10.華麗なる芸術家?
「全身消毒ですって……? 防護服ですって……!?」
あの、超弩級の潔癖症であられたアルフレッド様との面会から数日。わたくし、エリザベスは、未だにあの時の衝撃を引きずっておりましたわ。もう、何が「普通」で何が「普通でない」のか、わたくしの基準すら揺らいでおりますのよ!
「お嬢様、本日の御方は、子爵家の三男でありながら、今、王都で最も注目を集める若き画家の先生でいらっしゃいますぞ。自由闊達、情熱的なお人柄と伺っております」
セバスチャンが、いつものように冷静に、しかしどこか楽しんでいるような響きを隠しきれていない声で、次の見合い相手の情報を教えてくれます。
「画家……ですって? 芸術家の方ですのね……。情熱的、ねぇ……」
画家なんて「普通」とは程遠い気もしますけれど、これまでの殿方が強烈すぎたせいか、むしろ「芸術家」という響きが、少しばかりはマシなのでは……なんて、淡い期待を抱いてしまうわたくしがいるのです。ええ、ええ、もう、わたくしの期待など、風前の灯火にも等しいのですけれど。
お会いする場所は、その画家の先生のアトリエだとか。わたくし、少々緊張しながら指定された場所へ向かいましたわ。
アトリエの扉を開けると、そこは絵の具の匂いと、不思議な熱気に満ちた空間でした。
壁一面に飾られた、あるいは無造作に立てかけられたキャンバスには、力強い筆致で描かれた風景画や、幻想的な色使いの抽象画が。そして、その中央に、件の画家、ジャン・リュック先生がいらっしゃいました。
年の頃は三十を回ったくらいでしょうか。無造作に伸ばした黒髪に、絵の具が点々と付いた作業着。しかし、その瞳は鋭く輝き、全身からほとばしるような情熱と才能が感じられます。
「やあ、エリザベス嬢だね? よく来てくれた。私がジャン・リュックだ。まあ、楽にしてくれたまえ」
その声は、飾らない、しかし自信に満ちたものでした。
(まあ……! これが芸術家というものなのね……! なんて自由で、情熱的な方なのでしょう!)
これまでの貴族の方々とは全く異なる雰囲気に、わたくしは少なからず圧倒され、そして、ほんの少しだけ、心が惹かれるのを感じました。
「先生の作品、拝見いたしました。どれも素晴らしいものばかりで……」
「フン、社交辞令はいい。私の作品は、見る者が魂で感じ取るものだ。君の魂は、何を感じた?」
ジャン・リュック先生は、わたくしの言葉を遮り、じっとわたくしの目を見つめてきました。その視線は、まるでわたくしの内面を見透かすかのようで、思わず息を呑みます。
「そ、それは……その、生命力と申しますか、ほとばしるような情熱を……」
「ほう……悪くない。君には、色を見る目があるようだ! 素晴らしい!」
彼はそう言うと、満足そうに頷き、アトリエの中を案内してくださいました。
自身の芸術論、作品に込めた想い、インスピレーションの源泉……。その言葉は時に難解でしたが、彼の芸術に対する真摯な情熱はひしひしと伝わってきて、わたくしは知らず知らずのうちに、その話に引き込まれておりました。
(もしかしたら……もしかしたら、こういう自由な方こそ、わたくしの求める『普通』とは違うけれど、新しい幸せの形を見つけられるのかもしれないわ……)
そんな、淡く、そして危険な考えが頭をよぎった、まさにその時でございました。
「エリザベス嬢……いや、リズと呼んでも?」
突然、ジャン・リュック先生はわたくしの手を取り、熱っぽい視線を向けました。
「やはり君だ……! 私が長年探し求めていた、完璧なる女神は、君だったのだ!」
「え……? ミ、ミューズ……?」
あまりに唐突な言葉に、わたくしは戸惑うばかりです。
「そうだ! 君のその憂いを秘めた瞳、そこはかとなく漂う気品、そして、どこか影のある佇まい……! ああ、リズ、君は私の芸術を完成させるために現れた、運命の女神なのだ!」
彼は、わたくしの手を握りしめ、うっとりとした表情で捲し立てます。
(ま、まあ……芸術家の方というのは、情熱的なのですね……)
少々気圧されながらも、悪い気は……しなくも、ありませんでしたわ。ええ、ほんの少しだけ。
しかし、その安堵も束の間。
「ただ……」
彼は、突然真顔になり、わたくしを頭のてっぺんからつま先まで、じろじろと品定めするように眺め始めました。
「ただ、リズ。今の君は、まだ原石だ。私のミューズとして完璧に輝くためには、もう少し手を加える必要がある」
「……手を、加える、と申しますと?」
嫌な予感が、胸を騒がせます。
「そうだ。まず、その髪の色。悪くはないが、私の求める儚さを表現するには、光が強すぎる。もっと、そう……月光のような、青白い銀髪がいいだろう」
「は、はあ……」
わたくしのこの金髪は、ヴァイスリング家の象徴なのですけれど……。
「そして、そのドレス。確かに上質だが、君の内に秘めた闇を引き出すには、些か平凡だ。常に黒を基調とし、もっと布地を薄く、肌を透けるようなデザインにするべきだ。そうすれば、君の持つ神秘性が際立つ」
く、黒ですって!? 肌が透ける……!?まるで喪服か、あるいは夜会の踊り子ではございませんか!
