第74話 あの子は──希望だ
──気圧されてる場合じゃない。
行くなら今だ。
窓から離れ、部屋のドアに手をかけた。
ゆっくり開け、廊下を覗く。
誰もいない。
外からは怒声と銃撃音が絶え間なく飛び込んでくる。足音を隠す必要すらなかった。
廊下の角ごとに壁に背を貼り付けて、人影がないことを確かめながら進む。こっちは丸腰、武器を持った相手と鉢合わせれば終わりだ。
だが隊員たちはほぼ全員、外のΣに駆り出されているらしい。廊下は嘘みたいに空っぽだった。
無事、建物の出口を抜けると、外の空気が火薬の匂いを帯びていた。
暴れ回るΣ変異体。
遠目に見えるその巨躯が、隊員を薙ぎ払うたびに怒号が上がる。絶え間ない射撃。全員の視線がそちらに引き寄せられていた。
その隙にトラックの陰を伝いながら基地内を進む。腰を落として、影から影へ。
途中、向こうに正門が見えた。
混乱で人が薄い。残っている隊員たちも、視線はΣに向いている。
……逃げるなら今だ。
このまま正門を抜けて、一人で消えることもできる。秋山との約束なんて、反故にしたところで誰も文句は言えない。そもそも俺は、そういう人間だ。
トラックの陰から飛び出す。
そして──正門とは逆の方向、奥の棟へ向かって、走った。
別に、義理や人情じゃない。ただの損得だ。あの父親、基地の中でもかなりの重要人物と見えた。ここで恩を売っておけば、いずれ大きな見返りがあるかもしれない。それだけだ。
棟のドアの前には見張りが一人。
そのとき、基地の奥で爆発音がした。
あの化け物が他でも暴れてるんだろう。
辺りにいた隊員たちが声を掛け合い、駆け出した。見張りも迷った様子を見せたが、仲間の声に引っ張られるように奥へと向かった。
今だ。
建物に駆け寄り、ドアを引く。
……が、鍵がかかっていた。
舌打ちしかけたとき、建物の物音がした。
角を回って裏手に駆け寄ると、丁度窓から人影が飛び出してきた。着地して、顔を上げて——俺を見た。
そして一目散に逃げようとする。
「秋山だな!?」
止まらない。
当然だ。軟禁されてたのなら、この状況、迷わず逃げるだろう。
「待て、お前の父親に頼まれてる! ここから一緒に逃げるぞ!」
男が、止まった。
ゆっくりと振り返る。
若い。二十代前半か。背は高く、体つきはしっかりしている。顔には数日分の無精髭と、隠しきれない疲労の色。だが目だけが、鋭く光っていた。
その目が、俺を頭から足まで値踏みした。
信用していない。当然だ。
だが、逃げなかった。
「……あなた、誰ですか」
「野田だ。自衛隊員だが、警戒しないでくれ。ここの連中とは関係ない」
足早に距離を詰めると、男の目に警戒の色が濃くなる。
「時間がないのはわかるな。一緒にここから逃げて、妹——秋山茜と合流するぞ」
「……!?」
男の顔色が変わった。
「茜のことを知ってるんですか!? 茜は無事なんですか!?」
「あぁ」
少なくとも、数日前までは。
だが今はそんな話をしている場合じゃない。銃声は鳴り止まない。時間があとどれだけあるかわからない。
「とにかく逃げるぞ。お前の父親が作ったこの機を逃す訳にいかない」
「父もここに居るんですか!?」
「お前——何も知らないのか?」
男は一瞬、口を引き結んだ。
「……はい。街で妹を探していたところ、自衛隊員に保護されて……そのままずっと外出も許可されず」
「そうか」
保護、という名の監禁か。こいつも俺と同じだ。
表向きは安全を保証し、その実は奴らのコマだ。やり口が汚い。
「あの! 逃げるなら両親も一緒に!」
「無理だ、時間がない」
「でも——」
言い合っていると、不意に背後に気配を感じた。
慌てて振り返る。
「──蒼! 無事か」
秋山だった。混乱の中を駆けてきたのか、息が上がっている。白衣のまま、髪が乱れていた。
「父さん!」
男——秋山蒼が駆け寄る。
秋山は息子の肩を両手で掴み、頭から足まで確かめるように見た。
「良かった。無事だな」
「父さんの方こそ。母さんは!?」
「母さんも基地にいる」
「良かった……。茜も無事って?」
「あぁ。そちらの……野田さんの話によると、学校に居るそうだ。物資も充分らしい。お前もそこへ避難して、茜と合流しなさい」
蒼は周囲を見渡した。
トラックの残骸、倒れた隊員、銃撃の嵐を受けながら平然と動き続ける巨躯。
「状況が見えないんだけど。この騒ぎは何なの? あの化け物は!?」
「あれは——」
秋山が言葉を噛み殺した。一瞬だけ、何かに耐えるような顔を見せる。
「……いいか蒼、よく聞くんだ」
声が変わった。
息子を心配する父親の声から、覚悟を決めた男のものに。
「私の職場はわかるな。茜をあそこへ連れて行くんだ」
「茜を? 何で?」
すぐ近くで爆発音が響いた。
反射的に三人揃って建物の陰に姿を隠す。
燃料に引火でもしたのか……基地の中で火の手が上がっている。
「詳しく話す時間はない。とにかく、行きなさい!」
秋山はポケットから小さなUSBメモリを取り出した。蒼の手を取り、その掌に乗せ、ぎゅっと握らせる。
「父さんたちも脱出しないと!」
「私は……まだやらないといけないことがある」
秋山の視線が、Σに向いた。取り囲んでいた隊員の数は、もう半分以下になっていた。
「まさか——あの化け物をどうにかするつもり!?」
「私が蒔いた種だ。私が止める」
「無茶だよ!」
「策は用意してある」
秋山の声は穏やかだ。この状況で、穏やかすぎて、かえって不安なほどに。
「お前は先に行きなさい。後で母さんも連れて合流する」
蒼は父親の顔を見た。
秋山はまっすぐ息子を見返す。
嘘をついている顔じゃない。けれど、不安を必死に噛み殺しているように見える。
蒼は大きく息を吸い込んで、頷いた。
秋山が蒼の肩を一度だけ叩いた。それから、俺の方を向く。
「野田さん、お願いします」
「あぁ」
俺の返事に、秋山は小さく頷いた。
それから蒼に向き直り、静かに言った。
「蒼、茜を頼む」
一拍置いて。
「あの子は——希望だ」
秋山がもう一言何か言おうとして、口を開いて——閉じた。
言葉にならなかったのかもしれない。
俺は蒼の腕を引いた。
「行くぞ」
走り出しながら、一度だけ振り返る。
秋山はもうこちらに背を向けて、基地の奥へと走って行った。




