光と剣の邂逅
夜の冷たい風が、路地裏にひっそりと潜む廃屋を吹き抜けた。
かつては倉庫か住居だったのだろう、今は壁は崩れ、屋根の穴から月明かりが差し込んでいる。イシュマエルは荒い息を整えながら、背中を石壁に預けて座り込んでいた。市場の衛兵を撒いたのはいいが、腹の空きは誤魔化せない。胃袋がぎゅう、と締め付けるように痛み、空虚さが心まで蝕んでくる。
「……クソ、今日も何も食えなかった。」
吐き捨てるように呟いたその視線の先に、瓦礫に半ば埋もれるようにして置かれた古びた木箱があった。誰かが残したまま忘れ去った物らしい。イシュマエルは力なく立ち上がり、惰性でその蓋を開ける。
中には埃にまみれた布切れや錆びた食器が散乱していた。しかし、その中央にだけ、不自然なほど清らかに光を反射する物があった。
一本の剣――それはあまりに場違いだった。
「……なんだ、これ。」
刃は鞘に収められ、柄の部分には複雑な文様が彫り込まれている。月光を浴びた瞬間、金色のような輝きがかすかに浮かび上がった。まるで呼吸をしているかのように、剣は淡い光を脈動させている。
イシュマエルは、喉が渇くような感覚を覚えた。飢えではない。
それはもっと深い、心臓を掴まれるような衝動だった。
気づけば、手が伸びていた。
柄に触れた瞬間――
「ッ……!」
雷鳴のような衝撃が全身を貫いた。視界が白に塗り潰され、頭の奥に声が響いた。
――目覚めよ。
――選ばれし者よ。
幻聴か、それとも剣が語りかけているのか。イシュマエルには分からなかった。ただ、確かに心臓の奥深くに熱が灯り、今まで感じたことのない力が流れ込んでくるのを覚えた。
「な、なんだよこれ……!」
手を放そうとしても、剣は彼の掌に吸い付いたように離れない。呼吸は荒く、胸は痛いほど鼓動している。だが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、ずっと求めていたものに触れたような、空腹とは違う満たされる感覚があった。
「……オレを、呼んでたのか?」
誰も答えない。しかし光は彼の問いかけに応えるように、さらに強く脈打った。
その時だった。
「おい! そこに誰かいるのか!」
外から怒鳴り声が響き、複数の足音が近づいてくる。さっき撒いたはずの衛兵たちだ。廃屋の入口を照らす松明の光がゆらめき、影が幾つも差し込んでくる。
「クソッ、見つかったか……!」
イシュマエルは慌てて立ち上がった。逃げ場は狭い。もう一度走っても追いつかれるだろう。剣を捨てて身を隠すべきか――そう考えたが、手はどうしても柄を放そうとしなかった。
「やるしか、ない……!」
衛兵たちが突入してきた。三人、いや四人か。棍棒を振りかざし、薄汚れた孤児を追い詰めようとする。
「ガキが、散々盗みやがって……今度こそ捕まえてやる!」
イシュマエルは剣を構えた。だが剣を握ったことなど一度もない。手は震え、足もすくむ。
次の瞬間、棍棒が振り下ろされた。
「うわっ!」
反射的に剣を振り上げる。すると、まばゆい光が迸り、木の棍棒は触れた瞬間に弾かれ、粉々に砕け散った。
「な、なんだと!?」
衛兵たちが目を見開き、後ずさる。イシュマエル自身も驚いていた。力任せに振ったはずなのに、剣が勝手に軌道を導いたようだった。しかも、その一閃に宿った光は、ただの武器の輝きではない。
まるで自分を守るために、剣そのものが戦っているかのようだった。
「来るな!」
叫ぶと同時に、剣を振る。再び光が弧を描き、衛兵たちは怯えて後退した。
「馬鹿な……ただの孤児じゃないのか……!」
「剣が……光ってやがる……!」
彼らは恐怖に駆られ、ついに逃げ出した。松明の明かりが遠ざかり、廃屋に静寂が戻る。
イシュマエルはその場に膝をついた。
剣を見つめる。まだ淡い光を放ち続けていた。
「……オレに、力をくれるのか?」
答えはない。けれど、不思議と心の奥に確信があった。
――これはただの武器じゃない。
――オレを生かすための、運命だ。
これまで何度も死にかけた。飢えに、暴力に、冷たい街の視線に。
だが今は違う。握り締めたこの剣がある限り、もう怯えて逃げるだけの自分ではいられない。
「絶対に……生き抜いてやる。オレを捨てた奴らを見返してやる……!」
夜空を仰ぐ。月が静かに照らしていた。
光の剣と共に、少年の運命は動き出した。