第72話 春日晴翔……あいつか
「息子が、この基地にいる。連れて逃げてくれ。そして娘……茜と合流して欲しい」
秋山は続けた。
声はあくまで低く、静かだ。
だが、その静けさの裏に何かが張り詰めているのが、俺にはわかった。
「研究に協力しなければ、息子を素体にすると言われている。だから従うしかなかった。ずっと」
俺は黙って聞いた。
同情はしない。そういう感情は、この世界じゃとっくに贅沢品になった。
だが、状況は理解できる。人質を取られて飼い慣らされているなんて、よくある話だ。俺がつい先日居た場所もそんなような所だった。……いや、俺がそうしていた。
「息子は向こうの棟にいるはずだ。見張りはいるが、手薄な時間帯がある」
「待て、逃げるったって」
腕を組んで秋山を見る。
「どこに逃げる気だ。外の状況は知ってるのか? 安全な場所なんて無い」
俺の返答に、秋山はほんの少しだけ黙った。けれど、俺の目を見て確信を持ったように口を開く。
「君たちは撃破したんだろう。Σ-03を」
俺は眉を上げた。
「何の話だ」
秋山が、わずかに目を細めた。
「……知らないのか? 学校に向かわせた03番個体が、突然生体反応を失った。戦闘開始のシグナルは確認されていた。相手側からの防戦もあった。だがダメージは軽微だった——にもかかわらず、突然生体シグナルが消えた。何らかの手段で、あの個体を倒したはずだ」
何も答えられない。
知らない。本当に知らない。俺がコミュニティを出たのはその前だ。
だが——
(心当たりは、ある)
不確定要素でしかない。俺が直接見たわけでもない。それでも、もしあの状況で何かをやったとしたら——
(春日晴翔……あいつか)
あの男は、妙だった。
至近距離から拳銃で撃たれて平気な男。
俺は外してなんかいない。あの距離で外す訳がない。なのにあいつは無傷で、それどころか目で捉えられないスピードで俺を倒した。
戦い方も、立ち回りも、どこかがずれていた。言葉では言い表せないが、常識の外側にいる人間だ。……いや、人間なのかも怪しい。
コミュニティで英雄扱いされていたのも、あながち大げさじゃなかったのかもしれない。
俺は息を吐いた。
「……わかった。話に乗る」
「本当か」
「選択肢がない。黙って素材にされるくらいなら、動いた方がマシだ」
それだけだ。
義侠心でも恩義でもない。ただの損得だ。このまま大人しくしていれば、いずれあの鉄の箱に詰められる。それだけは、御免だった。
「それで、どうやって逃げる。いくら非常時とはいえ、コソコソと抜けれるような警備じゃないぞ」
「騒ぎを起こす」
秋山は迷いなく言った。
「もう時間がない。今夜の深夜二時過ぎ、事故を装って——」
コン、コン。
ドアを叩く音がした。
秋山がぴたりと止まった。俺たちは一瞬、目を合わせた。
「……問診中だ。後にしてくれ」
秋山がドアに向かって答えた。
声は落ち着いていたが、震えが混じっているのがわかった。
だが。
「秋山博士、私です。入りますよ」
その声に、聞き覚えがある。
──准尉だ。
秋山の顔が、みるみる青ざめた。
俺は瞬時に表情を殺した。何でもない顔。ただ退屈そうにベッドに座っている男の顔。それだけでいい。
問答無用でドアが開く。
入ってきた准尉は、部屋を一瞥した。
機械のような目だ。感情を読ませない、全てを計算している種類の無表情。俺はああいう目をした人間が、一番信用できない。
秋山は背を向けたまま動かなかった。
肩が、かすかに上下している。息が乱れているのを、必死に隠そうとしていた。
「博士、なぜここに? 野田三曹の検診の担当ではないはずですが」
「……昨日の報告に気になる点があってね」
秋山はゆっくりと振り返った。声の揺れが、ほんの少し、落ち着いてきている。
「万一があってはいけないから、直接確認しに来たんだよ。担当から報告が上がっていないか?」
「いえ」
「それはおかしいな。まぁ、もう終わった。特に問題はなさそうだ」
そう言って、秋山は部屋を出ようとした。
准尉の視線が、ゆっくりと室内を流れる。
壁。ドア。俺。そして——机の上。
「博士」
准尉が呼び止めた。
秋山の肩が、わかりやすく跳ね上がる。
内心で舌打ちした。落ち着け、と念じたが、この状況ではどうしようもない。
「——注射は、良いのですか」
机の上には、薬液が満たされたままの注射器が置かれていた。
一瞬の沈黙。
「……これは、いかんな。私としたことが」
秋山が苦笑する。
演技にしては……わずかに間があった。准尉がそれに気づいていないはずがない……が。
「博士も疲れているのでしょう。たまには休まれては?」
「そ、そうだな。今の仕事がひと段落したら打診してみるよ」
秋山はトレーを取り、俺の腕を取る。慣れた手つきで注射器を構える。アルコールの匂いが鼻をついた。
針が刺さる。
(……栄養剤、じゃないだろうな。一体、何を打ち込まれているんだ)
考えるな、自分に言い聞かせる。
考えたところでどうにもならない。だが意識の端で、じわりと不快感が広がってくるのは止められなかった。
吐き気に似た何か、未知の物体が身体の中を、血管の中を駆け巡るような感覚に、鳥肌が立つ。
窓の外に視線を逃がして、それをやり過ごした。
准尉は無言のままこちらを見つめている。
動かない。喋らない。ただ、部屋の中を見ている。
秋山が注射器をトレーに戻した。できるだけ自然に、できるだけ普通に。だが俺には、その背中がわずかに強張っているのが見えた。
「では、失礼する」
秋山が歩き出す。
准尉は何も言わなかった。
ただ、その目だけが——秋山の背中を、最後まで追っていた。




