第73話 緊急警備体制に移行
夕飯を終え、ベッドに腰掛ける。
見飽きたこの部屋が、独房に見えてきた。
壁が狭い。天井が低い。
清潔なベッドも、鍵のかかるドアも、全部が檻の一部に思えてくる。人間の感覚というのは正直なもので、真実を知ってしまうと、見えるものが全部変わる。
夜が更けるにつれ、基地内が静まり返っていく。
昼間でさえ静かな場所が、夜になると一層、音を失う。廊下の足音も、遠くの無線音も、やがて途切れた。
窓際に立って、外を眺める。
秋山が言っていた棟。正面から見て右斜め、フェンス寄りに建つ古い建物だ。
入り口には見張りがいる。だが昼間と比べると、夜中は一人だけのようだ。確かに手薄といえば手薄か。
腕時計を確認すると、時刻は零時を過ぎていた。
約束は二時。まだある。
俺は窓から視線を巡らせながら、頭の中で何度も試行錯誤した。
もし、秋山が失敗していたら。
何も起きなかったら。
その場合、俺はどうする。
今日の准尉の目を思い出す。
あの視線は、もう答えを出している人間の目だった。時間の問題だ。このまま大人しくしていれば、近いうちに俺は、実験用のモルモットと同じ運命を辿ることになる。
だとすれば、一か八か動くしかない。
夜間、基地内の巡回はそこまで多く無い。タイミングを見計らえばどうにかなる。
問題は正門だ。ライトで煌々と照され、常時複数の見張りがいる。闇に紛れたところで、突破は難しい。何度考えても、正門だけがどうにもならなかった。
昨日までの自分を呪った。
退屈だと思いながら部屋でぼんやりしていた時間が、今となっては信じられない。知りようがなかったといえ、もっと早くから脱出を考えておくべきだった。動ける時間があったのに、何もしなかった。
その後悔が、じくじくと頭の隅を刺した。
やがて──腕時計が、二時を告げた。
……。
……何も起こらない。
三十秒。一分。
(秋山、失敗したか?)
——そう思いかけたが。
遠く、基地の奥が俄かに騒がしくなった。
怒声。走る靴音。何かが倒れる音。それらが折り重なって、夜の静寂を食い破るように広がってきた。
そして。
警報が、けたたましく基地内に響き渡る。
『緊急警備体制に移行。実験体Σ-05、および06、管理区画にて拘束プロトコル崩壊を確認。全隊員は直ちに所定の配置につけ。非戦闘員は待機区画へ移動。繰り返す——緊急警備体制に移行』
俺のいる棟も慌ただしくなった。
廊下に足音が溢れる。装備を整える金属音。ドアの開く音。隊員たちが一斉に外へ駆けていく気配が、壁越しに伝わってきた。
(秋山、やるじゃないか)
思わず、口の端が上がった。
次だ。あとは——。
だかそのとき、外から異様な音がした。
金属を叩くような、鈍い衝撃音。
俺は窓に張り付いた。
例のトラックが、揺れていた。
続いて、二発目。
鈍い、重い音だ。金属が内側から叩かれるような、嫌な響き。
三発目は、少し早かった。
四発目、五発目——間隔が縮まっていく。まるで何かが、外に出ようと暴れているように。
武装した隊員たちがトラックを取り囲むように集まってきた。
手にしているのは89式小銃、それから数人はミニミ軽機関銃まで構えている。基地の中でこんな重武装をぶっ放すつもりか。流れ弾がどこに飛ぶか、考えていないのか——いや、そんな余裕もないんだろう。隊員たちの顔が、それを物語っていた。
次の瞬間。
荷台が、内側から爆ぜた。
分厚い鉄板が一枚、まるで紙切れのように吹き飛んだ。十メートル近く空を切り裂いて、隣の建物の外壁に深々と突き刺さる。激突音が遅れて届いた。
荷台の幌が千切れる。
そして──それが姿を現した。
人の形をしている。
確かに、人の形だ。頭があって、肩があって、腕と脚がある。だがそのスケールが、根本的に違った。優に三メートルを超える巨躯。肩幅だけで成人男性が二人は入る。
首から全身を覆うように纏っているのは、黒ずんだ重装のコートだ。軍用の防弾素材を複合したような代物で、動くたびに鎧のように軋んで見えた。
顔にはゴーグル付きのマスク。
そのゴーグルが、赤く光っていた。
大男は荷台の上に立ち、動かない。
隊員たちも、動けなかった。
銃口を向けたまま、誰も引き金を引けない。その圧に、全員が飲まれていた。
沈黙が流れた。
どれくらいだったか。体感では十秒以上あったかもしれないし、実際には三秒だったかもしれない。
何の前触れもなく——大男が跳んだ。
荷台を蹴り砕くほどの踏み込みで、隊員の陣形に真っ直ぐ突っ込んだ。
丸太のような右腕が横に薙ぎ払われる。それだけで、三人がまとめて吹き飛んだ。受け身も取れずに地面を転がった隊員たちの首が、あらぬ方向を向いていた。
あれは、助からない。
そういう確信が、見ているだけでわかった。
それを合図にしたように、一斉射撃が始まった。
銃声が重なり合って、もはや単発では聞き取れない。89式の乾いた破裂音、ミニミの連続した咆哮が、夜の基地に反響する。銃弾の雨が大男を包んだ。
が。
まるで効いていない。
弾かれている。全部。
重装コートに着弾するたびに火花が散る。だが大男はそれを、まるで気にしていなかった。弾丸が当たるたびに僅かに揺れるが、止まらない。歩みが止まらない。
俺は窓に張り付いたまま、息を呑んでいた。
(あれが……Σか)
秋山が言っていた変異体。鉄の箱に詰められていた代物。これが、軍の作ったものの正体か。
俺は——あれの素体にされるところだったのか。
胃の底が、冷えた。




