9 霧が晴れゆく、善意の共鳴
霞は、ベッドの傍らに座り、眠る翔太の顔を見つめる。眉をひそめた寝顔を見て、胸の中に、複雑な思いが渦巻く。「…明さん…一体あなたは…誰なんですか?…何があったんですか?…どうすれば…あなたを…助けることができるの…?」
夕方、翔太は、眠りから覚める。体は少し楽になった気がする。目を開けると、霞がベッドの傍らに座り、本を読んでいる。時々、心配そうに翔太を見つめている。
「…どれくらい…眠っていた…?」 翔太の声は掠れ、少し弱々しい。頭はまだズキズキと痛む。
「…午後はずっと寝ていましたよ…」 霞は本を置き、優しく答える。「…町の先生が来て…診てくれましたよ…」
「…先生は…何か…言っていたか…?」 翔太は眉をひそめ、緊張した様子で尋ねる。「…何か…変な病気に…かかっているのか…?」
「…いいえ。先生は…ただ…疲れすぎているだけだって言っていました。…薬を飲んで…数日休めば…大丈夫だって…」 霞は安心させるように微笑み、立ち上がりながら「…横になっていてください。…薬を持ってきますから…」と言う。
霞が部屋を出ようとした時、庭から祖母の声が聞こえた。「…明ちゃんは、起きたのかい?…様子を見に行こう…」
「…起きましたよ、おばあちゃん。…ゆっくりしてください…」 霞は、少し急ぎ足で祖母のところへ行き、心配そうに言う。
「…大丈夫よ、このくらい…おばあちゃんだって…まだまだ…元気だからね…」 祖母は手を振り、翔太の部屋へ向かう。
ドアが静かに開くと、祖母の姿が現れる。翔太が起き上がろうとしているのを見て、慌てて「…動かないで…!…ちゃんと寝ていなさい…。…まだ…具合が悪いんだから…」と制止する。
「…おばあちゃん…だいぶ…楽になったよ…」 翔太は、再びベッドに横になり、少しばかり照れくさそうに言う。
祖母はため息をつき、心配そうな眼差しを向ける。「…体が…まだ…完全に治ってないのに…花売りなんかに行かせるんじゃなかった…また…苦しめてしまった…」
「…おばあちゃん…それは…俺が…そうしたくて…」 翔太は、慌てて弁解する。
祖母は、真剣な表情で翔太を見つめ、「…とにかく…今回は…きちんと休むのよ…。完全に治るまでは…花売りには…行かせないからね…!」と強く言う。
翔太は、一日中部屋にいるのは嫌だったが、反論もできず、ただ頷くしかなかった。その時、霞が温かい薬を持って入って来て、「…薬ができました。…熱いうちに…飲んでください…」と優しく促す。
部屋には、薬草の香りが漂い、温かい灯りが霞の顔を照らす。翔太は、霞の姿を見ると、心が落ち着き、痛みも和らぐ気がした。
強烈な苦味に、翔太は思わず顔をしかめるが、霞の心配そうな顔を見ると、大人しく飲み干す。
「…ありがとう…霞…」 翔太は小さく呟く。霞の優しさに、胸がいっぱいになる。彼女は、毎日大変な思いをして、自分を世話してくれている。ただの、記憶を失っただけの自分に、こんなにも尽くしてくれる霞に、どう恩返しをすれば良いのか、分からなかった。
無力感に襲われ、翔太はうつむいてしまう。
「…どういたしまして。…ゆっくり休んでいれば…すぐに良くなりますよ…」 霞は、翔太の体調を心配し、優しい声で言う。その瞳は、優しさと、どこか哀れみに満ちている。
「…そうだよ、明ちゃん。あなたは今…記憶を失っていて…身寄りもないけど…。…私と霞は…もう…あなたを…家族だと思っているからね。…おばあちゃんにとって…あなたは…孫のようなものだよ…」 祖母も優しく語りかける。
「…家族…」 翔太は、呟く。その言葉が、彼の心の奥底に響く。記憶を失ってから、何度も家族の顔を思い出し、彼らとの再会を願ったが、何も掴めなかった。だが、今、彼は理解した。家族との絆とは、きっと、こんなにも温かく、安心できるものなのだろう。まるで、道端で見つけた、久しぶりの美味しいおやつを食べる時のように、満たされるものなのかもしれない。
「…ありがとう…おばあちゃん…ありがとう…霞…」 翔太は顔を上げ、祖母と霞を見つめる。そして、力強く頷き、心から感謝の言葉を伝えた。今日から、自分には、本当に家族がいると感じることができた。この発見は、翔太の心を喜びで満たした。
