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大きな追跡と小さな意志

夜明け前の空はまだ群青に沈んでいた。吐く息は白く、体にまとったボロ布は冷気を防ぎきれない。それでもイシュマエルは歩みを止めなかった。町の灯りは遠く、背後にはまだ眠る家々が連なっている。そこは、自分にとって居場所のなかった場所。だが離れれば離れるほど、不安が心臓を締め付ける。

「……俺は、どこに行けばいいんだ」

呟きは風に溶ける。誰も答えない。けれど立ち止まれば、あの侯爵の手が伸びてくる。そう確信できた。

レオノル侯爵――町を影から支配し、人の命すら金の重さで測る男。その名を聞いただけで大人が黙り込む権力者に、イシュマエルは一度、逆らってしまった。餓えに耐えかねて盗みに入った屋敷で、偶然侯爵の財に触れた。それが命を狙われる理由になるのだから、この世界はあまりにも残酷だ。

小川のほとりで水をすすぎ、乾いたパンをかじる。舌に広がるのは、苦みと石のような硬さだけ。胃袋を埋めるには程遠いが、それでも生きるために口へ押し込む。

しかしその時、不意に耳に届く音があった。

――馬の蹄。しかも複数。

イシュマエルは慌てて立ち上がり、茂みに身を滑り込ませた。心臓が喉から飛び出しそうになる。侯爵の追手か。いや、そうに違いない。

やがて視界の向こうに、黒い外套をまとった数人の男が現れた。鉄で補強された手甲、腰には剣。馬を操る仕草にも隙がない。明らかにただの兵ではない。

「この辺りに足跡があったはずだ。小僧はまだ逃げていない」

「見つけたらどうする?」

「生かして返すな。侯爵様の命令だ」

背筋が凍る。息を殺し、枝を握り締める手が震える。生きるために逃げ出しただけなのに、待っているのは死。これが、権力者に逆らう者の末路。

足音が近づいてくる。枝が折れる音すら大きく響く気がした。逃げ場はない。

――その時だった。

「おい、待て!」一人の男が馬を止めた。「茂みが揺れたぞ!」

目が合った。次の瞬間、剣が抜かれ、怒号が響いた。

イシュマエルは反射的に走り出した。脇腹が裂けるように痛む。それでも足を止めれば終わりだ。

だが追手は容赦なく迫ってくる。背後から矢が飛び、木の幹に突き刺さった。あと少し逸れていれば、頭を貫かれていた。

「くそっ……!」

必死に駆けるが、限界は近い。視界が揺れ、呼吸は喉を裂くように苦しい。足は鉛のように重く、何度も転びそうになる。

――終わるのか。

絶望が胸を満たした瞬間、目の前に裂け目のような谷間が広がった。深い森を切り裂くような断崖。行き場は、もう後ろか、落ちるか。

振り返れば、追手が笑って迫っていた。

「逃げ場はないぞ、小僧!」

恐怖で体が固まる。だが、なぜか心の奥から声が響いた。

(まだ終わりじゃない。お前は……生き残るんだ)

イシュマエルは震える手で足元の石を掴んだ。自分でも馬鹿げていると思う。だが何もせず死ぬよりは、抗って死にたい。

「来るな……来るなぁ!」

叫びと同時に石を投げる。ごつん、と鈍い音がして、先頭の男がよろめいた。わずかな隙。

その瞬間、イシュマエルは断崖を飛んだ。

風が耳を裂く。重力に引かれる感覚。体が宙に浮き、心臓が凍り付く。

――死ぬ。

そう思った刹那、下に茂る木の枝が身体を受け止めた。衝撃で息が詰まり、意識が飛びそうになる。それでも枝が折れ、葉が舞う中、どうにか地面に転がり落ちた。

全身に痛みが走る。呼吸もままならない。だが、まだ生きている。


「どこへ消えた!?」

上から追手の怒鳴り声が響く。しかし谷底は深く、木々が視界を遮っていた。

イシュマエルは口の中に溜まった血を吐き出しながら、必死に体を動かした。痛みを堪え、泥にまみれ、這うように森の奥へと進む。

――生き延びなければ。ここで死ねば、何の意味もない。

その夜、満身創痍の彼は小さな洞窟に辿り着いた。濡れた体を丸め、石の上で震える。寒さが骨まで染み込む。それでも目は閉じられない。

「俺は……生きる。絶対に」

弱々しい声が洞窟に響き、やがて静寂に溶けた。

夜空には雲間から星が覗いていた。小さな光が、闇に取り残された少年を見守るように瞬いていた。

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