5.「君を愛することはない」? では、さようなら。
立て続けに個性的すぎるお相手との顔合わせが続き、わたくしの心は少々、いえ、かなりささくれ立っておりました。
あの自己愛の塊のようなルシアン様との一件以来、鏡を見るたびに「あなたもなかなか愛らしいけれど、僕の隣に立つには輝きが足りないね」という幻聴が聞こえてくる始末。ええ、重症ですわ。
「お嬢様、次のお相手の釣書にございます。少しは『普通』に近い方だと良いのですが……」
セバスチャンが、心なしか同情的な眼差しで差し出した釣書を、わたくしは恐る恐る受け取りました。もう、どんな奇人が現れても驚かない覚悟はできておりますけれど、それでもやはり、一縷の望みは捨てきれないのです。
お相手は、クレメンス侯爵家のご嫡男、ヴィクトル様。年齢はわたくしより少し上で、釣書によれば「冷静沈着にして知性的、若くして既に当主の右腕として辣腕を振るう」とのこと。添えられた肖像画も、派手さはないものの、理知的で涼やかな目元が印象的な、なかなかの美丈夫でいらっしゃいます。
「まあ、セバスチャン。このヴィクトル様、なんだかとても落ち着いていらっしゃいそうね。これまでの殿方とは少し雰囲気が違うようだわ」
「さようでございますな。クレメンス侯爵家は、代々文官を多く輩出している実直な家柄。ヴィクトル様も、その血を色濃く受け継いでおられると評判でございます」
「冷静沈着……知性的……実直……」
わたくしはその言葉を繰り返しながら、うんうんと頷きました。ええ、素晴らしいではありませんか! これぞまさしく、わたくしが求めていた「普通」に近い要素なのではなくて? 刺激的な美貌や、特殊すぎるご趣味、そして度を超した自己愛など、わたくしにはもう必要ございませんの。穏やかで、地に足のついた方が一番ですわ。
(今度こそ、今度こそ大丈夫かもしれないわ……! きっと、落ち着いた、大人の会話ができる方に違いないわ!)
わたくしは、久しぶりに心の底から期待に胸を膨らませ、お顔合わせの日を待ったのでございます。
お約束の場所は、王立図書館に併設された、静かで落ち着いた雰囲気のサロンでした。大きな窓からは柔らかな陽光が差し込み、壁一面の本棚には古今東西の書物がずらりと並んでいます。騒がしい場所が苦手なわたくしにとっては、これ以上ないほど理想的な空間ですわ。
(まあ、なんて素敵な場所を選んでくださったのかしら。ヴィクトル様は、きっとわたくしの好みをよくご存知なのね!)
そんなことを考えながら奥へ進むと、窓際の席で静かに読書をしていた男性が、わたくしに気づいてすっと立ち上がりました。彼が、ヴィクトル・クレメンス様。
肖像画で拝見したよりも、さらに精悍で知的な印象の方でした。黒に近い濃紺の髪をきっちりと撫でつけ、銀縁の眼鏡の奥の瞳は、どこまでも冷静で、物事の本質を見抜くような鋭さを湛えています。
しかし、決して冷たいというわけではなく、むしろ、その落ち着き払った佇まいが、かえって安心感を覚えさせるのです。
(まあ……! なんて理知的で、素敵な方なのかしら……!)
わたくしは、思わず見惚れてしまいそうになるのをぐっとこらえ、淑女の礼をいたしました。
「エリザベス・ヴァイスリングと申します。本日はお目にかかれて光栄ですわ、ヴィクトル様」
「ヴィクトル・クレメンスだ。こちらこそ、時間を取っていただき感謝する、エリザベス嬢」
彼の声は、低く、落ち着いていて、それでいてよく通る、心地よいものでした。無駄な装飾のない、しかし上質な生地で仕立てられたであろう彼の服装も、その実直な人柄を表しているかのようです。
(完璧だわ……! これまでの方々とは明らかに違う! この方こそ、わたくしの運命の人に違いないわ!)
