7.ママの言うことは絶対なんです!
前回のヘイワース男爵とのお顔合わせは、わたくしの胃袋と精神に、静かですが確実なダメージを与えましたわ。ええ、あれ以来、パンを見るたびに、あの実直すぎる男爵様の顔が浮かんでくるのですもの。食欲も減退気味ですわ。
「お嬢様、次のお相手の釣書にございます。今度こそ、今度こそはと……私も切に願っておりますぞ」
セバスチャンが、もはや祈るような面持ちで差し出した釣書を、わたくしは力なく受け取りました。ええ、ええ、分かっておりますわ。彼もまた、わたくしの奇人変人遭遇率の高さに、心労が絶えないのでしょうね。
お相手は、モンテスキュー侯爵。お年はわたくしより少し上で、釣書には「礼儀正しく、品行方正。その非の打ち所のない立ち居振る舞いは、若手貴族の鑑と称される」と、それはもう絶賛の言葉が並んでおりました。肖像画も、優しげな微笑みをたたえた、いかにも育ちの良さそうな好青年です。
「まあ、セバスチャン! このモンテスキュー侯爵様、なんて完璧な方なのかしら! 礼儀正しくて品行方正ですって! 非の打ち所がないなんて、素晴らしいじゃありませんか!」
「さようでございますな。モンテスキュー侯爵家は、古くから続く名門で、その教育の質の高さは折り紙つきでございます。侯爵様も、そのご家風の中で、まっすぐに育まれたのでしょう」
「名門の育ち……まっすぐに育まれた……」
わたくしはその言葉を繰り返し、胸を高鳴らせました。ええ、これですわ! これこそが、わたくしが求めていた「普通の、ちゃんとした人」の姿なのではなくて!? 育ちが良く、礼儀正しい方ならば、これまでの殿方のような奇抜な言動とは無縁のはず!
(今度こそ、本当に大丈夫に違いないわ! きっと、穏やかで、洗練された、素敵な殿方に違いないわ!)
セバスチャンも、「お嬢様、今回ばかりは、私も大いに期待しておりますぞ!」と、珍しく力強い言葉でわたくしを励ましてくれました。ええ、彼もまた、このモンテスキュー侯爵に最後の望みを託しているのかもしれませんわね。
お顔合わせの場所は、王都でも指折りの、伝統と格式を誇るホテルのラウンジでした。重厚な絨毯、磨き上げられた調度品、そして静かに流れる音楽。まさに、非の打ち所のない貴族の社交場といった雰囲気です。
(まあ、なんて素晴らしいのかしら……! こういう場所こそ、わたくしに相応しいわ!)
ええ、少しだけ、かつての公爵令嬢としてのプライドが顔を覗かせたかもしれませんけれど、お気になさらないでくださいまし。
約束の時間きっかりに、モンテスキュー侯爵が、一人のご婦人と共に現れました。
侯爵ご本人は、肖像画で拝見した通りの、優しそうで品の良い方でした。背筋もすっと伸び、その立ち居振る舞いには、育ちの良さが滲み出ています。
(まあまあ……! なんて素敵な方なのかしら……! 今日こそ、運命の出会いに違いありませんわ!)
わたくしの心は、期待で大きく膨らみました。
「エリザベス・ヴァイスリング様でいらっしゃいますね。本日はお目にかかれて光栄です。モンテスキューと申します。こちらは、母のオーレリアでございます」
侯爵様は、それはもう丁寧な口調で挨拶をされ、隣のご婦人を紹介なさいました。
そのご婦人――オーレリア様は、侯爵様とよく似た、優しげな目元をしていらっしゃいますが、どこか値踏みするような、鋭い視線も感じさせます。年齢は五十代半ばくらいでしょうか。上質なシルクのドレスを身にまとい、その佇まいには、名門の奥方らしい威厳が漂っていました。
「エリザベスさん、初めまして。息子のアルマンがお世話になりますわ」
オーレリア様は、にこやかに微笑みながらも、その目はわたくしの頭のてっぺんから爪先までを、じろりと観察しているようでした。
(な、なんですの、この圧は……? まあ、お母様がご一緒なのは、それだけ真剣に考えてくださっている証拠なのかしら……?)
