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第75話 父や母があの化け物を作ったんでしょうか

 薄らと、夜が明け始めていた。


 闇が灰色に変わり、輪郭だけの世界がじわじわと形を取り戻していく。

 鳥の声がした。どこか遠くで、一羽だけ。

 この世界でまだ鳥が鳴いていることが、妙に場違いに思えた。


「……おい、起きろ」


 部屋の隅に座り込んだ蒼に声をかける。


「起きてます」


 即答だった。

 まぁ、そうか。この状況で熟睡できる方がどうかしている。俺も結局、うとうとした程度だった。


 床から立ち上がり、窓から外を窺う。道沿いに動くものはない。追っ手の気配もなければ、ゾンビの姿もない。今のところは。


 あの後、俺たちは無事に基地を脱出した。

 最大の難関だと踏んでいた正門は、拍子抜けするほど手薄だった。見張りは僅か。その隊員の視線も全員、内側の混乱に引き寄せられていた。

 それだけΣによる被害が甚大だったということだろう。秋山の蒔いた混乱は、俺の想定以上だった。


 基地から出来る限り距離を取り、闇夜の中をひたすら走った。そして、山沿いの道で見つけたのがこの小屋だ。

 農業用か何かの設備小屋で、鍵も壊れていた。中に身を隠して夜を明かした。


「車を探しながら街に向かうぞ」


 朝日山基地は山中にある。平時なら歩いて半日ほどの距離だが、ゾンビを警戒しながらとなると話が変わる。数日前にここまで車で来られたのだから、使える車が一台あれば大幅に楽になる。


「野田さん」


 蒼が向こうから口を開いた。初めてだった。


「水と食料は?」


「何だ、腹が減ったか。あの状況だ、無い。しばらく我慢しろ」


「いえ、大丈夫です。先の心配をしただけです」


 俺は少し蒼を見た。

 歳の割には冷静だ。昨夜、小屋に入ってからも騒ぎ立てることなく、息を殺して座っていた。追っ手を警戒しているのがわかっているのか、余計な口も利かなかった。

 元々慎重な性格なのか、それとも基地での生活で肝が据わったのか。どちらにせよ、足手まといにはならなそうだ。


「行くぞ。俺が前、お前は背後を警戒しながらついて来い」


「わかりました」


 小屋のドアを開ける。

 山沿いの道に、朝の風が吹いた。木々の匂いと、湿った土の匂い。場違いなほど爽やかだった。空が黒から深い藍に変わっていく。穏やかな夜明けだった。

 世界が終わりかけているとは、とても思えない朝だ。

 俺は舌打ちをして、歩き出した。


 ◇ ◇ ◇


 街は、相変わらず死んでいる。

 街自体は変わらずまだそこにある。建物も、道路も、信号も。ただそこに人の気配がない。


 風に揺れる商店の旗、ひっくり返ったままの自転車、誰かが脱ぎ捨てたのか道端に転がる片方だけの靴。日常の残骸が、そのまま化石になったみたいだった。


 俺と蒼は、その中を無言で歩いていた。

 山を下りてから一時間ほど。ゾンビの姿は散発的で、今のところ群れには遭遇していない。距離を取りながら、物陰を伝いながら、じわじわと街の中心部へ向かっている。


「……静かですね」


 蒼が呟いた。


「騒がしいよりマシだ」


「そうですね」


 また沈黙。

 悪いやつじゃない、とは思う。

 余計なことを喋らないし、足も引っ張らない。だが気を使われているのか、向こうから踏み込んで来る事はなかった。まぁ、俺もそうだが。


 角を曲がったとき、蒼が足を止めた。


「あそこ、何かありませんかね?」


 視線の先に、コンビニがある。ガラスが割れ、棚が外まで倒れている。荒らされた形跡が遠目でもわかった。


「駄目だな。とっくに荒らされてる」


 蒼は少し考える素振りを見せた。


「……あの、一つ提案があるんですが」


「なんだ」


「この辺りに、外食チェーンの食品倉庫があるはずです。『丸和フーズ』って会社、知ってますか。関東圏のファミレスや定食屋に食材を卸してる大手で、この街に配送センターがあるんです」


 俺は蒼を見た。


「なんでそんなことを知ってる」


「有名な会社ですよ。大きなチェーンはだいたい自前か提携の物流拠点を持ってるんです。立地も、トラックが入りやすい幹線道路沿いが多い。コンビニやスーパーと違って一般の人は場所を知らないし、鍵もかかってる。荒らされにくいはずです」


 俺はしばらく蒼を眺めた。


「……お前、何者だ」


「ただの大学生です」


 蒼は少し苦笑した。


「普段、自分が食べている物がどこから運ばれてくるのかとか、気になりませんか?」


「全く。食えればそれでいい。……お前は頭が良いんだな」


 素直にそう言うと、蒼は少し意外そうな顔をした。褒められ慣れていないのか、それとも俺が褒めるとは思っていなかったのか。どちらでもいい。


「父親も、何か凄い仕事をしてるんだろう? 隊の上官と一緒に居た」


 何気なく言ったつもりだったが、蒼の足が一瞬だけ止まった。


「……父は、研究者なんです。脳神経系の。母も同じ分野で」


「……それは、凄いな」


 蒼は前を向いたまま続けた。


「二人とも、もともとは記憶障害の治療をしてたんです。事故や病気で記憶をなくした人を助けるための研究で。すごく難しい仕事で、でも父も母もそれが好きで」


 俺は黙って聞いていた。


「それが、何であんな化け物と関係が。父や母があの化け物を作ったんでしょうか」


 その声には感情がなかった。感情がなさすぎて、かえってわかった。整理しきれていないのを、必死に押さえ込んでいる。


「……まだ何も分かっていない。変に考え過ぎるな。今はまず自分の身の安全が優先だ」


 蒼は少し間を置いた。


「……はい」


「よし、行くぞ」


 それ以上はお互いに何も言わなかった。


 幹線道路に出ると、蒼が「あっちです」と指を差した。道路沿いに、大きなフェンスに囲まれた施設が見える。『丸和フーズ 第三配送センター』と錆びかけた看板に書いてあった。


 フェンス越しに、敷地内の様子が見えた。

 荒らされた様子は少なくともここからは見えない。だが、駐車場に、倉庫の周囲に、ゾンビがうろついている。十や二十じゃない。


「……多いな」


「どうしますか」


 蒼が静かに聞いた。


「……待っててどうにかなる訳でもない。慎重に行くぞ」


 俺は物陰に身を潜めて、敷地内に歩みを進めた。

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