わたくしの心は、喜びと期待で高鳴っていました。
席に着き、当たり障りのない時候の挨拶などを交わした後、ヴィクトル様は、ふう、と一つ息をつき、そして、きっぱりとした口調でこうおっしゃいましたの。
「エリザベス嬢、本日は我々の初めての顔合わせだが、最初に申し上げておかねばならないことがある」
(まあ、なんですの? 何か、大切なことなのかしら……?)
わたくしは、ごくりと唾を飲み込み、彼の次の言葉を待ちました。もしかしたら、いきなり結婚の意思を問われるのかもしれない、なんて淡い期待も抱きながら。
しかし。
ヴィクトル様の口から放たれたのは、わたくしの予想を、そして世の恋愛の常識を、根底から覆すような、衝撃的な一言だったのです。
「誤解のないよう申し上げておくが、私は君を愛することはないだろう。これはあくまで、家と家とを結びつけるための、政略的な結びつきに過ぎないのだから」
「………………………………は?」
一瞬、時が止まりましたわ。
ええと……今、この方、なんとおっしゃいました? わたくしを、愛することはない、と? 政略的な結びつきに過ぎない、と?
まるで、どこかの恋物語の冒頭で、冷酷な公爵様がヒロインに言い放つような、典型的なセリフではありませんか。
わたくしは、呆気にとられて、ただただヴィクトル様のお顔を見つめることしかできませんでした。彼の表情は、どこまでも真剣で、冗談を言っているようには到底見えません。
(え、ええと……これは、どういう状況なのでしょう……? わたくし、何か試されているのかしら……?)
混乱する頭で必死に状況を理解しようと努めました。もしかしたら、これは彼なりの「誠実さ」の表れなのかもしれません。最初から期待させるようなことは言わず、現実をはっきり告げる、という。
でも、でもですわよ? いくらなんでも、初対面のお相手に、開口一番「愛することはない」と宣言なさる方がいらっしゃいます? 普通。
しかし、わたくしは元「悪役」令嬢。数々の修羅場――主に自業自得ですが――を潜り抜けてきた経験が、ここで活きましたわ。
一瞬の動揺の後、わたくしはすっと冷静さを取り戻し、そして、にっこりと淑女の笑みを浮かべて、こう申し上げましたの。
「まあ、それは残念ですわ、ヴィクトル様。実を申しますと、わたくし、愛のある穏やかな結婚を心から望んでおりますの。お互いを尊重し、慈しみ合えるような、温かい家庭を築きたいと、そう願っておりましてよ」
そこまで一息に言うと、わたくしは軽くお辞儀をし、続けました。
「ですので、ヴィクトル様のお考えと、わたくしの望むものが少々異なるようでございますわね。誠に残念ではございますが、このお話は、今回はなかったということで」
そう言って、わたくしはすっくと席を立とうといたしました。
ええ、だってそうでしょう? 「愛することはない」と宣言されて、それでもなお「それでも構いませんわ、あなた様のお側にいさせてくださいませ!」なんて、健気な少女のようなことを言えるほど、わたくしはお人好しではございませんし、何より、そんな結婚はまっぴらごめんですもの。
わたくしが求めているのは、「普通」の幸せなのであって、愛のない打算的な関係では断じてございませんわ。
ところが。
わたくしがあまりにもあっさりと席を立とうとしたものですから、今度はヴィクトル様の方が、目を丸くして驚愕なさったのです。
「え……あ、ちょ、待ってくれ、エリザベス嬢! なぜそうなる!?」
それまでの冷静沈着な雰囲気はどこへやら、彼は明らかに狼狽し、慌ててわたくしを引き留めようとなさいました。その銀縁の眼鏡が、少しずれているのが見えましたわ。
「普通はここで、『それでも構いませんわ』とか、『いつか必ず振り向かせてみせます』とか、何かこう、食い下がってくるものではないのか!? 君は、あまりにもあっさりしすぎではないか!?」
ヴィクトル様は、信じられないといった表情で、わたくしに詰め寄ってきます。その剣幕に、今度はわたくしの方が少し驚いてしまいました。
(え……? 普通は、って……なんですの、その「普通」は……?)
