光る剣の囁き
イシュマエルの手の中にあった剣は、ひどく古びていた。鞘はひび割れ、鍔には錆がこびりつき、刀身も曇っている。だが、ただ一つだけ異様に思えた。握った瞬間、刃の奥から淡い光が漏れたのだ。火の粉のように瞬きながら、彼の指先をなぞる。
「……なんだ、これ」
彼はごくりと喉を鳴らした。
長年、盗みを重ね、どんなに価値のありそうなものも見てきたが、これほど奇妙な代物は初めてだ。金貨にも食糧にも換えられそうにない。ただ、不気味に光っているだけの鉄の塊。
だが――手を離せなかった。
じんわりと掌に温もりが広がり、腹の底にくすぶる飢えや恐怖を押し流すように、不思議な安堵感を与えてくる。
そのときだった。
――イシュマエル。
かすかな声が頭の奥に響いた。
心臓が跳ね上がり、剣を取り落としそうになる。
「だ、誰だ!?」
廃屋の中には、彼ひとりしかいない。壁は崩れ、外の街灯の明かりが隙間から差し込んでいる。影の中から人の気配はない。
再び声がした。
――選ばれし子よ。
「……ふざけるな。俺はただの捨て子だ。誰に選ばれるもんか」
イシュマエルは叫んだ。怒り混じりの声が、崩れた壁に虚しく跳ね返る。
それでも剣は光を失わず、声は続いた。
――この刃は、おまえを導く。力を求めるなら、我を振るえ。
彼は剣を凝視した。これまでの人生で、信じられるものなど何もなかった。家族には捨てられ、大人たちには疎まれ、同じ孤児たちにすら裏切られてきた。
だが、この刃だけは、確かに彼を「名前で呼んだ」。
胸がざわつく。
……もしかしたら、これが自分を変えるものかもしれない。
「……力が、欲しい」
少年は低く呟いた。
飢えない力、追われない力、誰にも怯えずに済む力。
その瞬間、剣の光は一際強くなり、廃屋の中を白銀の輝きが満たした。
翌朝。
市場の喧騒はいつもと変わらなかった。行商人が声を張り上げ、物乞いが人混みに紛れ、衛兵たちが目を光らせている。
だが、イシュマエルの心は昨夜から揺さぶられたままだった。
布の下に隠した剣は、今もかすかに温もりを帯びている。
気のせいか、彼の耳は市場のざわめきをより鮮明に拾えるようになり、目は細かな動きまではっきりと見分けられるようになっていた。
「……本当に、力をくれたってのか」
思わず笑みがこぼれる。
だが次の瞬間、衛兵の怒声が飛んだ。
「そこのガキ! また盗みをしやがったな!」
別の孤児が菓子を盗んだらしい。だが、衛兵の目はイシュマエルを見据えていた。いつものことだ。街の人々にとって、盗人といえば彼の名前がすぐに出る。罪をなすりつけられるのは日常だった。
衛兵が迫ってくる。
イシュマエルは布の下に隠した剣に手を伸ばした。心臓が早鐘のように鳴る。
抜けば、何かが変わる――そんな予感があった。
だが、彼は踏みとどまった。
市場で刃を振るえば、今度こそ逃げ場を失う。人々は恐れ、衛兵は容赦なく殺すだろう。
「……クソッ」
彼は人混みをすり抜け、裏路地へ走った。
衛兵たちが怒声を上げて追う。
細い通りを抜け、行き止まりに追い詰められた。
振り返ると三人の衛兵が迫っている。
「逃げ場はねぇぞ、ガキ!」
その瞬間、剣がひときわ熱を帯びた。
握れ、と囁くように。
「……ああ、わかったよ」
イシュマエルは剣を引き抜いた。
曇った刃が空気を裂くと、光が奔った。目を焼くほどの閃光に、衛兵たちは怯んで後退する。
イシュマエル自身も驚いた。
刃を振るった覚えはないのに、身体は自然と動き、彼らの攻撃を弾き返していた。
「な、なんだこの……!」
衛兵の一人が剣を取り落とす。
イシュマエルは慌てて後退し、その隙に路地を抜け出した。
息を荒げながら走り続け、廃屋に戻ると、膝から力が抜けて倒れ込んだ。
剣は静かに輝きを収めている。
彼の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
「……やっぱり、ただの剣じゃない」
恐怖と興奮が混じり合う。
だが確かに彼は、生まれて初めて「自分の力」で追手を退けたのだ。
その夜、イシュマエルは剣を抱いて眠った。
飢えも、寒さも、孤独も消えはしない。
だが心の奥底に、小さな灯がともったように感じていた。
――もしかしたら、俺の人生は変わるのかもしれない。
翌日から街は妙な噂でざわめいていた。
裏路地で衛兵を圧倒した「光る刃の孤児」の話が、広まっていたのだ。
まだ誰も知らない。
それが、後に国を揺るがす物語の始まりになることを――。