第101話 勇者ハルトは決して許しはしない
重い沈黙の中で、茜がそっと俺を振り返った。
その顔は青ざめていた。
怖くないはずがない。
けれど、その目は不思議なくらい静かだった。
「……私、行ってきます」
「茜」
思わず名前を呼ぶ。
茜は小さく笑った。
泣きそうな、でもどこか吹っ切れた笑みだった。
「もちろん、怖いです。すごく怖いです。でも……」
一度、胸の前で手を握る。
「ゾンビに噛まれたとき……私、一回死んだって思ったんです」
その言葉に、胸の奥が嫌に冷えた。
「あのときは、もう終わりだって。何もできないまま、ただ死ぬだけなんだって思ってました。でも、今は違う」
茜はまっすぐ前を見たまま言う。
「ただ死ぬだけだと思ってたのに、もし私が世界の人を助けられるなら……そんなの、すごいことじゃないですか」
「すごくなんかない」
気づけば、言葉がこぼれていた。
「茜が犠牲になって良い理由にはならない」
茜は少しだけ目を伏せた。
それから、静かに首を振る。
「それでも、です」
「……」
「私は、元の世界の方が好きだから」
その一言は、妙にまっすぐ胸に刺さった。
「ちゃんと朝が来て、電車が走ってて、コンビニがあって、みんなが普通に笑ってる世界の方が……やっぱり好きです」
言いながら、茜は少しだけ俺を見る。
「晴翔さんにも、笑って生きてほしいです」
息が止まる。
それほど長い時間を一緒に過ごしたわけじゃない。
ほんの少しだ。
短い、短い時間だ。
なのに——
茜のいない世界で、自分が笑って生きている姿なんて、まるで想像できなかった。
「……ダメだ。俺は、認めない」
自分でも情けないくらい、かすれた声だった。
手を伸ばす。
せめて、その手を取ろうとした。
けれど。
茜はそれをそっと避けるように、一歩、前へ出た。
俺の指先は空を切る。
何も言えなかった。
どうすればいい。
これは、茜が自分で決めたことだ。
誰かに脅されたわけでも、強要されたわけでもない。
自分で考えて、自分で選んだ。
なら、俺は何を言えばいい。
本人の意志までねじ伏せて止めることはできない。
俺にできることは、何だ。
俺は、こんなにも無力なのか。
「──まったく」
静かな声だった。
けれど、その場の空気を一瞬で塗り替えるほど、よく通った。
「わざわざ様子を見に来てみれば。まさかお前のそんな腑抜けた顔を見る羽目になろうとはな」
はっとして顔を上げる。
そこに立っていたのは——
「……ロゼリア」
魔王、ロゼリアだった。
金の髪を揺らし、いつものように不遜な笑みを浮かべている。
だが、その目だけは妙に冷えていた。
その背後には、遥もいる。
遥はすっとロゼリアの前に出た。
そして、じっと俺を見た。
睨むように。
呆れるように。
情けないものでも見るように。
「お兄ちゃん……ダッサ」
軽蔑したような声だった。
だが、分かる。
これは遥なりの叱咤だ。
しっかりしろと。
そんな顔で立ち止まるなと。
言い返すこともできない。
ロゼリアが一歩、前へ出る。
「どうした?」
唇の端を吊り上げる。
「誰かの犠牲の上に世界を救うなど——我の知る、勇者ハルトは決して許しはしない。そう思っていたがな」
その声は嘲るようでいて、どこか試すようでもあった。
俺は何も答えられない。
ロゼリアはそんな俺を見て、肩をすくめる。
「なにも、世界を救うのは──初めてではなかろう?」
3/28、12:20と19:20の二回投稿で最終回です。
今日までありがとうございました。後少し、お付き合いください。




