3.踏んでください、お嬢様!
前回、初めての顔合わせ相手であったアーサー様の衝撃的な経歴詐称に打ちのめされたわたくしでしたが、いつまでもメソメソしているわけにはまいりません。
ええ、元「悪役」令嬢の名が廃るというものですわ。もう廃れて久しいですけれど。
セバスチャンには「お嬢様、少々お疲れのようですが、次のお相手の釣書が届いておりますぞ」と、どこか楽しんでいるような声色で発破をかけられ、わたくしは無理やり奮起いたしました。
「ええ、ええ、見せてちょうだい、セバスチャン! 今度こそ、今度こそわたくしの眼鏡にかなう『普通の人』に違いありませんわ!」
そう言って受け取った釣書は、それはもう、素晴らしいものでしたの。
お相手は、バークレイ伯爵。年はわたくしより三つほど上で、眉目秀麗、領地経営も堅実、そして何よりも「物腰が柔らかく、常に紳士的なお方」との評判。
肖像画も拝見いたしましたが、まあ、眩いばかりの美青年。まるで少女向けの恋物語から抜け出てきた王子様のようですわ。……いえ、王子様はもうこりごりでしたわね。でも、これほどまでに非の打ち所がない方ならば、今度こそ期待してもよろしいのではなくて?
「まあ、セバスチャン! このバークレイ伯爵様、なんて素敵な方なのでしょう! 釣書を拝見する限りでは、完璧ではございませんか!」
わたくしが興奮気味に言うと、セバスチャンはいつものように冷静な表情で、しかしほんの少しだけ口角を上げて答えました。
「左様でございますな。お嬢様の仰る『普通』の範疇に、今度こそ収まってくだされば良いのですが」
「もう! あなたはいつもいつも、水を差すようなことばかり……! いいですこと? バークレイ伯爵様こそ、わたくしの運命の『普通の人』なのですから! きっとね!」
(そうよ、きっとそうだわ! あんなに素敵なアーサー様が、まさかの詐称というとんでもないオチだったのだもの。神様だって、二度続けてわたくしにそんな酷い仕打ちはなさらないはず!)
わたくしは固くそう信じ、数日後のお顔合わせの日を、今度こそ胸を高鳴らせて待ったのでございます。
お顔合わせの場所は、王都でも格式高いと評判のホテルのティールーム。前回のような隠れ家的なレストランではなく、もっと公の場に近い場所を選んだのは、セバスチャンの配慮かもしれませんわね。ええ、万が一の事態に備えて、ですわ。
緊張しつつも個室へ案内されると、そこには約束通り、バークレイ伯爵が穏やかな笑みを浮かべて待っていらっしゃいました。
「エリザベス・ヴァイスリング様ですね。お噂以上の美しさだ。お会いできて、心から光栄に思います。バークレイと申します」
陽光を背に受けて立つそのお姿は、まさに光り輝くばかり。濡羽のような漆黒の髪、澄んだ薄紫の瞳、そして、まるで彫刻のように完璧なお顔立ち。仕立ての良いフロックコートも、彼のスタイルの良さを際立たせています。
(ま、眩しい……! これが、貴族の中の貴族というものなのかしら……! しかも、話し方もなんて優雅でいらっしゃるの!)
わたくしは一瞬にして心を奪われ、頬が上気するのを感じました。前回、アーサー様にお会いした時も素敵だと思いましたが、このバークレイ伯爵の輝きは、また別格ですわ。
「バークレイ伯爵様。こちらこそ、お目にかかれて嬉しゅうございます。エリザベスと申します」
わたくしも精一杯の淑女の笑みを返し、席に着きました。
会話は、それはもう、夢のように弾みました。バークレイ伯爵は芸術全般に造詣が深く、絵画や音楽、詩に至るまで、幅広い知識をお持ちでした。わたくしも、かつては公爵令嬢として一通りの教養は叩き込まれておりましたから、彼の高尚な話題にもなんとかついていくことができましたの。
「最近、王立美術館で開催されている絵画展にはもう行かれましたか? あの光の表現は、実に素晴らしいものがありました」
「まあ、わたくしも先日拝見いたしましたわ! 特に、あの絵に描かれた水面の揺らめきには、心を奪われましたの!」
「おお、エリザベス様もあの画家がお好きとは! 私も彼の色彩感覚にはいつも感銘を受けております。いつか、あの絵のモデルになった庭園を、共に訪れることができたら……などと夢想してしまいますね」
(ま、まあ……! なんてロマンティックなお誘いなのかしら……!)
