第40話 北風の化身
足音を殺し、周囲の気配を探りながら──ショッピングモールの入り口に辿り着いた。
自動ドアは開いたまま、固定されていた。
中から、冷たい空気が流れ出てくる。
(……入るか)
一歩、中に踏み込む。
瞬間──空気が、一気に冷え込んだ。
「……っ」
肺に染みる痛みに驚くと、いつの間にか息が白くなっていた。
霧は、さらに濃い。
視界が悪く、三メートル先も見えない。
そして──気温は、凍えるほどに低い。
周りのガラスが、凍結している。
窓ガラス、ショーケース。全てが、白く曇って磨りガラスのようだ。
衣料品売り場の夏服が、妙に場違いに感じる。
Tシャツ、短パン、サンダル。どれも、この寒さには似合わない。
静まり返った店内を、慎重に進む。
いつの間にか、足元の床にも氷が張っていた。
パキ、パキ、という音が、靴底から響く。
まるで、ガラスを踏んでいるかのような音だ。
(……なんだ、この寒さは)
異常だ。明らかに、自然現象ではない。
店内を見渡す。
倒れたマネキン。散乱した商品。壊れたレジ。
それらに紛れて──。
「……これは」
そこらじゅうに、氷漬けになったゾンビがいた。
壁際に、通路に、商品棚の間。至るところに、氷の彫刻のように固まったゾンビたち。
手を伸ばしたまま。口を開けたまま。走り出そうとした姿勢のまま──全て、完全に凍りついている。
(……まさか。いや、あり得ないだろ)
脳裏によぎる、ある光景。それを振り払いながら、さらに奥へと進む。
食品売り場を通り過ぎる。
照明もなく薄暗い店内で、食品が新鮮なまま氷漬けになっていた。
パンも、肉も、野菜も──全て、時が止まったかのように、そのままの状態で凍りついている。
……まるで、この空間全体が巨大な冷凍庫みたいだ。
床に転がった、氷漬けになった食品のパッケージを拾う。真空パックになっている物は、賞味期限はまだまだある。
もし停電になってからすぐ氷漬けになったのなら、食べられる物が大量にあるだろう。
物資の回収は後からにするとして……俺は、吹き抜けになったエントランスに出た。
広い空間。天井は高く、二階、三階へと続く階段とエスカレーターが見える。
だが──相変わらず霧で視界は悪い。
その時──。
ガサッ。
上から、音がした。
反射的に、上を見上げる。
霧の向こう──二階の手すりに、何かの影が見えた。
大きい。
それが──ゆらりと動いた。
「──っ!」
慌てて、後ろに飛び退く。
ドシャァッ!
俺が立っていた場所に、何かが飛び降りてきた。
床がひび割れ、氷が砕け散る。
そして、霧が少しだけ晴れた。
そこにいたのは──。
巨大な、狼。
いや。ただの狼じゃない。
白銀の毛皮。鋭い爪。太い四肢。
そして──トラックほどもある、巨大な体。
「……まさか、フェンリル」
思わず、呟いていた。
異世界でも伝説急の魔物。
北風の化身──フェンリルが、こちらを見た。
神秘的に蒼く光る瞳が、俺を捉える。
そして──。
床を一掻きし、飛びかかってきた。
「くっ!」
咄嗟に横に転がって、突進を避ける。
フェンリルの爪が、床を引き裂く。
ガリガリという、耳障りな音。
「……おいおい、マジかよっ!?」
軽やかな身のこなしで、フェンリルが再び飛びかかってくる。
──速い。
ゾンビなんかとは比べ物にならない。
咄嗟にイベントリから剣を取り出し、その一撃を受け止める。
ガキィン!
フェンリルの爪と、刃がぶつかり合い火花が散った。
だが──フェンリルは怯まない。
そのまま、俺を押し込んでくる。
「……っ!」
なんて馬鹿力だ。
反撃に転じようとするが、体格差に任せた力押しに、攻撃を繰り出す隙がない。
このままでは、ジリ貧だ。
その時──。
フェンリルの大きな前足が、俺の胸を押さえつけた。
「ぐっ……!」
床に押し倒され、背中が冷たい床に叩きつけられる。
魔力で防御してなかったら、この一撃でペシャンコになっていただろう。
フェンリルの顔が、ゆっくりと近づいてくる。
大きく開かれた口。鋭い牙。
(間違いない──こいつやっぱり)
「──わかった! わかったから、やめろ! 遊んでやるから落ち着け」
俺は魔力を集中させ──フェンリルの鼻の頭をポンポンと撫でた。
その瞬間。
ペロ。
フェンリルが──俺の顔を、思いっきり舐めた。
ペロペロペロ。
何度も、何度も、舐めてくる。
そして──尻尾を、嬉しそうにフリフリ。
「……やっぱり、お前か! お前に戯れ付かれると、下手したら死ぬって何回も言っただろ!」
思わず、叫んでいた。
だが、フェンリルは止まらない。
むしろ、さらに激しく舐めてくる。
「ちょ、コラ! いつまでじゃれついてんだ! やめろ」
俺が少し力を入れて押し返すと、フェンリルはヒョイと後ろに下がった。
そして──お座り。
尻尾を、フリフリ。
「……てか、何でお前がここにいる!?」
『ウー、ワンワン!!』
フェンリルが、吠える。
「わからん、わからん。変身解け」
そう言うと、フェンリルは何かを思い出したように頷いた。
そして、淡い光に包まれる。
その身が、みるみる小さくなっていく。
光が消えた時──そこにいたのは。
小さな、女の子だった。
白銀の髪。やや眠たそうな、蒼い目。小さな体。
そして──頭には、狼の耳。
後ろには、ふさふさの尻尾。
「……フェリ」
俺は、呆然と呟いた。
「ハルトぉ!」
獣人の少女──フェリが、勢いよく飛びついてきた。




