第49話 秋山 茜、という人物に聞き覚えはあるか?
──待て、と言われてから、どれくらい経っただろう。
静かすぎる基地の音が、逆に耳障りだ。
遠くで発電機が唸り、どこかで金属が擦れる音がする。
人がいる気配はあるのに、雑音がない。会話も、足音も、生活音も。まるで、全てが規律で縛られているような静寂。不気味だった。
ドアが開いたのは、椅子の背に体重を預け直した、その直後だった。
隊員服姿の男が、二人。
一人は張り詰めた空気を纏った中年。背筋が伸び、一挙一動に威圧感がある。
階級章は二佐か。随分と“上”が出てきたもんだ。
もう一人は年配で、機械のように冷たい目をしている。
階級章は──准尉。
……准尉?
俺は思わず背筋を伸ばした。心臓の鼓動が早くなる。
二佐が出てくるのは、この施設の中枢クラスだと考えれば、まだ理解できた。
だが、准尉が同席する理由が思いつかない。
准尉といったら、問題が起きた時に呼ばれ、後始末をする側の人間だろ。
たかが三曹一人の帰還報告に、呼ばれる役職じゃない。
「陸上自衛隊、朝日山方面隊所属。長谷川だ。階級は二佐」
低い声でそう名乗った男が、正面の椅子に座る。動作の一つ一つに、無駄がない。
「同じく、准尉の佐藤だ」
もう一人は簡潔に言い、二佐の隣に腰を下ろした。
「野田三曹。よく戻ってきてくれた」
二佐が穏やかに口を開いた。
だが、その目は明らかに笑っていない。
「正直に言うとだな。君の所属していた部隊は、全滅したと判断していた」
一瞬、胸の奥がひりついた。
──全滅。その言葉が、重く響く。
「……自分だけが、生き残りました」
声が、少しかすれた。
「詳しく聞かせてくれ」
促され、俺は言葉を選びながら話し始めた。
任務中にゾンビの群れに襲われ、部隊が瓦解したこと。
俺だけが偶然、生き延びたこと。
二人は黙って聞いている。表情を変えず、ただじっと。
「……その後、近くの学校を拠点に、民間人を中心としたコミュニティを作りました」
二人の視線が、僅かに鋭くなる。
空気が、張り詰めた。
「それで、つい昨日、ショッピングモールから大量の物資を回収できまして。正直、素人だけで管理するには限界があると判断しました。そのため、隊に支援をお願いしたく、危険を顧みず帰還した次第です」
……どうだ。
この状況で物資とコミュニティは良い手土産だろう。
「……なるほど」
二佐が、ほんの少し眉を動かした。
「だが、あのショッピングモールには──」
言いかけて、口を閉じる。
それを遮るように、准尉がぽつりと言った。
「それよりも」
穏やかな二佐の口調とは違い、まるで感情のこもっていない機械のような声。
場の一気に空気が、変わった。
「学校の場所を。物資の内容と、回収経路を詳しく」
地図を描き、回収した品目を挙げ、警備状況なども説明する。
二人は時折メモを取りながら、黙って聞いている。
話し終えると、二佐は一度だけ、頷いた。
「状況は把握した。戻って直ぐだというのに、すまなかったな」
その一言で、肩の力が抜けかけた──その時。
「ところで、野田三曹」
二佐が、何気ない口調で続ける。
だが、その目は──鋭い。
「秋山 茜、という人物に聞き覚えはあるか?」
心臓が、嫌な音を立てた。
ドクン。
なんだ、この質問は。
「……先日、学校に逃げ込んできた女子高生が、確かその名前だったと思います」
二人の表情が、はっきり変わった。
驚き。そして──確信。
まるで、探していたものを見つけたような。
「そうか」
二佐が、小さく息を吐く。その肩が、僅かに下がった。
「よくやった。物資なんかよりも、余程重要な情報だ」
……重要な情報? あの小娘がか?
俺の理解が追いつく前に、二人は顔を寄せ、小声で言葉を交わし始めた。
「近くで動ける者は?」
「ショッピングモール付近を、Σ-03が捜索中です」
聞き慣れない符号が、耳に残る。
Σ-03?
俺は、恐る恐る口を挟んだ。
「あの……自分は、どうすれば?」
二佐は、俺を見たまま、少し考える素振りを見せた。
その視線が、俺を値踏みするように感じた。
「あぁ、その前に」
静かな声。
「“変異体”という言葉に、聞き覚えはあるか? もしくは、実際に見たことは?」
変異体。
あの、犬の化け物のことか?
「……えぇ。ショッピングモールに居た、という噂ですよね。今は、不在のようですが」
再び、密談。
だが今度は、二人顔を合わせて頷き合うだけだった。何かを確認するように。
「そうか。なら十分だ」
二佐は立ち上がり、柔らかな笑みを浮かべた。
「ご苦労だった、野田三曹。今日はゆっくり休んでくれ。部屋を用意させよう」
その笑顔が、どうしても──歓迎のものには見えなかった。
扉が開き、別の隊員が部屋に入ってくる。
「野田三曹、こちらへ」
促されるまま、部屋を出る。
背後から確かに感じる、准尉の視線が、背中に冷たく刺さる。
廊下を歩きながら、さっきの会話が頭の中でぐるぐると回った。
秋山 茜。変異体。Σ-03。
何が、起こっている?




