6.清貧こそが至高の愛……らしいです
前回のヴィクトル様との「愛することはない」宣言事件は、わたくしの心に新たなトラウマを刻み込みましたわ。
ええ、どうやら世の殿方は、わたくしを何かの物語の登場人物と勘違いしていらっしゃるのではないかと、本気で疑い始めております。わたくしはただ、「普通」の結婚がしたいだけなのですけれど!
「お嬢様、次のお相手の釣書でございます。今度こそ、お眼鏡にかなうとよろしいのですが……」
「お眼鏡という言葉はしばらく聞きたくないわ……」
セバスチャンが差し出す釣書を、わたくしはもはや諦観の境地で受け取りました。もう、どんな方が現れようとも、平常心を保ってみせますわ。ええ、たぶん。
お相手は、ヘイワース男爵。お年はわたくしより五つほど上で、釣書には「実直にして真面目一徹。質素倹約を旨とし、その堅実な領地経営は領民からも厚い信頼を得ている」と記されていました。添えられた肖像画も、華やかさこそありませんが、誠実そうな目をした、いかにも実直そうな方です。
「まあ、セバスチャン。このヘイワース男爵様、なんだかとても堅実でいらっしゃいそうね。領地経営も評判が良いなんて、素晴らしいじゃないの」
「さようでございますな。男爵家は代々、華美を嫌い、実利を重んじる家風と伺っております。ヘイワース様も、その家風を忠実に守り、質実剛健を地で行くお方とのこと」
「質実剛健……質素倹約……」
わたくしはその言葉を噛み締め、深く頷きました。ええ、これぞわたくしが求めていたものですわ! きらびやかな社交界や、複雑怪奇な恋愛遊戯に明け暮れる殿方とは対極の存在! きっと、穏やかで、地に足のついた、安定した生活を送れるに違いありませんわ!
(今度こそ! 今度こそ、わたくしの求める「普通」の殿方に巡り合えたのかもしれないわ! 質素でもいいのです。心が豊かであれば!)
わたくしは、久々に希望の光を見出したような気持ちで、ヘイワース男爵とのお顔合わせに臨んだのでございます。
お約束の場所は、王都のはずれにある、古くから続く小さな料理店でした。派手な装飾はなく、清潔で落ち着いた佇まいは、まさに質実剛健を絵に描いたようなお店です。
(まあ、なんて質素で、けれど趣のあるお店なのかしら。ヘイワース男爵様のお人柄が偲ばれるようだわ)
そんなことを思いながら個室へ通されると、そこには既にヘイワース男爵が、背筋をぴんと伸ばして座っていらっしゃいました。
肖像画で拝見した通りの、実直そうな方でした。短く刈り込んだ髪、真面目そうな太い眉、そして、嘘など一切つけそうにない、まっすぐな瞳。服装も、流行とは無縁の、しかし清潔で丈夫そうな生地で作られた、実用本位といった印象です。
(まあ……! なんて誠実そうなお方なのかしら……!)
わたくしは、その飾り気のなさに、かえって好感を覚えました。これまでの殿方のような、過剰な装飾や、気取った態度は微塵も感じられませんもの。
「エリザベス・ヴァイスリング様にございますな。ヘイワースにございます。本日はお越しいただき、かたじけない」
彼の声は、少しぶっきらぼうなところはありましたが、その実直なお人柄をよく表していました。
「エリザベスと申します。こちらこそ、お目にかかれて光栄ですわ、ヘイワース様」
わたくしも丁寧に挨拶を返し、席に着きました。
会話は、最初は少しぎこちないものでした。ヘイワース男爵は口数が多い方ではないようで、わたくしが何かを尋ねると、少し考え込むように黙り込み、それからぽつりぽつりと、しかし誠実に答えてくださる、といった具合です。
それでも、彼の言葉の端々からは、領地や領民を大切に思う気持ちや、日々の暮らしを真摯に送ろうとする姿勢が伝わってきて、わたくしは次第に心地よさを感じ始めていました。
「ヘイワース様は、ご領地ではどのようなことに関心をお持ちでいらっしゃいますの?」
「……作物の、出来栄えにございますな。民の生活の基盤ゆえ、疎かにはできませぬ」
「まあ、素晴らしいお心がけですわね。わたくしも、ささやかながら庭でハーブなどを育てておりますのよ」
「……ほう。それは、実に結構なことと存じます」
そんな風に、会話はゆっくりと、しかし確実に進んでいきました。そして、話題が彼の信条である「質素倹約」のことに及んだ時、わたくしは改めて彼の考えに感銘を受けたのです。
「私は、贅沢を好まず、身の丈に合った暮らしをすることが、真に豊かな生き方だと信じております。華美な装飾や、流行を追いかけるようなことは、魂を貧しくするだけでございます」
彼のその言葉に、わたくしは深く頷きました。ええ、その通りですわ! 過去のわたくしは、まさにその魂を貧しくするようなことばかりに明け暮れていたのですから。
(この方となら、本当に穏やかで、地に足のついた生活が送れるかもしれないわ……! 贅沢はできなくても、心が満たされる毎日が……!)
