1.プロローグ:波乱の後の穏やかな日々、そして婚活決意
わたくし、エリザベス・ヴァイスリングは、かつて社交界の華と謳われた公爵令嬢でした。
金色の縦巻髪に扇子を片手、流行の最先端を行くドレスを身に纏い、夜ごと繰り返される華やかなパーティーでは、いつも注目の的。……ええ、もちろん、今となっては苦い記憶以外の何物でもありませんけれど。
当時のわたくしは、第一王子であるアレクサンダー殿下の婚約者という立場に胡坐をかき、少々、いえ、かなり傲慢な振る舞いが目立ったことでしょう。殿下のお側にはいつもわたくしが、という自負と、それ以外の女性を寄せ付けまいとする独占欲。
やたらと王子の婚約者という立場を誇っていたものの、殿下を思う気持ちはというと……とても在ったとは言えませんわね。今思えば、赤面ものの記憶ばかりですわ。
そして、お約束のように現れたのです。地味だけれど清純で、どこか健気な令嬢が。アレクサンダー殿下は、まるで雷に打たれたかのように彼女に惹かれ、わたくしはその恋路を邪魔する「悪役」の令嬢という役割に落とされてしまいましたわ。
やがて訪れた卒業パーティーでの婚約破棄と断罪。ええ、それはもう、絵に描いたような見事な断罪劇でしたわ。
わたくしの「数々の悪行」が声高に糾弾され、周囲からは非難の嵐。王子はかの令嬢を庇い、わたくしは一人、舞台の中央で唇を噛み締めるしかありませんでした。
え? その後ですか? ああ、ご心配には及びません。幸い、ヴァイスリング公爵家にはまだ多少の力と、そして何よりもわたくしを最後まで見捨てなかった家族がおりましたので、物語によくあるような国外追放や処刑、ましてや奴隷落ちなんていう最悪の事態は免れましたの。
まあ、実家は一時没落の危機に瀕し、わたくし自身も社交界からは姿を消すことになりましたけれど。ええ、ええ、わたくし自身の因果の報いを受けた結末だったと、自分でも思いますわ。
それから数年。わたくしは王都から少し離れた、父が隠居後のためにと用意していた小さな屋敷で、古くからヴァイスリング家に仕える家令のセバスチャンと共に、穏やかに暮らしておりました。
今は朝は小鳥のさえずりで目覚め、庭でハーブを育て、午後は読書やお茶を楽しむ。
夜は、窓から見える満月を眺めながら、一日を静かに振り返る。かつてのきらびやかな社交界の日々とは無縁の、質素だけれど心安らげる毎日。ええ、それはもう、本当に。
けれど……人間というのは現金なものですわね。
あまりに平穏な日々が続くと、今度は別の種類の欲が出てくるのです。刺激や波乱はもうこりごり。でも、この静けさの中で、ふと言いようのない寂しさを感じることが増えてきたのです。
一人でお茶を飲むのも、一人で月を眺めるのも、もちろん悪くはありません。
でも、誰かと「美味しいですわね」と微笑み合ったり、「月が綺麗ですわね」と語り合ったりする相手がいたら、もっと素敵なのではないかしら、と。
そう、わたくし、結婚がしたいのです。
もちろん、かつてのような、王子様の隣という華やかな地位を求める結婚ではありませんわ。わたくしが欲しいのは、ただ、穏やかで、心安らげる、「普通」の結婚。それだけなのです。
ある晴れた午後、わたくしは決意を固め、長年わたくしの世話をしてくれているセバスチャンに宣言いたしました。
「セバスチャン! わたくし、結婚いたしますわ!」
紅茶を淹れていたセバスチャンは、ピクリと眉を動かしただけで、特に驚いた様子もなくカップをわたくしの前に置きました。
「ほう、左様でございますか、お嬢様。ようやくその気になられましたか」
「ようやく、とは何ですの! わたくしだって、ずっと考えていたのですわ!」
「それは失礼いたしました。して、お相手の目星でも?」
「それが……ないから困っているのではなくて?」
セバスチャンは、やれやれとでも言いたげな、しかしどこか楽しんでいるような目でわたくしを見ました。
「では、どのようなお相手をご所望で? また、どこぞの国の王子様でも狙われますかな? 今のお嬢様の立場では、少々骨が折れるかと存じますが」
「もうこりごりですわ! 王子様も、きらびやかな社交界も! わたくしが欲しいのは、穏やかで、心安らげる『普通』の結婚なんです!」
思わず熱弁してしまったわたくしに、セバスチャンは少し困ったように微笑みました。
