第52話 ……行こう
不敵な笑みを浮かべたまま、魔王が一歩、こちらへ近づいた。
ハイヒールが、アスファルトを軽やかに鳴らす。
たったそれだけで、まるで死が一歩近付いた気がした。空気が重くなり、皮膚が粟立つ。
剣を構え直して、いつでも切り掛かれる体制を取る。全身の筋肉が緊張し、魔力が体内を駆け巡るのが熱となって感じる。
フェリも後ろ脚で大きく地面を掴んだ。氷の爪が地面に食い込み、バキバキと音を立てる。
「──ほぉ、雪狼の小娘も一緒とは。久しいな」
まるで殺気を見せない魔王に、フェリは喉を震わせながら警戒の声を出す。
低く、唸るような声。八重歯を剥き出しにして、今にも飛びかかりそうだ。
「……まぁ、そう警戒するな」
魔王が、肩をすくめる。
「別にお前達と事を構えるつもりはない。アレを──拾いに来ただけだ」
そう言って──地面に崩れ落ちた、大男の死体を指差した。
そして、肩に担いだ大鎌を軽く一振り。
鎌は滴る血のように地面に落ち、音もなく消えた。まるで最初から存在しなかったかのように。
(……武器を仕舞った? この状況でか?)
心臓が早鐘を打つ。
罠か? 何を企んでる?
……いや、この女の事は誰よりも詳しく知っている。嘘をついて、不意打ちをするような奴じゃない。
自分が“魔王”である事を誇りに思い、そして苦悩し続けてきた、孤高の王なのだから。
俺も、剣を鞘に収める。
「ハ、ハルト?」
フェリが驚いて俺を見る。その目が、信じられないと訴えている。
それを掌で制した。
「……本当に、お前なんだな」
俺の問いに、魔王は不敵に微笑んだ。その笑みが、懐かしくもあり、恐ろしくもある。
「改めて聞くが。……ここで何をしている?」
「ふむ。話すと長くなるが……」
魔王が言葉を切った、その瞬間。
「──ロゼリア。その辺にしよう」
……別の声。
気を取られていて、全く気づかなかった。
魔王の背後、物陰から一人の人物が現れる。
その姿を見て──俺は腰を抜かしそうになった。
足が震え、呼吸が止まる。
「何……で……?」
声が、かすれた。
「……遥」
そこに立っていたのは──俺の妹だった。
長い黒髪。
目元の泣きボクロ。
見間違えるはずのない顔立ち。
だが、その表情は──俺の知る、人懐っこい妹とは違う。
どこまでも冷たく……遠い。
「遥! そいつから離れろ! そいつは──」
咄嗟に駆け出すが、俺を無視して遥は魔王に声をかける。
「……行こう」
冷たい声。
まるで俺の事を……たった一人の家族を、軽蔑するような、感情のない声だった。
魔王は表情を変えないまま、俺を見た。緋色の目が、じっと俺を捉える。
「では、またな」
二人の元に駆け寄ろうとした瞬間、魔王が手を翳す。
瞬間──空間が歪んだ。
コウモリを模った魔力の群れが二人を包み──霧のようにその姿を消した。
「待て! 遥!」
叫ぶが、もう遅い。
後には何も残っていない。
……魔王にしか使えない、高度な空間転移魔法だ。
追いかけることも、止めることもできない。
「ハルト」
フェリがペタリと尻餅をつきながら俺を見る。不安そうな目で、じっと。
何も返事が出来なかった。
言葉が出ない。頭が真っ白になっている。
遥が──魔王と一緒にいた。
……なんで。どうして?




