


 蒼が答えると、女は一瞬、ほんの少しだけ眉を顰めたが「そうか」と一言だけ答え、入り口から姿を消した。


 後は……追えなかった。いや、追う気になれなかった、がそれが正しい気がする。


「……行くぞ」


 蒼に声をかけて、俺は棚に向かった。

 缶詰を手に取る。大丈夫だ、全く問題ない。蒼が奥から飲料水のボトルを運んでくる。二人で無言のまま、手際よく荷物をまとめた。

 両手が塞がるほどの食料と、水が数本。これだけあれば、しばらくはどうにかなる。


 荷物を持ち上げると、思わずふらつくほどに重い。そういえばあの女、軽々と肩に担いでいたが……。


 倉庫を出ると、女の姿はどこにもなかった。

 ただ、あの真紅の瞳を思い出させるような、血だまりだけが残っていた。


 ◆ ◆ ◆


 「あ、おかえりー」


 マンションのドアが開いた瞬間、遥が顔を上げた。ソファに寝転がって本を読んでいた体勢から、ぱっと起き上がる。


「食料、あった?」


「あぁ。これでどうだ」


 ロゼリアが荷物を床に下ろすと、どしゃりと重い音がした。

 遥が飛びつくように袋を覗き込む。


「わ、缶詰いっぱいある。さんまの蒲焼き、コーン、大豆——あ、これトマト缶じゃん。パスタできるじゃん」


 続いてレトルトのパウチを引っ張り出す。


「カレー! しかもバターチキンに、シーフド。やった」


「そんなに嬉しいものか」


「嬉しいよ。種類あると全然飽きないし」


 遥は袋の中身を床に並べ始めた。棚卸しでもするつもりなのか、几帳面に缶詰を縦に揃えていく。


「ねね、頼んでたホアジャオあった?」


「……いや、無かった」


「そっかー」


 遥は特に落ち込む様子もなく、また袋に手を突っ込んだ。


「それは、大切なものだったのか?」


「まぁ、無くても何とかなるけど。あると炒め物の出来が変わってくるんだよねー。あの痺れる感じがさ」


「……そうか」


 ロゼリアはドレスのスカートをひらつかせ、椅子に腰を下ろした。長い金髪が背もたれに流れる。遥がコップに水を注いで机に置いた。


「そういえば、生存者に会った」


 遥の手が止まった。


「えっ、ほんと? 大丈夫だった?」


「大丈夫、とは。どういう意味だ?」


「あー、えと。色々と」


「……ふむ。特に問題は無かったと思うが」


 ロゼリアの目がほんの微かにだけ揺れる。


「どんな人たち?」


「中年の男と、若い男」


「ほぉほぉ」


 遥が前のめりになった。


「ロゼリア的評価は?」


 ロゼリアは少しだけ面倒そうな顔で答える。


「中年の方は何も。若い方は——歳の割に良い目をしていた」


「え、ロゼリアの好みってこと!?」


 遥の目が輝く。


「……是非に及ばん」


 ロゼリアが小さく笑った。口元だけで、静かに。


「なんでよー」


 遥はしばらく文句を言っていたが、やがて台所へ向かった。


 IHコンロの上に置かれたカセットコンロに火をつける。フライパンにオリーブオイルが引かれ、ニンニク、トマト缶と順に入れていく。

 マンションの広い一室に、荒廃した世界には場違いなほど豊かな匂いが広がった。


「できたよ」


 やがて、遥が二つの皿を机に運んだ。鮮やかな赤のトマトリゾットだ。

 ロゼリアは無言で皿を引き寄せ、フォークを手に取った。

 一口食べて、少しだけ目を細める。


「……悪くない」


「でしょ」


 遥が得意げに笑った。


「ホアジャオあったらもっと良かったけど」

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