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9.清潔感? いいえ彼は……

「我が魂に刻まれしは古の盟約……」


 あの、自称・龍の血を引くエドガー様との衝撃的な顔合わせから数日。わたくし、エリザベスは、あの日の出来事を思い出すだに、こめかみがズキズキと痛むのでございます。


 知的で落ち着いた方だなんて、どの口が申しましたことか! ……わたくしの口ですわね! ああもう! 釣書の情報など、何一つ信用できませんわ!


「お嬢様、あまり思い詰められますな。本日の殿方は、由緒正しい侯爵家の御嫡男。釣書を拝見した限りでは、それはもう絵に描いたような好青年でいらっしゃいましたぞ」


 セバスチャンが、わたくしのささくれだった心を宥めるように、穏やかに声をかけてくれます。


「ええ、ええ、セバスチャン。わたくしも、今度こそは、と……ええ、わずかながら期待しておりますわよ?『普通』より少し上、くらいの方かもしれない、なんて……甘いかしら?」


「いえいえ、お嬢様なら、きっと良縁に恵まれますとも」


 その言葉、何度聞いたことでしょう。もはや祈祷の域ですわ。


 本日の顔合わせのお相手は、アルフレッド・シュタインフェルト様。名門中の名門、シュタインフェルト侯爵家の次期当主でいらっしゃいます。


 肖像画で拝見したお姿は、まさに貴公子の鑑。橙色がかった金髪は艶やかで、グリーンの瞳は誠実さを物語っているかのよう。育ちの良さが滲み出ておりました。


(今度こそ……! 今度こそ、『普通』の……いえ、願わくばまともな方でありますように!)


 切なる祈りを胸に、わたくしは指定されたホテルのティーラウンジへと向かいました。


 そこには、肖像画で見た通りの、いえ、それ以上に輝かしい青年が、姿勢良く座っておりました。


「アルフレッド様でいらっしゃいますね? エリザベス・ヴァイスリングにございます」


 わたくしが挨拶をすると、アルフレッド様はすっと立ち上がり、完璧な角度でお辞儀をなさいました。


「エリザベス嬢。お会いできるのを楽しみにしておりました。アルフレッド・シュタインフェルトです。どうぞ」


 その所作、声、表情、どれを取っても非の打ち所がございません。まるで、教科書から抜け出してきたかのよう。


(まあ……! なんて素晴らしい方なのでしょう! 清潔感に溢れていらっしゃるわ!)


 第一印象は、これ以上ないほどに良好でございました。


 席に着き、運ばれてきた紅茶を一口いただく。その仕草すら、アルフレッド様は絵になりますの。


「エリザベス嬢は、普段どのような事にご興味をお持ちで?」


 穏やかな微笑みと共に、会話が始まりました。趣味の話、好きな書物の話、当たり障りのない社交界の噂話。どれもこれも、実に穏当で、知的な会話が続きます。


(ああ……! なんてことでしょう! わたくし、ついに『普通』で、しかも素晴らしい方とめぐり逢えたのかもしれないわ!)


 わたくしの心は、春の陽だまりのように温かく、希望に満ち溢れておりました。


 ……ここまでは。


 会話が一段落した時、わたくしはふとハンカチを取り出し、軽く口元を押さえましたの。すると、アルフレッド様の眉が、ほんのわずかに寄せられたのを、わたくしは見逃しませんでした。


「……エリザベス嬢。失礼ながら、そのハンカチ……染料は何をお使いで?」


「え? あ、これは……確か、草木染めだったと……」


「そうですか。草木染めといえど、媒染剤によっては人体に有害な物質が含まれている可能性も否定できません。特に、その鮮やかな色合い……少々気になりますな」


 え……?

 わたくしのハンカチは、淡いピンク色の上質なシルクで、決して派手なものではございません。それなのに、有害物質……?


 戸惑うわたくしをよそに、ティーラウンジのウェイターが、美しい焼き菓子を乗せたワゴンを押してきました。


「お茶菓子はいかがでございましょうか?」


 色とりどりの可愛らしいお菓子に、わたくしは心が躍りましたのに、アルフレッド様は、それらを一瞥しただけで、顔をしかめなさいました。


「結構です。見ての通り、着色剤がふんだんに使われているようだ。このようなものを口にするのは、自ら毒を摂取するに等しい」


 ピシャリと言い放つと、彼はウェイターに手で合図し、ワゴンを下げさせてしまいました。


(まあ……健康には気を使われる方なのね……でも、「毒」は少々、言い過ぎでは……?)


 わたくしは少しだけ、違和感を覚え始めました。


 その時ですわ。アルフレッド様が、テーブルの隅を指さし、声を上げなさったのです。


「おい! そこ! 汚れているではないか!」


 え? と思い、わたくしもテーブルの隅を見ましたが、特に汚れは見当たりません。しかし、アルフレッド様は、まるでこの世の終わりでも見るかのような形相で、その一点を凝視していらっしゃいます。


「こ、ここに……! 塵が付着している! なんたる不衛生! 王都一清潔な店だというから我慢をして赴いたというのに! このような環境では、私は一刻たりとも安らげない!」


 彼は持参したらしい純白の布を取り出し、神経質そうにテーブルの隅を拭い始めました。その布は、ほんの少し拭っただけで、すぐに専用の密閉袋にしまわれてしまいましたわ。


(…………ええと? これは一体、どういう状況なのでしょうか……?)