「…そんなに…遠慮しなくてもいいって言ってるでしょ…」 霞は、くすりと笑い、ハンカチで翔太の額の汗を優しく拭う。祖母も、翔太を見て、慈愛に満ちた笑顔を浮かべる。
薬を飲み終えると、翔太は少し元気を取り戻した。祖母は、翔太にゆっくり休むように言い残し、部屋を出て行く。霞は、翔太を横にさせると、テーブルの上に置かれた薬の器などを片付け始める。
翔太は、ベッドに横になり、興奮冷めやらぬまま、今日起こった出来事を振り返る。そして、少し躊躇いながら、霞に「…霞…俺…どうやって…帰ってきたんだ…?…それに…あの子は…?」 翔太は、言葉を濁す。その時のことを思い出すのは、少し気が引けた。
翔太の問いかけに、霞は手を止め、振り返り、笑顔で言う。「…剛 さんと一緒に…明さんを…連れて帰ってきたんですよ。…あの子は…無事でした。…本当に…明さんのおかげです。…今…みんな…明さんのこと…英雄だって…言ってますよ…!」
「…英雄…?」 翔太は、きょとんとした顔で聞き返す。昏睡状態になる前は、自分は誘拐犯のように思われていたはずなのに。なぜ、突然、英雄扱いになっているのか、理解できない。
霞は、翔太の困惑した表情を見て、微笑む。そして、薬の器をテーブルに置くと、ベッドの傍に座り、少し誇らしげな口調で語り始める。「…明さん…知っていますか?…あなたが…倒れた後…あの飴屋の屋台は…本当に…爆発したんですよ。…もし…あなたが…子供を助けていなかったら…きっと…大怪我をしていたでしょうね…。…それを知った人たちは…みんな…明さんのこと…英雄だって…言っているんですよ!」
「…本当に…爆発したんだ…。…子供が無事で…良かった…」 翔太は、淡々と答える。安堵の表情を浮かべながら。
霞は、翔太が「英雄」という言葉に全く興味を示さず、子供の安否を気遣っていることに驚き、そして、どこか安心する。
「…聞こえていましたか?…みんな…明さんのこと…英雄だと言ってるんですよ…!」 霞は、少し期待を込めて言う。
「…ああ…聞こえたよ。…それが…どうかしたか…?…英雄は…食べれるのか…?」 翔太は、悪戯っぽく笑いながら、答える。
子供っぽい答えに、霞は、思わず笑ってしまう。
世の中の多くの人は、名誉や利益を求めて行動する。だが、霞は、名誉欲や利益のために行動する人を嫌っていた。
翔太は、違う。記憶を失った彼は、子供のように純粋で、人の心を打つ優しさを持っている。彼は、無私無欲の行動が出来る人間なのだ。
今の翔太にとって「英雄」という称号は、一切れのクッキーにも満たない価値しかないのかもしれない。だが、いつか、彼が、「英雄」という言葉が、食べる以外にも、様々なものと交換できると気づいた時、彼は、どう思うのだろうか?
霞は、翔太を見つめ、胸の奥に、温かい期待を抱いた。
「…どうして…あの子が…危ないって分かったんですか?…まるで…そこで…爆発が起こることを…知っていたみたいに…」 霞は、不思議そうに尋ねる。その瞳は、探究心に満ちている。
「…俺にも…分からないんだ…」 翔太は眉をひそめ、言葉を整理しようとする。「…時々…変な映像が…見えるんだ。…例えば…あの子が…爆発に巻き込まれる…場面とか…。…あの時…あまり…考えずに…体が…勝手に動いてたんだ。…それに…朝も…霞が…壊れたジョウロで濡れてしまうのが見えて…霞を…引き離そうとしたんだけど…逆に…怪我させてしまった…」
「…え…つまり…今日のことも…」 霞は、驚きと困惑が入り混じった声で叫ぶ。
翔太は頷き、複雑な表情をする。霞は考え込む。翔太の不可解な行動は、根拠がないのではなく、翔太が事前に何かを「見ていた」からだと、霞は気づく。
「…明さん…もしかして…あなたは…未来を予知することができるんですか…?」 霞は、恐る恐る尋ねる。口調には、信じられない気持ちが滲み出ている。その推測は、あまりにも非現実的だが、翔太の行動を説明できる唯一の可能性だ。
「…未来を予知…?」 翔太は、霞の言葉を反芻する。そして、少し考えて、「…もしかしたら…そうなのかもしれない…」と、呟く。彼の言葉には、確信が持てない、戸惑いが含まれていた。
