第100話 私が行けば、みんな、助かるんですか……?
静まり返った空間に、誰かの息を呑む音だけがやけに大きく響いた。
真っ赤な結晶の腕を垂らしたまま、大佐は立っている。
その背中を見つめる一同の顔には、さっきまでの混乱とは別の色が浮かんでいた。
驚愕。
恐怖。
理解の追いつかない畏怖の感情。
「な……何だ、それは……」
准尉が唇を震わせる。
その隣で、二佐も顔を青ざめさせていた。
「一体、何が起きた……?」
総理もまた、信じられないものを見る目で大佐に問いかけた。
「何が、あったんだ?」
大佐はしばらく黙っていた。
赤い結晶の腕を一瞥し、それから面倒そうに息を吐く。
「さあな。正直、俺も全部は分かってない」
少し考えるような間。
一瞬、俺の方を見た。
そして、結晶の腕ではない方の手で、地面に転がる准尉たちを指差した。
「そこの奴らに、注射を何本か打たれた」
その一言に、准尉と二佐の顔色が変わる。
「注射……?」
「まさか……あの投与実験で、ここまでの変化が……」
二人は互いの顔を見た。
そこにあるのは喜びでも成功への興奮でもない。
ただ、想定外を前にした純粋な戸惑いだった。
門前にいた自衛隊員たちは、すっかり戦意を失っている。
あのΣすら比較にもならない程の生物を目の前に、ただただ呆然と立ち尽くす。
さっきまでの威圧も大義も、もうどこにも残っていない。
そこへ、ようやく門番たちが動いた。
「武器を捨てろ!」
「抵抗するな!」
銃口を向け、じりじりと包囲を狭めていく。
さすがに今度は、誰も逆らえない——そう思った。
だが。
二佐が、ふらつきながら立ち上がった。
「お、おい!」
「止まれ!」
門番たちの制止を振り切って、二佐は前へ出る。
向かう先は——茜だった。
俺は反射的に一歩前へ出る。
まだ何かするつもりか。
そう思って身構えた、その瞬間。
二佐は、茜の目の前で膝をついた。
そして、そのまま地面に両手をつき——額を土へ擦りつけるように、深く頭を下げた。
「どうか……」
声が掠れている。
「どうか、人類を助けて欲しい」
「……え?」
茜が息を呑む。
誰も、すぐには状況を理解できなかった。
ついさっきまで、命令口調で連れて行こうとしていた男だ。
その男が、今は地面に額を擦りつけて懇願している。
二佐は顔を上げないまま、絞り出すように続けた。
「アンチ・Re-Memory Protocol……その設備自体は、もう完成しているんです」
その言葉に、総理が眉をひそめる。
「資料には、まだ研究段階だと」
二佐は即座に言い切った。
「いえ、設備はすでに基地内にあります。先日の事故で、今も火災に巻き込まれている。ですが、仲間たちが命がけで守っている。あれが失われれば、もう二度と同じものは作れない」
そこで初めて、二佐が少しだけ顔を上げた。
煤と汗と土にまみれた顔。
その目は、狂気ではなく焦燥に濁っていた。
「ただ……まだ一つ、未完成なんです」
嫌な予感がした。
「茜さんの脳波を装置へ接続する技術が、完成していない」
場の空気がさらに冷える。
「今のままでは、外部装置から無理やり接続するしかない。外科的な手術が必要です」
茜の指が、俺の服をさらに強く掴んだ。
「そ、それって……」
二佐は数秒だけ黙り込んだ。
言い淀んだ、その一瞬で全部伝わってしまう。
「正直に言います。……おそらく、何らかの後遺症は残るでしょう」
「何らか、じゃ分からない。具体的には?」
茜を背中に隠しながら問う。
「記憶障害。運動機能の低下。言語野への損傷。感情の平坦化……最悪の場合、二度と目覚めない可能性もあります」
「ふざけるな!」
思わず声を荒げた。
「そんなの、交渉の余地もないだろ! 茜を人柱にするつもりか!?」
「違う!」
二佐が顔を上げ、叫び返す。
その目には涙すら滲んでいた。
「違うんだ……! 俺だって、そんな形は望んでいない! だが他に方法がないんだ! ここで止めなければ、もう人類は終わる!」
その言葉に、誰もすぐ反論できなかった。
終わる。
その現実味は、もう十分すぎるほど分かっている。
街は壊れ、人は死に、軍も政府も機能不全だ。
このまま何もしなければ、いずれ全てが食い潰される。
二佐は再び額を地面につける。
「頼む……! 我々は確かに間違えた! やり方も、人としても、取り返しがつかないところまで来ている! だが、それでもあれだけは……あれだけは、本当に人類を救えるかもしれないんだ!」
土に額を押しつけたまま、声が震える。
「仲間たちが今も燃える基地の中で必死で守ってるんだ……! 死ぬかもしれないと分かっていて、それでも残ってる!」
茜が小さく息を吸う。
その顔は真っ青だった。
怖いはずだ。
当たり前だ。
たった今、自分の命と引き換えに、世界を救えと言われているのだから。
「何なら、もし、自分だけが犠牲になるのが納得いかないと言うなら」
総理は立ち上がり、隊員達の前に並んだ。
「ここに居る全員を撃ち殺して貰っても構わない! 元より覚悟の上で来た。だから、どうか……!」
深く、深く頭が下げられる。
沈黙の中、乾いた風が流れた。
「私が、行けば……」
か細い声。
「みんな、助かるんですか……?」
二佐は顔を上げた。
答えに詰まる。
そして──大きく一つ、頷いた。




