11.失意と再会
あれから、どれほどの時が流れたのでしょう。
わたくし、エリザベス・ヴァイスリングが、「普通」の結婚を求めて婚活という名の戦場に身を投じてから、早二年が過ぎようとしておりました。
被虐嗜好の伯爵様にはじまり、自己愛溢れる公爵子息様、愛のない結婚宣言の貴公子様、ドケチの下級貴族様、マザコン侯爵様、古の盟約を語る子爵様、超潔癖症の侯爵嫡男様、そして、わたくしをアートの一部にしようとした画家先生……。
「もう……わたくしに、『普通』の結婚なんて、無理なのかしら…………」
自室の長椅子に深く身を沈め、わたくしは天井を仰ぎ見ながら、か細い声で呟きました。
胸の中には、もはや怒りや呆れを通り越した、深い、深い徒労感と、諦めにも似た感情が渦巻いております。あれほど固く誓った「次こそは!」の決意も、度重なる「普通じゃない」殿方との出会いに、すっかり色褪せてしまいましたわ。
「わたくしの求める『普通』は、この世界のどこにも存在しないのかもしれない……」
かつての悪役令嬢としての華やかな日々も、断罪の危機も、今となっては遠い昔の出来事のよう。ただ静かに、穏やかに暮らしたい。そのささやかな願いすら、わたくしには贅沢すぎる望みだったのでしょうか。
ここ数日は、食事もろくに喉を通らず、夜も浅い眠りを繰り返すばかり。鏡に映る自分の顔は、心なしか青白く、覇気というものがまるで感じられません。
「お嬢様」
そっと扉を開けて入ってきたのは、セバスチャンでした。その手には、温かいミルクティーのカップが。
「また、そのようなお顔をされて。少しお痩せになったのではございませんか? あまり思い詰められるのは、お体に毒でございますよ」
彼の声はいつもと変わらず穏やかでしたが、その瞳の奥には、隠しきれない心配の色が浮かんでいます。この忠実な家令には、本当に頭が上がりませんわ。
「セバスチャン……わたくし、もう疲れてしまいましたの……」
弱音を吐露するわたくしに、セバスチャンは黙って頷き、そっとミルクティーをサイドテーブルに置きました。
「さようでございましょうな。お嬢様がこれまでご経験なされた殿方は、どなたも……その、個性に溢れた方々ばかりでございましたからな」
遠回しな、しかし的確な表現に、思わず乾いた笑いがこぼれます。
「個性……ええ、本当に、豊かすぎるほどに……」
「お嬢様、気分転換に、城下の市場へでもお出かけになってはいかがですかな? 新しい織物が入荷したそうですぞ。可愛らしい小花柄の春物だとか」
セバスチャンは、努めて明るい声で提案してくれました。彼なりに、わたくしを元気づけようとしてくれているのでしょう。
「市場……織物……」
正直なところ、全く気乗りがいたしません。お洒落をする気力も、新しいものに心を躍らせる元気も、今のわたくしには残っておりませんでしたから。
しかし、セバスチャンのその心遣いを無下にするのも忍びなく、わたくしは重い腰を上げました。
「……そうね。少し、歩いてみるのもいいかもしれないわね」
力なく微笑むわたくしに、セバスチャンは安堵したように表情を和らげました。
久しぶりに袖を通した外出着は、どこか窮屈に感じられます。簡単な髪結いと薄化粧だけを済ませ、わたくしはセバスチャンと共に、王都から少し離れたこの屋敷の門を後にいたしました。
市場は、いつもと変わらぬ活気に満ちておりました。野菜や果物を売り捌く威勢の良い声、香辛料の入り混じった異国の香り、行き交う人々の喧騒。
以前のわたくしでしたら、こうした民の活気に触れるだけでも、少しは気分が高揚したかもしれません。けれど、今のわたくしの心は、鉛のように重く沈んだまま。セバスチャンが勧めてくれた織物店も、色とりどりの布地が並んではおりましたが、ただそれだけ、という感想しか抱けませんでしたわ。
(やはり、来なければよかったかしら……)
早々に屋敷へ戻ろうかと踵を返しかけた、その時でした。
ふと、人混みの中に、見覚えのある後ろ姿が目に入ったのです。
すらりとした長身。少し癖のある、柔らかな栗色の髪。丁寧だが、どこか控えめな立ち居振る舞い。
(まさか……)
心臓が、小さく、しかし確かに、とくん、と音を立てました。
その人物は、市場の一角にある、小さな香辛料の屋台の前で、店主と何やら真剣な面持ちで話し込んでおりました。手には帳面のようなものを持ち、時折うなずきながら、熱心にメモを取っています。
その横顔は日に焼け、以前よりも少し精悍さを増しているように見えましたが、穏やかで知的な雰囲気は変わっておりません。
(アーサー様……!?)
そう、そこにいたのは、わたくしの婚活の記念すべき第一号であり、そして、衝撃的な経歴詐称によってわたくしを奈落の底に突き落としてくださった、アーサー・アシュフォード様、その人に違いありませんでした。
彼が、こんな場所で何をしているのでしょう? 確か、近隣国の貴族だとおっしゃっていたはず……いやそれは嘘で、本当は商人なのでしたっけ。ええとその彼が、こうして市場で忙しそうに働いている……?
わたくしは、声をかけるべきか、それとも見なかったふりをして立ち去るべきか、激しく逡巡いたしました。
彼が身分を偽ったことは、決して許されることではございません。あの時の落胆と徒労感は、今でも鮮明に思い出せますもの。
けれど……。
けれど、こうして真摯に働く彼の姿を見ていると、そして、以前と変わらぬ、あの穏やかな雰囲気に触れると、胸の奥が、きゅう、と締め付けられるような、不思議な感覚に襲われるのです。
(あの時……もっと、彼のことを知ろうとすればよかったのかしら……)
ふと、そんな考えが頭をよぎりました。
もし、あの時、彼の嘘に気づかなかったとしたら? あるいは、嘘を知った後でも、もう少し彼と話す機会があったとしたら?
わたくしたちは、どうなっていたのでしょう……?
いや、何を考えているのです、エリザベス! 彼はあなたを騙したのですよ!
わたくしは、ぶんぶんと頭を振って、甘酸っぱいような、それでいて苦いような感傷を振り払おうといたしました。
アーサー様は、店主との話を終えたのか、にこやかに一礼すると、雑踏の中へと歩き去っていきました。その背中は、少しも迷いがなく、確かな足取りで未来へと向かっているように見えましたわ。
わたくしは、結局、彼に声をかけることができず、ただ、その姿が人混みに消えるのを、呆然と見送るしかありませんでした。
「お嬢様? いかがなさいましたか? 顔色が優れませんが……」
心配そうに声をかけてきたセバスチャンに、わたくしは曖昧に微笑んで見せました。
「いいえ、何でもありませんの。少し、眩暈がしただけですわ。……セバスチャン、もう屋敷へ戻りましょうか」
「かしこまりました」
市場の喧騒を後にし、馬車に揺られながら、わたくしの心は千々に乱れておりました。
二年という月日。そして、数々の「普通じゃない」殿方との出会い。
その果てに、偶然にも見かけた、最初の相手。
彼の嘘は、確かに許しがたいものでしたわ。でも……。
(でも、あのアーサー様と話していた時の、あの自然で心地よい時間は……あれもまた、嘘だったのでしょうか……?)
答えの出ない問いが、失意に沈むわたくしの心に、新たな波紋を広げていくのを感じるのでございました。