「…もしかして…って?…でも…あなたは…事前に…それらの映像を見たって…言ったでしょう…?…それは…未来を予知するってことじゃないですか…?」 霞は、問い詰めるように言う。
「…映像は…確かに…早く…見えるんだ。…でも…いつも…突然で…。何の…兆候も…ないんだ。…それに…どうして…こんな力が…使えるのか…自分でも…よく分からない…」 翔太は、困惑した表情で説明する。
霞と翔太は顔を見合わせる。心の中に、衝撃と混乱が広がる。なぜ、翔太が、このような不思議な力を持っているのか。この力は、翔太が記憶を失う前から持っていたものなのか、それとも記憶を失ってから得たものなのか? どちらにしても、理解できないことばかりだった。
昔の伝説には、神や神使が未来を予知する力を持つと言われているが、それは証明されたものではない。ましてや、科学が発展している現代で、霞でさえ、こんなことを信じられなかった。
二人は、翔太の過去の行動を整理し、手がかりを探そうとする。分析すればするほど、翔太が、未来を予知する力を持っている可能性が高いとしか思えなかった。だが、もし本当に未来を予知できるなら、なぜ、自分が道端で倒れ、記憶を失うという結果を予知できなかったのか。これは、翔太の力が、記憶喪失後に現れたということなのだろうか?
だが、翔太の話を聞いていると、未来を予知できたとしても、これから起こることを変えることはできないのかもしれない。そのため、翔太の力がいつからあるのか、特定することはできなかった。
二人が話し合っていると、突然、ドアの外から叫び声が聞こえてきた。
霞は立ち上がり、玄関へ向かうと、剛 が、昨日助けた子供と、その母親を連れて立っていた。婦人は、片手に子供を引き、もう片手に、お菓子や飴がいっぱい入った籠を持ち、感謝の気持ちでいっぱいだ。剛 は、霞を見て、すぐに来意を説明した。
婦人は、優しく会釈し、誠実な口調で「…本当に…ありがとうございました。…昨日…あなたのお家の…お兄さんがいなかったら…うちの子は…」と言い、言葉を詰まらせる。「…お礼を言いに…直接…昨日の…お兄さんに…会わせてほしいのですが…今は…どこにいらっしゃいますか…?」
霞は、少し戸惑った。翔太は、まだ体調が悪く、休養が必要だ。今、客に会わせるべきではないだろう。だが、婦人の瞳に浮かぶ、感謝と期待の色を見て、断ることができなかった。結局、彼女は、二人を庭の翔太の部屋へと案内することにした。
霞は、翔太に、二人が来た理由をそっと説明する。翔太は、顔を上げ、母子を見つめる。
婦人は、急いで子供の手を取り、翔太の前に連れて行き、感謝の気持ちを込めながら「…早く…命の恩人に…お礼を言いなさい…」と促す。
「…ありがとう…おじさん…!」 子供は小さな声で言い、頭を下げる。
「…気にしないで…。…ただ…当たり前のことをしただけだよ…」 翔太は、体調がすぐれないので、ベッドに座ったまま、手を振り、少年を立ち上がらせようとする。顔には、少し照れ臭そうな笑顔が浮かんでいる。
婦人は、翔太に何度も頭を下げ、「…本当に…どうお礼を言えばいいのか…分かりません…。…これ…ほんのお礼の品です…。…受け取って下さい…!」 と言いながら、持ってきたお菓子と飴をテーブルの上に置く。そして、お年玉を霞に渡そうとする。
霞と翔太は、慌てて首を横に振る。翔太は「…本当に…いりません…。…俺が…人を助けたのは…本能的にやったことで…お礼を求めることでは…ないんです…」と、小さな声で言う。口調は真剣で、功利的な考えは、微塵も感じられない。彼にとって、人を助けることと、報酬を受け取ることは、全く別のものだった。霞もまた、このような贈り物を受け取ることを拒否する。彼女は、善意の行動と、利益を結びつける考え方が嫌いだった。
婦人は、二人が固辞するのを見て、仕方なくお年玉を引っ込めたが、それでも、お菓子と飴は受け取ってほしいと、何度もお願いする。「…これは…ほんの気持ちです…。…どうぞ…受け取ってください…!」
霞と翔太は顔を見合わせ、仕方なく、その贈り物を受け取ることにした。そして、感謝の言葉を伝え、母子を見送った。