「お嬢様、またそのような……。お嬢様の仰る『普通』の基準が、少々、いえ、かなり世間一般のそれとずれていらっしゃるのでは、と愚考いたしますが」
「うるさいですわ! あなたはいつもいつも、わたくしの言うことにケチをつけて! 今度こそ、今度こそわたくしは普通の幸せを掴んでみせますわ!」
ぷんすかと頬を膨らませるわたくしに、彼は恭しくお辞儀をしました。
「承知いたしました。では、お嬢様の仰る『普通の方』をお探しするお手伝いをさせていただきます。どのようなご身分、ご家柄、ご趣味の方をご希望で?」
「そうねえ……」
わたくしは腕を組み、真剣に考え込みました。
「まず、王族やそれに準ずるような方、英雄譚に出てくるような勇者様のようなお方は絶対に嫌ですわ。目立つのはもううんざり。あと、わたくしを装飾品か何かのようにしか見ないような殿方もお断り。わたくし自身のことを、ちゃんと見てくれる方がいいですわね」
「ふむ」
「それから、会話がきちんと成り立つ方。わたくしの話を聞かずにご自分のことばかりお話しになる方や、逆に無口すぎて何を考えているのか分からない方も困ります。穏やかで、誠実で、一緒にいて心が安らげるような……そう、普通の方がいいのです。ええ、普通の方」
「……お嬢様、その『普通』が一番難しいのでございますよ」
セバスチャンのため息混じりの言葉は、聞かなかったことにいたしました。
それからというもの、セバスチャンは持ち前の情報網を駆使して、わたくしにいくつか釣書を持ってきてくれるようになりました。
王族や大富豪といった派手なものは避け、地方の堅実そうな貴族や、実直だと評判の騎士など、なるべく「普通」に近いであろう方々を選んでくれているようでした。
また、いきなり家同士の顔合わせというのも気が引けます。
両家の人たちが集まった場でお相手の殿方とお話してみて、この方と結婚するのは少々難しい……と想っても、そう簡単にお断りをできるものではございません。お相手のご両親はもちろん、お父様とお母様にこれ以上迷惑はかけられませんもの。
だからお見合い……の前段階として、当人同士の気軽な顔合わせという形でセバスチャンには場を設けてもらうことにしましたわ。
そして、ついに初めての顔合わせの日取りが決まったのです。
お相手は、アシュフォード子爵。近隣国の貴族で、領地経営に熱心な誠実な方、というのが釣書に書かれた情報でした。年齢もわたくしとそう離れておらず、描かれた肖像画を見る限り、優しそうなお顔立ちをしていらっしゃいます。
「アシュフォード子爵……きっと素敵な人に違いありませんわ!」
わたくしは釣書を胸に抱きしめ、期待に胸を膨らませました。ようやく、わたくしの求める穏やかな幸せへの第一歩を踏み出せるのかもしれないのですから。
「お嬢様、あまり過度な期待を持つのも……」
「セバスチャン! あなたは黙っていてくださいまし!」
心配性の家令の小言を背中で受け流し、わたくしは鏡の前でどのドレスを着ていくか、真剣に悩み始めたのでした。派手すぎず、地味すぎず、それでいてわたくしの魅力を最大限に引き出せるような……ええ、もちろん、「普通」の範囲で、ですわよ!
*
そして、顔合わせの前夜。
用意した淡い水色のドレスを眺めながら、わたくしの心臓は期待と緊張で高鳴っていました。
久しぶりの、男性との正式な顔合わせ。元「悪役」令嬢であるわたくしのことを、アシュフォード子爵はどのようにご覧になるでしょう。偏見を持たれはしないかしら。会話は弾むかしら。
考えれば考えるほど不安は募りますが、それ以上に、新しい出会いへの期待が大きいのも事実。
「大丈夫、エリザベス。あなたはもう、かつてのあなたではないのよ」
鏡の中の自分に言い聞かせます。
「穏やかに、誠実に。そして、今度こそ、『普通の人』と、普通の幸せを……」
窓の外には、美しい三日月が静かに輝いていました。
わたくしはそっと両手を組み、心の中で強く願いました。
明日出会う方が、どうか、わたくしの求める「普通の人」でありますように、と。
そして、今度こそ、穏やかで幸せな未来へと続く扉が開かれますように、と。
そんな淡い期待を胸に抱きながら、わたくしはその夜、久しぶりに心地よい緊張感と共に眠りについたのでした。