少し戸惑いつつも、わたくしは淑女の礼を尽くしました。
席に着くと、会話は和やかに始まりました。モンテスキュー侯爵は、噂に違わず礼儀正しく、言葉遣いも丁寧で、わたくしの話にも真摯に耳を傾けてくださいます。
「エリザベス様は、読書がお好きと伺いました。最近、何か面白い本はございましたか?」
「ええ、先日、古代史に関する興味深い論文を読みまして……」
そんな風に、最初はごく普通の、穏やかな会話が続いていたのです。ただ、少し気になったのは、侯爵様が何かを発言するたびに、ちらりとオーレリア様の顔色を窺うことと、そして、会話の端々に「母が申しておりましたが」「母も賛成してくれるでしょう」といった言葉が頻繁に挟まることでした。
例えば、わたくしが趣味のハーブ栽培の話をすると、
「まあ、ハーブでございますか。母も庭でハーブを育てておりまして、いつも『ハーブは心と体を癒す』と申しております。エリザベス様も、きっと母と話が合うことでしょう」
と、にこやかにおっしゃいます。
また、将来の家庭像について尋ねると、
「ええ、穏やかで、笑いの絶えない家庭を築きたいと思っております。母も、そのような家庭こそが理想だと、常々申しておりました。母が安心して暮らせるような、そんな家が理想でございます」
と、やはりお母様の意見を交えてお話しになるのです。
(まあ、お母様をとても大切にしていらっしゃるのね。それは素晴らしいことだわ。親孝行な方は、きっと優しい方に違いないもの)
最初のうちは、わたくしもそのように好意的に解釈しておりました。ええ、しておりましたとも。
しかし、会話が進むにつれて、その「お母様想い」は、どうやら少々度が過ぎているのではないか、という疑念が、わたくしの心にむくむくと湧き上がってきたのです。
お茶菓子が運ばれてきた時のことでした。わたくしが何気なく手を伸ばそうとすると、侯爵様が慌てたように言いました。
「あ、エリザベス様、そちらのお茶菓子は、母が『甘すぎるものは体に良くない』と申しておりましたので、お控えになった方がよろしいかと……」
「え……?」
そして、オーレリア様ご自身は、その「甘すぎる」お菓子を、優雅な手つきで口に運んでいらっしゃるではありませんか。
(な、なんですって……? わたくしにはダメで、お母様はよろしいの……?)
わたくしは、思わず固まってしまいました。
さらに、結婚後の住まいについて話題が及んだ時、侯爵様はきっぱりとこうおっしゃいました。
「もちろん、エリザベス様には、我がモンテスキュー家の屋敷にお越しいただくことになります。母も、その方が安心だと申しておりましたので。将来的には老いた母の世話もございますし、エリザベス様には、ぜひ母の良き話し相手になっていただきたいと、母も願っております」
その言葉を聞いたオーレリア様は、それはもう満足そうに頷き、わたくしににっこりと微笑みかけました。
「ええ、エリザベスさん? わたくし、娘には恵まれませんで……アルマンの伴侶となる方には、ぜひともわたくしの身の回りのお世話をお願いしたいと、そう思っておりましたのよ。もちろん、わたくしの好みに合うように、ですけれど。うふふ」
(……え? お母様のお世話……? しかも、お母様の好みに合わせて……?)