彼の要求は、エスカレートするばかりです。
「食事も制限しよう。君には、もっと儚げな、そう、まるで霞を食べて生きているかのような雰囲気が欲しい。体重も、あと五キロは落とすべきだな」
わたくし、今でも標準より細いくらいですのに! そんなに落としたら骨と皮になってしまいますわ!
「そして何より、その表情だ。もっとアンニュイに、もっと物憂げに。常に世界の終焉でも憂いているかのような、そんな絶望感を湛えていてほしいのだ。笑顔など、もってのほかだ!」
笑顔がもってのほか!? わたくし、普段から笑顔を心がけておりますのに!
もはや、わたくしの口から出るのは、乾いた笑いばかり。
「あ、あの、ジャン・リュック先生……? それではまるで、わたくしが別人に……」
「何を言うか、リズ! これこそが、君の真の姿なのだ! 私が、君という素材を、最高の芸術作品へと昇華させてやるのだ!」
彼は、恍惚とした表情で言い放ちました。
はあ……わたくしは、あなたの芸術のための道具ではございませんのよ。
「そして、リズ! 我々が結婚する運びとなったならば……」
ジャン・リュック先生は、そこで言葉を切り、芝居がかった様子でわたくしを見つめました。
「君は、私の創作活動に全てを捧げ、常に私の理想の女性として存在しなくてはならない。君は、私のアートの一部なのだからな!」
アートの一部……!!
わたくしは、もはや眩暈すら覚えておりました。この方は、わたくしという人間を、わたくしの個性や意思を、全く認める気がないのですわ!
その時、アトリエの隅でキャンバスが倒れる音がいたしました。彼が、デッサンの途中で無造作に立てかけていたものだったようです。
「ああもう! なぜ倒れるんだ! インスピレーションが途切れたではないか!」
突然、彼は癇癪を起したように叫び、近くにあった絵筆を床に叩きつけ、さらには絵の具のチューブを壁に向かって投げつけました!
「君のせいだ、リズ! 君が、私の理想から少しでも外れた表情をするから、私の芸術のリズムが狂うのだ! 君はミューズ失格だ!」
壁に飛び散る深紅の絵の具は、まるで血飛沫のよう。その光景に、わたくしは完全に凍りつきました。
(だ……駄目ですわ……! この方、芸術家としては素晴らしいのかもしれませんけれど、結婚相手としては……最悪でございますわ!)
わたくしは、震える声で、しかしはっきりと申し上げました。
「ジャン・リュック先生。わたくし、あなたの理想にはなれそうもございません。わたくしは、わたくし自身のままでいたいのです。あなたの芸術を押し付けられるのは、我慢なりませんわ」
「な……なんだと!? この私を理解できないというのか! 愚かな女め!」
彼は怒りに顔を歪ませ、今にもわたくしに掴みかからんばかりの勢いです。
わたくしは、セバスチャンがいつの間にか背後に立っているのを感じ、ほんの少しだけ安堵いたしました。
「失礼いたしますわ」
そう言い残し、わたくしは逃げるようにアトリエを後にしました。背後で、何かが割れる音と、彼の怒声が聞こえたような気がいたしますけれど、もう振り返りませんわ!
「セバスチャン……わたくし、何か間違っておりましたでしょうか……? 芸術を理解できない、愚かな女なのでしょうか……?」
馬車の中で、わたくしは力なく呟きました。
「とんでもございません、お嬢様。お嬢様は何も間違っておりません。芸術と個人の尊重は、全く別の問題でございます。あのように一方的に理想を押し付け、あまつさえ物に当たるなど、人としていかがなものかと」
セバスチャンの毅然とした言葉に、わたくしは少しだけ救われたような気がいたしました。
「女神、ですって……。わたくし、誰かの理想の偶像になるために生きているわけではございませんのに……」
「次こそは……! 次こそは、本当に、本当に、本当に、本当に、自分の足で立っていて、わたくしをわたくしとして見てくださる『普通の人』と……!」
王都の喧騒の中、わたくしの悲痛な叫びは、誰に届くでもなく、夕暮れの空へと消えていくのでございました。ああ、わたくしの婚活、一体いつになったら終わるのでしょう……!