わたくしは首を傾げました。
「ヴィクトル様、わたくし、何か間違ったことを申し上げましたでしょうか? 『愛はない』と宣言されたお相手と、それでも結婚したいと仰る方がいらっしゃるのでしたら、ぜひともわたくしにご紹介いただきたいものですわ。わたくしには、到底理解できそうにございませんけれど」
きっぱりとそう申し上げると、ヴィクトル様は「うっ……」と呻き、何か言い返そうとして口をパクパクさせていらっしゃいましたが、結局言葉にはなりませんでした。そして、まるで計算が狂ってしまった学者のように、頭を抱えてしまったのです。
「そ、そんな……馬鹿な……僕の計算では、ここで君は少し涙ぐみながらも、健気に僕の言葉を受け入れ、そしてそこから徐々に僕の魅力に気づき、やがては熱烈な恋に落ちるはずだったのに……! なぜだ!? どこで計算を間違えたんだ、僕は!?」
ぶつぶつと、そんなことを呟いていらっしゃるのが聞こえてきました。
ええ、ええ、聞こえておりましたとも。
(…………はあ)
わたくしは、心の底から深いため息をつきました。
どうやらこのヴィクトル様、ご自身の中で、何らかの「理想の恋物語的展開」を夢見ていらっしゃったようですわね。そして、わたくしに、その健気なヒロイン役を期待していらっしゃった、と。
しかも、どうやら、ご本人は最初からわたくしに好意を抱いていらっしゃったご様子。それなのに、なぜあのような回りくどい、そして失礼極まりない言い方しかできなかったのでしょう。
(この方も、結局は『普通』ではなかった、ということかしら……)
わたくしは、もはや呆れる気力も失せ、ただただ静かにその場を立ち去ることにいたしました。
「ヴィクトル様、わたくし、少々頭が混乱してまいりましたので、本日はこれにて失礼させていただきますわ。ごきげんよう」
そう言って、今度こそ本当にサロンを後にしようとすると、背後からヴィクトル様の、まるで悲鳴のような声が聞こえてきました。
「ま、待ってくれ、エリザベス嬢! 誤解なんだ! あれは僕なりの、そう、一種の照れ隠しというか、君の反応を見たかったというか……! 頼む、もう少し話を聞いてくれ!」
しかし、わたくしは振り返りませんでした。ええ、振り返る必要などございませんもの。
帰り道、セバスチャンは何も言いませんでしたが、その口元が微かに引きつっているのを見逃しませんでしたわ。
「お嬢様、今回のお相手もまた、大変独創的なお方でございましたな」
屋敷に着いてから、ようやく彼が絞り出した言葉に、わたくしは力なく頷きました。
「ええ、セバスチャン……。『愛はない』と宣言されて喜ぶ女性が、この世にどれほどいるというのかしら……。わたくしには、さっぱり理解できませんでしたわ」
ソファに深く身を沈めながら、わたくしは天を仰ぎました。
「普通」を求めているはずなのに、なぜか出会うのは「普通じゃない」方ばかり。わたくしの婚活は、一体いつになったら成就するのでしょう。
「でも、わたくしは諦めませんからね! 次こそ、次こそは……!」
もはや祈りの言葉のように繰り返される決意。しかし、その声には、自分でも情けなくなるほどの疲労感が滲んでいたのでした。
「それにしても、『愛することはない』なんて、よくもまあ初対面で言えたものですわね。一体どんな神経をしていらっしゃるのかしら……? それとも、ああいうのが流行りなのかしら……? でも、わたくしにはただの失礼な人にしか思えませんでしたけれど!」
誰もいない部屋で、わたくしは一人、ぶつぶつと文句を言い続けるのでした。
ああ、わたくしの求める「普通の幸せ」は、一体どこにあるのでしょう……。先はまだまだ暗そうですわね……。
(個人的にこのエピソードはかなり気に入っています)