 わたくしの背中を、嫌な汗が伝います。清潔感がある、なんてレベルではございません。これは……もしかして……?


「エリザベス嬢。君は、私の生活様式について、どこまでご存知かな?」


 アルフレッド様は、気を取り直したように、しかし、その瞳の奥には依然として厳しい光を宿したまま、わたくしに問いかけました。


「いえ、その……詳細までは……」


「そうか。では、明確にしておこう。私と結婚するということは、私の定める『清浄なる生活規範』に則って生活するということだ」


 清浄なる、生活規範……?


「まず、朝だ。起床後は、互いに会話を交わす前に、それぞれ最低一時間は薬湯による全身消毒を行う。これは絶対だ」


 ぜ、全身消毒ですって……!? 毎日!?


「食事は、私が厳選した食材のみを使用する。調理も、許可された者以外は一切厨房に立ち入ることを禁ずる。無論、君もだ」


 わたくし、お料理はそれなりに得意ですのに……。


「そして、外出。これは原則として認めない。外界は、ありとあらゆる汚染物質と病原菌に満ち満ちているからな。やむを得ず外出する際は、特注の防護服を着用し、帰宅後は最低二時間の隔離と消毒を義務付ける」


 ぼ、防護服ですって!? それではまるで、毒物処理にでも赴くかのようではありませんか!


 アルフレッド様は、うっとりとした表情で、さらに続けます。


「我がシュタインフェルト家の屋敷は、常に清浄な空気で満たされ、塵一つない完璧な空間でなければならん。君には、その維持管理を徹底してもらう。訪問者も厳しく制限し、入室前には必ず全身の消毒と検査を……」


「あ、あの、アルフレッド様っ!」


 たまらず、わたくしは声を上げました。


「その……それは、いささか……その……徹底的すぎるとは、お思いになりませんこと……?」


 すると、アルフレッド様は心底不思議そうな顔で、わたくしを見つめました。


「徹底的? エリザベス嬢、何を言っているのだ? これは、人間として、高貴なる貴族として、最低限の嗜みではないか。汚染された環境で生きるなど、私には到底耐えられん!」


 彼の口調は真剣そのもので、冗談を言っている様子は微塵もございません。


(だ……駄目ですわ……! この方、重度の……いえ、超弩級の潔癖症でいらっしゃいますわーっ!!)


 もはや、清潔感という言葉では表現できない領域です。これでは、息が詰まってしまいますわ! 結婚生活どころか、共に一日過ごすことすら困難を極めるでしょう!


 わたくしは、深呼吸を一つ。そして、できる限り穏便に、しかし断固たる意志をもって、この縁談をお断りすべく口を開きました。


「アルフレッド様。その……お話はよく理解できました。ですが、わたくし、朝から薬湯に浸かったり、防護服を着て外出したりするのは、少々……いえ、かなり抵抗がございますの。申し訳ございませんが、このお話は……」


「何だと!? 私の完璧なる生活様式を、君は否定するというのか!? なんという不見識、なんという……汚らわしい!」


 アルフレッド様は、わたくしの言葉に激昂し、顔を真っ赤にして立ち上がりました。その剣幕たるや、まるでわたくしが病原菌そのものであるかのような扱いですわ。


「これ以上、汚れた空気の中に身を置くことはできん!」


 そう吐き捨てると、アルフレッド様は、嵐のようにティーラウンジを去って行かれました。

 残されたのは、あっけにとられたわたくしと、ティーカップに残るほとんど手つかずの紅茶だけ……。


「…………セバスチャン」


 わたくしが力なく呼びかけると、いつの間にか背後に控えていたセバスチャンが、そっと肩を貸してくれました。


「お嬢様……お疲れ様でございました。その……なんと申し上げてよいやら……」


 セバスチャンの口元は、微妙に引きつっておりましたわ。ええ、ええ、笑いたければ笑ってもよろしくってよ! もう、わたくしには何もかもどうでもいい気分ですもの!


「清潔感があると思ったのが、そもそもの間違いでしたわ……。あれは、清潔感ではなく、潔癖症……それも、極度の、ですわね……」


 馬車の中で、わたくしはぐったりと座席に身を沈めました。


「わたくしが悪かったのでしょうか……。わたくし、不潔ではございませんわよね!?」


「もちろんでございます、お嬢様」


 セバスチャンの慰めも、今は虚しく響くだけ。


「次こそは……! 次こそは、本当に、本当に、本当に、正真正銘の『普通の人』と……!」


 わたくしの魂の叫びは、春の柔らかな日差しの中へ、虚しく吸い込まれていくのでございました。婚活の道のりは、依然として暗く、そして果てしなく遠いようですわ……。


(世界観が若干あやしいですが許してください)

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