第6話 おかしくなったのは、二週間ほど前
茜はペットボトルに口をつけ、大切そうにほんの少しだけ水を口に含んでから、喉へと流し込んだ。
深く息を吐き、呼吸を整えると──ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「……おかしくなったのは、二週間ほど前だったと思います」
俺は頷き、続きを促す。
「連休に、大学生の兄と……ここの山奥にあるキャンプ場に来てたんです。異変に気づいたのは、帰る予定の日でした」
◆ ◆ ◆
「お兄ちゃん、朝ごはん焼けたよ!」
焚き火台の上のホットサンドメーカーを開けると、チーズとハムがとろりと溶けたこんがりパンが顔を見せた。
「お、茜、サンキュー。こっちもコーヒー入ったぞ」
兄がおしゃれなキャンプ用マグに淹れたコーヒーを手渡してくれる。
二人並んで椅子に座り、
「三日間とも晴れて良かったね」
「あぁ。天気予報通りだったな」
そんな会話を交わす。
連休に家でゴロゴロしていた茜を、兄が誘ってくれたのが今回のキャンプだった。
兄は大学でアウトドアサークルに所属しており、完全に“ガチ勢”。
一方の茜はキャンプ初心者だが、最近楽しさを覚えてきたところ。
「こんな良いキャンプ場が近くにあったなんてね」
「あぁ。もっと早く調べときゃよかったな。……またちょくちょく来るか」
「うん!」
朝食を終え、テントの撤収を始めていると、隣のサイトの老夫婦が声をかけてきた。
「お兄さんたち、今から帰り?」
「え? はい」
老夫婦は人柄の良い人たちで、昨日から少し会話をしていた相手だ。
「帰り、気をつけた方が良いよ。ニュース見たかい?」
旦那さんがスマホを持ち上げて見せる。
「いえ、すいません。キャンプ中はなるべく触らないようにしてて」
兄が申し訳なさそうに言うと、旦那さんは「いい心がけだ」と笑った。
だが──次の瞬間、兄の表情が強張る。
「……全国で、同時多発的に暴動??」
眉間に深い皺が寄る。
茜も急いでスマホを取り出し、SNSを確認すると、タイムラインは同じ内容で埋め尽くされていた。
「デモ、かしらね。外国人?」
奥さんが心配そうに旦那さんの肩越しに覗き込む。
「いや、そういった情報も無いようだが……」
旦那さんも曖昧に首を傾げる。
「分かりました、ありがとうございます。気を付けて帰ります」
兄は礼を言い、茜の方へ向き直る。
「茜、念のため今日は早めに片付けて、直帰しよう」
「うん……」
二人は急いで撤収を進める。
その横で、老夫婦もひそひそと話していた。
「私たちも早めに切り上げた方が良いかしらね」
「そうだな……」
その時──
キャンプ場の入口から、慌てた様子の家族連れが走ってくる。
「皆さん! 聞いてください!」
大声に反応して、周りのキャンパーたちが集まってきた。
茜と兄もそちらへ向かう。
「私たち、さっき帰ろうとしたんですが……この下の道が車で塞がれてて、通れなくなってます!」
ざわつく人々。
各サイトから、父親らしき人や若い男性が次々と集まり、質問が飛び交う。
「どういう状況ですか?」
「街へ降りる道を塞ぐように、車が横倒しになってて……。持ち主を探しても周りには誰もいなくて」
「警察に連絡は?」
「しました。でも、暴動の対応で人手が足りないらしくて……。こっちに来るには時間がかかるって……」
周囲はざわめきに包まれた。
「何かしら……熊でも出たとか?」
「暴動って……うちの街でも起きてたの?」
とりあえず、何人かが乗り合わせて“事故”の現場を見に行ったが──暗い顔で戻ってきた。
「ダメだ……大型のSUVが完全に道を塞いでる。あれ、数人で動かせるレベルじゃないぞ」
空気が一段階、重くなる。
「お兄ちゃん、どうしよ……?」
「茜、明日予定は?」