伯爵の甘い言葉に、わたくしの心はすっかりとろけてしまいそうでした。彼の話は知的で、ユーモアもあって、そして何よりも、わたくしへの敬意が感じられるのです。
(この方なら、本当に穏やかで、満たされた結婚生活が送れるかもしれないわ……! きらびやかではなくても、心豊かな毎日が……!)
わたくしは、自分の幸運に感謝せずにはいられませんでした。こんなに素敵な方が、わたくしのような女に、これほどまでに紳士的に接してくださるなんて。
美味しい紅茶とスコーンをいただきながら、話は和やかに進んでいきました。伯爵はわたくしの些細な言葉にも丁寧に耳を傾け、時折見せる優しい笑顔は、それだけでわたくしの心を温かくしてくれましたの。
(ああ、セバスチャン、あなたも今度ばかりは文句のつけようがないでしょう? これぞまさしく、わたくしの求める「普通」で「完璧」な殿方ですわ!)
そんなことを内心で思いながら、わたくしは幸福感に浸っておりました。
――ところが。
その穏やかで夢のような時間は、本当に唐突に終わりを告げたのです。
一通り趣味の話が終わり、そろそろ将来の展望についてでも、という雰囲気になったその時でした。バークレイ伯爵が、ふと真剣な表情になり、じっとわたくしの目を見つめてこうおっしゃいましたの。
「エリザベス様……実は、私には、長年胸に秘めていた、ある特別な願望がございまして……本日、貴女様にお会いし、その清らかで気高いお姿を拝見して、確信いたしました。貴女様にしか、私のこの願いは叶えられないのだと」
(ま、まあ……! な、なんですの、この雰囲気は……!? もしかして、もしかすると、これは……プロポーズの予兆、なのではなくて!?)
わたくしの心臓は、期待に大きく跳ね上がりました。いくらなんでも早すぎるとは思いましたが、運命の出会いというものは、時にこのように劇的に訪れるものなのかもしれませんわ!
しかし、伯爵の次からの言葉は、わたくしの甘い期待を、木っ端微塵に打ち砕くものでございました。
彼は、うっとりとした、どこか恍惚とした表情で、熱っぽく語り始めたのです。
「エリザベス様……貴女様のような、凛とした、どこまでも高貴でいらっしゃる方に……私は……罵倒され、そして……足蹴にされることに、何よりも深い、深い悦びを感じるのでございます……!」
「………………………………はい?」
一瞬、何を言われたのか理解できませんでしたわ。聞き間違いかしら? と。
しかし、伯爵はそんなわたくしの困惑などお構いなしに、すっくと立ち上がると、次の瞬間、わたくしの足元に恭しく、しかしどこか熱に浮かされたような勢いでひれ伏されたのです!
「おお、エリザベス様! どうか、この哀れな子羊に、貴女様のその気高いおみ足でのご慈悲を……! どうか、この私を踏んでいただけませんか!?」
そして、あろうことか、わたくしの靴の先に、その美しいお顔を擦り付けようとなさるではありませんか!
「ひいっ!?」
思わず短い悲鳴を上げ、わたくしは椅子ごと後ずさりしました。目の前で床に伏せ、恍惚の表情でこちらを見上げてくる眉目秀麗な伯爵。その姿は、あまりにも現実離れしていて、わたくしの頭は完全に混乱してしまいましたわ。
(な……ななな、なんですの、この状況は!? 踏む!? わたくしが、この方を!? なぜ!? どうして!?)
混乱するわたくしをよそに、伯爵は堰を切ったように、その異常なまでのご要望を熱弁し始めました。
「結婚の暁には、ぜひとも朝夕二回、私のこの身を貴女様の御足で踏みつけていただきたいのです! もちろん、その際には、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせてくだされば、私は天にも昇る心地でございましょう! 『この役立たずの豚め!』『生きている価値もないクズ!』などと、情熱的に罵っていただければ、なおのこと……!」
伯爵は、まるで愛の言葉を囁くかのように、うっとりとした表情でそんなことをおっしゃいます。
「さらに! 月に一度は、そうですね、特別な夜として、私めを縄できつくきつく縛り上げたうえで、貴女様の靴を舐めさせていただきたい! ……ああ、想像するだけで、身も心も打ち震えるほどの悦びが……!」
(な、何を言っていらっしゃるのこの方!? 顔はあんなに素敵なのに! 普通って、普通って何ですのおおおお!?)