わたくしの背筋に、冷たいものが走りました。これは、もしかして、もしかしなくても……。
そして、極めつけは、結婚の条件についての話でした。
侯爵様は、それはもう真剣な面持ちで、こうおっしゃったのです。
「エリザベス様との結婚において、最も重要なことは、母がエリザベス様のことを認めてくれるかどうか、ということでございます。母が『この方なら』と太鼓判を押してくれなければ、わたくしは結婚に踏み切ることはできません。母の言うことは、絶対なのでございます」
その言葉を、オーレリア様は、まるで自分の勝利宣言を聞くかのように、誇らしげな表情で聞いていらっしゃいました。そして、わたくしに向かって、こうおっしゃったのです。
「そういうわけでございますの、エリザベスさん。わたくしが、あなたをアルマンの妻として相応しいかどうか、これからじっくりと見定めさせていただきますわね。お料理の腕は? お裁縫は? それから、肩もみはお得意かしら? ああ、それからそれから……」
オーレリア様は、次から次へと、まるで嫁いびりの見本市のような要求を、笑顔で突きつけてくるではありませんか!
わたくしは、もはや怒りを通り越して、一種の虚脱感に襲われていました。
(この方……モンテスキュー侯爵様は……! 重度の、それはもう絵に描いたような母親依存ではございませんか……!)
そして、そのお母様もまた、息子を溺愛し、嫁を自分の支配下に置こうとする、典型的なお方……。
非の打ち所がないどころか、非しか見当たらないような気がしてまいりましたわ!
わたくしは、深呼吸を一つして、できる限り穏やかな声で、しかしきっぱりと申し上げました。
「モンテスキュー侯爵様、そしてオーレリア様。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。ですが、どうやらわたくしでは、あなた様がたのお眼鏡にかなうことは、難しゅうございますようですわね」
そして、モンテスキュー侯爵に向かって、こう続けました。
「お母様を大切に思われるお気持ちは、大変素晴らしいと存じます。ですが、わたくし、あなた様と結婚したいのであって、オーレリア様と結婚したいわけではございませんのよ……?」
皮肉を込めたつもりの言葉でしたが、侯爵様はきょとんとした顔で、「え? 何か違いが……?」と、本気で理解していないご様子。
オーレリア様に至っては、「まあ、エリザベス様ったら、面白いことをおっしゃるのね。わたくしと結婚するようなものだなんて、光栄ですわ、うふふ」と、全く悪びれる様子もございません。
もう、これ以上ここにいても、時間の無駄だということがよく分かりました。
「それでは、失礼いたしますわ」
そう言って席を立つと、侯爵様は「え、エリザベス様!? 母がまだお話の途中ですが!?」と慌てて引き留めようとしましたが、わたくしは振り返りませんでした。
帰り道、セバスチャンは、もはや同情の言葉すら見つからないといった様子で、黙ってわたくしの隣を歩いていました。
「お嬢様……その……なんとも、申し上げようもございませんな……」
屋敷に戻り、ようやく絞り出した彼の言葉に、わたくしは力なく笑うしかありませんでした。
「ええ、セバスチャン……。まさか、お顔合わせ相手のお母様と結婚させられそうになるなんて、夢にも思いませんでしたわ……。見た目はあんなに完璧なのに、中身がこれほどとは……」
わたくしは、ソファに崩れ落ちるように座り込み、天を仰ぎました。
「でも! わたくしは、絶対に、絶対に諦めませんからねっ! 次こそ! 次こそは、必ずや、まともな……いえ、『普通』の殿方を見つけてみせますわ!」
もはやヤケクソに近い決意表明。声が裏返っていたかもしれませんけれど、気にしてはいけません。
「それにしても、セバスチャン。あそこまでお母様一筋でいらっしゃるのなら、いっそのこと、一生お母様と仲良くお二人で暮らされた方が、あの方も、そして世の女性たちも、お幸せになれるのではないでしょうかしら?」
最後にそう毒づくと、セバスチャンは「お嬢様、それはモンテスキュー侯爵家にとって、最も平和的な解決策かもしれませんな」と、神妙な面持ちで頷くのでした。
ああ、わたくしの「普通」の結婚への道は、どこまで険しいのでしょう……。もう、何が起きても驚かない心構えだけは、完璧に出来上がってきましたわ……。
(今更ながらエピソードタイトルが直球ネタバレになっている気がしますが、勿体ぶるよりドン! と出したほうが潔い気もしてます)