「何もないよ……。片付けするつもりだったし」
「それなら……もう一泊するか。食料なら多少余ってるしな」
茜と兄が相談していると、隣の奥さんが優しく声をかけてきた。
「もし困ったら言ってね。食べ物ならまだあるから」
「ありがとうございます!」
この時は──皆、まだ軽く考えていた。
長くても明日になれば、警察が来て、車がどかされ……みんな普通に家へ帰れるだろうと。
◇ ◇ ◇
自分たちのテントに戻ったあと、茜は念のため、仕事中の母親にメッセージを送った。
今日帰れなくなったこと。
老夫婦から聞いたニュースのこと。
道路が車で塞がれていること。
しばらくして、母からメッセージが返ってきた。
『街の方は今のところパトカーがよく走ってるくらいで、大きな混乱は無いみたいだよ。お父さんも早めに帰ってきて戸締りするって。あなた達も気をつけてね』
かわいいスタンプつき。
その言葉に、茜は胸を撫で下ろした。
兄も「なら大丈夫だな」と笑っている。
その日のキャンプ場は、まだ“日常”の空気が残っていた。
お客さんは十組ほど。
皆で声を掛け合い、予備の食料を確認し、「困った時は助け合いましょう」と笑顔で話し合う。
不安はあっても、まだ“余裕”があった。
──だが、事態が深刻化したのは夕方頃だった。
「……何か、おかしくない? ずっと話し中なんだけど」
キャンプ場中央にある小さな休憩エリアに、自然と出来た集まり。
その中で代表して警察に電話してくれていた女性が、スマホを耳から離して不安げな顔をしている。
「ねぇ、これ見て。ヤバくない?」
別の若い女性キャンパーがスマホの画面をこちらに向ける。
茜も覗き込んだ。
そこには、遠巻きに撮られた“暴動”の動画が。
異様だったのは──暴れている人々の様子だ。
顔は土気色に変色し、白目を剥き、口から涎を垂らし……千鳥足で誰かに噛みつこうとしている。
「これ、ほんとに……ただの暴動?」
誰も答えない中で、
「……感染症」
誰かが呟いた。
SNS上でも「暴動」から「謎の感染症」へと話題が変わり始めている。
未知のウイルス。
感染すると錯乱状態になり、暴れ回る──と。
けれど、政府は沈黙したまま。そのような発表は無い。
ラジオからは「デマに惑わされないように」という呼びかけばかり。
……しかし、この頃からだ。
SNS上で、はっきりと“ある単語”が飛び交い始めたのは。
──『ゾンビ』
……
やがて日が暮れ、キャンプ客は各々のテントで夜を迎えた。
「お兄ちゃん……大丈夫、だよね?」
「ん? あぁ。大丈夫だろ。何かあれば国から発表があるさ。まだ自衛隊も出てないし、とりあえず心配しすぎるな」
兄は茜の頭を軽く撫でて、安心させるように笑った。
茜は不安でたまらず、寝袋越しに兄の腕に寄り添って眠った。
◇ ◇ ◇
──翌朝。
キャンプ場の空気は一変していた。
日の出と共に外へ出ると、すでに何組かのキャンパーがスマホを持って集まっている。
「電波はあるのに、通話が通じない……」
「メッセージもエラー……反応なし……」
「ネットも繋がったり切れたり……」
そんな声があちこちから。
大人たちが輪になって相談し、小さな子供を連れた家族は、ここに留まるか、無理にでも下山するかで揉め始めている。
そのとき、キャンプ場入口から車が入ってきた。
「……ダメです。やっぱりあの車、まだ動いてません」
様子を見に行っていた人達から、昨日と同じ報告が上がる。
事故車はビクともしないという。
別のキャンパーが焦った声をあげる。
「じゃあ……徒歩で下山するしかないのか?」
「子供はどうするのよ!」
「でもこのまま山にいても……」
「もし熊だったら? それか、例の暴動だったら?」
「街の状況が分からないと、何とも……」
不安が、波のように広がっていった──