わたくしは内心で絶叫しましたが、声にはなりませんでした。ただ、目の前の美形の変態紳士から、一刻も早く逃れたい一心でしたわ。
「あ、あの、バークレイ伯爵様……まことに、まことに申し上げにくいのですが……そのようなご趣味には、わたくし、到底お応えできそうにもございませんの……」
ようやく絞り出した拒絶の言葉に、伯爵は心底悲しそうな、まるで捨てられた子犬のような瞳でわたくしを見上げました。
「な、なぜでございますか、エリザベス様!? これこそが、私が長年求め続けた、真実の愛の形なのでございますよ!? 貴女様と私ならば、きっと至高の主従関係を築けると、そう信じておりましたのに……!」
涙ながらに食い下がろうとする伯爵に、わたくしはもう限界でした。
「セ、セバスチャン! セバスチャンを呼んでくださいまし!」
個室の外に控えていたはずのセバスチャンに助けを求めると、彼はすぐに心得たようにドアを開け、冷静な声で言いました。
「お嬢様、いかがなさいましたか。……おや、伯爵様、そのような床の上ではお体が冷えましょう」
セバスチャンは、伏したままの伯爵を一瞥し、状況を瞬時に理解したようですわ。さすがはわたくしの家令です。
「ああ、セバスチャン! もう、お暇いたしますわ!」
わたくしは半ば逃げるように席を立ち、セバスチャンに促されるまま、そそくさとティールームを後にしたのでした。背後からは、伯爵の「エリザベス様ああ! どうか、もう一度お考え直しををを!!」という悲痛な叫び声が聞こえてきたような気がいたしますが、もちろん振り返りはしませんでしたわ。
帰り道の馬車の中、わたくしはぐったりと座席に身を沈めておりました。
「お嬢様、またとんでもないお相手でございましたな……。お疲れ様でございます」
セバスチャンが労いの言葉をかけてくれましたが、わたくしは力なく首を振るのが精一杯でした。
「もう……もう、わたくし、何が『普通』なのか、本気で分からなくなってきましたわ、セバスチャン……。あんなに見た目は完璧な方が、どうしてああなってしまうのかしら……」
ため息しか出ません。顔が良い男性というのは、どこか致命的な欠点を抱えているものなのでしょうか。それとも、わたくしが引き寄せてしまうのでしょうか。
屋敷に戻り、自室のソファに崩れ落ちるように座り込みました。
(どうして、折角素敵なお姿なのに、中身がああなのでしょう……)
脳裏に浮かぶのは、先ほどのバークレイ伯爵の恍惚とした表情。あれが悪夢でなくて何でしょう。
その時、ふと、初めての顔合わせ相手だったアーサー様の顔が思い出されました。
(あの方は……少なくとも、わたくしを踏んでほしいなどとはおっしゃらなかったわ……。お話も、本当に楽しかったし、価値観も合ったように思えたのに……)
もちろん、経歴を詐称していたという事実は消えません。けれど、あの穏やかな笑顔や、真摯な眼差しは、嘘ではなかったのではないかと、心のどこかでまだ思ってしまうのです。
「でも……! でも、落ち込んではいられませんわ!」
わたくしは両手で頬をパンと叩き、無理やり気合を入れました。
「次こそ! 次こそは、必ずや『普通の人』を見つけてみせますから! 世の中には、きっと、見た目も中身も『普通』で素敵な殿方がいらっしゃるはずですわ!」
そう宣言したものの、声には自分でも分かるほど疲れが滲んでおりました。先はまだまだ長そうですわね……。
「それにしても……踏むって、一体どのくらいの力加減がお好みだったのかしら……? やっぱり、ハイヒールの方がよろしかったのかしら……? …………って、いやいやいや! 何を真剣に考えているんですの、わたくしはっ!」
誰もいない部屋で、わたくしは一人、盛大にツッコミを入れるのでした。
わたくしエリザベス・ヴァイスリングの「普通の人」探しの旅は、まだ始まったばかり。そして、その道のりは、どうやらわたくしの想像をはるかに超えて、奇想天外なものになりそうな予感なのでございました。
ああ、前途多難ですわ……。