わたくしは、ヘイワース男爵こそ、わたくしの求める「普通の人」なのではないかと、確信に近いものを感じ始めておりました。
お料理が運ばれてきました。見た目は地味ですが、素材の味を生かした、素朴で滋味深い味わいです。
「本日は我が領地の食事を味わっていただきたいと思い、縁のあるこの店を指定させていただきました。このパンも、自家製でございます。少し硬いかもしれませぬが、よく噛んで味わうのが、食材への感謝の印と心得ております」
男爵はそう言って、パンの耳まで、それはもう丁寧にかみしめていらっしゃいます。
(まあ、なんて素晴らしいお心がけなのかしら……! わたくしも見習わなくては……)
そう思ったわたくしは、しかし、次の瞬間、彼の言葉に少しだけ戸惑いを覚えたのです。
「エリザベス様、そのパンの耳、もし残されるようでしたら、私が頂いてもよろしいかな? 食材を無駄にすることは、神への冒涜にも等しいと存じますので」
「え……あ、はい、もちろん……」
わたくしは、口をつけずにいたパンの耳を、少し気まずい思いで彼に差し出しました。
(まあ、確かに食材を無駄にするのはよくないけれど……そこまで徹底なさるのね……)
そして、その戸惑いは、お茶の時間が始まると、さらに大きなものへと変わっていきました。
お店の方がお茶菓子を持ってきたのですが、それは本当に小さな、申し訳程度の焼き菓子が二つだけ。しかも、そのお菓子を見たヘイワース男爵は、お店の方にこうおっしゃったのです。
「結構。このような贅沢品は、我々には不要。下げなさい」
ええ!? 贅沢品ですって!? この小さな焼き菓子が!?
お店の方も困惑した表情でしたが、男爵の強い視線に押され、すごすごとお菓子を下げていきました。
さらに、部屋の隅で静かに燃えていた暖炉の火を見た男爵は、お店の方を呼び止め、
「この時期に暖炉とは、資源の無駄遣いではなかろうか? 火を消していただきたい。我々は、寒さもまた自然の恵みと捉え、耐え忍ぶべきと心得ている」
と、真顔でおっしゃるのです。
お店の方は、もはや泣きそうな顔で「しかし、お客様が……」と言いかけましたが、男爵の「不要!」という一喝で、しぶしぶ暖炉の火を小さくしていきました。部屋の温度が、心なしか下がったような気がいたします。
(え、ええと……? これは……質素倹約というよりは、少々、行き過ぎているような……?)
わたくしの心に、不安の影が差し始めました。
そして、その不安は、結婚後の生活についての話になった時、決定的なものへと変わったのです。
「エリザベス様、もし我々が夫婦となれば、当然ながら、我が家の家風に従っていただくことになります。よろしいかな?」
「は、はい……それは、もちろん……」
「まず、衣服についてですが、最低でも十年は着回していただくのが当然と心得ております。破れた箇所は、ご自身で繕っていただくことになりますが、繕い物はお得意でいらっしゃいますかな?」
(じゅ、十年ですって!? しかも自分で繕うの!? わたくし、お裁縫なんて、嗜み程度しか……)
「食事は、一日二食。質素なものを、よく噛んでいただく。もちろん、食材は全て使い切り、残飯などを出すことは言語道断。パンの耳まで食すのが、真の貴族の嗜みと心得ておりますぞ。我が家の貯蔵庫には、各地から譲られたパンの耳が大量にありますからな」
(一日二食!? それにパンの耳が主食みたいになってませんこと!?)
「そして、暖房は冬の最も寒い時期に限り、最小限。入浴も、身体の汚れを落とすための最低限のものとし、湯を無駄遣いすることは許されませぬ。もちろん、香油や化粧品などもってのほか。それらは全て、虚飾にございます」
(お、お風呂も最低限……!? お化粧もダメですって!? そ、それは……わたくし、枯れてしまいますわ……!)
ヘイワース男爵は、まるでそれが当たり前であるかのように、次から次へと、わたくしの想像を絶するような節約生活……いえ、もはや苦行としか思えないような生活様式を、熱っぽく語るのでした。彼の瞳は、その理想の清貧生活への情熱で、きらきらと輝いてさえ見えます。
わたくしは、もはや口を挟むこともできず、ただただ彼の言葉を聞いているしかありませんでした。
(この方の仰る「質素倹約」は、わたくしの知っているそれとは、次元が違いすぎるわ……! これでは、穏やかな生活どころか、毎日が修行ではありませんの……!)
ようやく彼の熱弁が終わり、わたくしが口を開く番がやってきました。
「あ、あの、ヘイワース様……その、大変素晴らしいお心がけとは存じますが……わたくし、少々、その……」
言葉を選びあぐねていると、男爵は不思議そうな顔でわたくしを見ました。
「いかがなさいましたかな、エリザベス様? もしや、我が家の生活に、何かご不満でも?」
「い、いえ、そういうわけでは……ただ、その……パンの耳よりは、やはり中身の方が、わたくしは好きでございまして……」
思わず本音が漏れてしまいましたわ。
すると、ヘイワース男爵は、心底残念そうな、そして少し軽蔑するような目で、わたくしをじっと見つめました。
「……エリザベス様。貴女様も、やはりまだ俗世の贅沢に魂を囚われているお一人でございましたか。誠に、残念でございます。清貧の中にこそ、真の精神的充足があるというのに……」
そう言って、彼は深いため息をつきました。
もう、これ以上お話しても無駄でしょう。わたくしが彼の理想とする「清貧の妻」には到底なれそうにありませんし、彼もまた、わたくしの求める「普通の夫」ではございませんでした。
「ヘイワース様、本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。ですが、どうやらわたくしでは、あなた様の理想とされる生活を共にすることは難しそうですわ。このお話は、どうかご辞退させていただきたく存じます」
できる限り丁寧に、しかしはっきりとそう告げると、男爵は眉をひそめましたが、それ以上引き留めることはありませんでした。
帰り道、セバスチャンは何も言いませんでしたが、その背中からは、もはや同情を通り越した、何か別の感情が漂っているように感じられましたわ。
「お嬢様、今回のお相手もまた、大変……自制心のある方でいらっしゃいましたな」
屋敷に戻ってから、セバスチャンがぽつりと言いました。
「ええ、本当に……。堅実なのは素晴らしいですけれど、度が過ぎると、それはもう苦行ですわ、セバスチャン。わたくし、もう少し、人間らしい生活が送りたいのですわ……」
わたくしは、ぐったりとソファに身を沈め、心の底からため息をつきました。
「でも、何度失敗しようとも、わたくしは絶対に諦めませんから! 次こそ! 次こそは、必ずや……!」
もはや、自分自身に言い聞かせるためだけの、空虚な決意表明。
「それにしても、セバスチャン。あそこまで徹底した節約をなさるのなら、いっそのこと、無人島で自給自足の生活でもなさった方が、あの方もお幸せになれるのではないでしょうかしら?」
最後にそう毒づくと、セバスチャンは「お嬢様、それはヘイワース様にとって、まさに理想郷かもしれませんな」と、真顔で答えるのでした。
ああ、わたくしの「普通」探しの旅は、一体いつになったら終わりを迎えるのでしょう……。ますます先が見えなくなってまいりましたわ……。
(こういう人ってたまにいませんか……?)