7 ちぐはぐな会話、価値観の衝突
陽光が降り注ぎ、柔らかな風が吹く。翔太は庭のベンチに座り、色鮮やかな雑誌を手に、興味深そうにページをめくっている。
傍らでは、霞が花の手入れをしている。彼女の動きは優しく、それでいて確実だ。まるで、大切な宝物を扱うかのように。
「明さん、何を読んでいるんですか?…そんなに面白そうに…」 霞は不思議そうに尋ねる。
翔太は雑誌に載っている写真を見て、目を輝かせながら言う。「…この飛行機…綺麗だな…!」
霞は雑誌の自動車広告を見て、思わず笑ってしまう。「…それは…飛行機じゃなくて…車ですよ…」
「車…?」 翔太は首をかしげ、怪訝そうに雑誌の写真を見つめる。「…でも…飛んでるように…見えるぞ…?…それに…翼も…あるし…」
霞は、翔太に車と飛行機の違い、そして広告で使われている誇張表現について説明する。翔太は、この世界には自分の知らないことがたくさんあることを改めて実感する。
「…この世界は…本当に…不思議だな…」 翔太は感嘆する。
「…ええ。外の世界は…もっともっと…素晴らしいですよ。…いつか記憶が戻ったら…色々な場所へ…旅行に行きましょう…」
「…本当に…記憶…戻るのかな…」 翔太は、再び不安に襲われる。
「…ええ、きっと。…でも、もし戻らなくても…大丈夫ですよ。…私が…ずっと一緒にいますから…」 霞は、翔太を優しく見つめる。瞳に、温かい光が宿る。
「…ありがとう…」 翔太は霞に微笑む。この場所で安心して過ごせるのは、霞の優しさのおかげだ。
その時、玄関の扉をノックする音がした。
「霞、いるかい?ちょっと、届け物があってね」 剛 の声が聞こえる。
霞が扉を開けると、剛 が魚を抱えて立っていた。彼の表情はどこかぎこちなく、視線を合わせようとしない。
「剛 さん、どうぞ」 霞は剛 を家の中に招き入れる。
剛 は魚を持って部屋に入り、庭に座る翔太の姿を見て、一瞬複雑な表情を浮かべるが、すぐにいつもの笑顔に戻る。「…明もいるんだな…」
「ああ、剛 さん、こんにちは」 翔太も挨拶を返す。剛 の視線が少し不自然で、何かを隠しているように感じ、少し違和感を覚える。
「…これ、お前たちに。…さっき川で釣ってきたんだ。…新鮮だよ…」 剛 は魚籠を霞に差し出すが、視線は泳ぎ、何か言いたげな、それでいて言い出せない様子だった。
「…ありがとうございます、剛 さん。…でも、いつもすみません…」 霞は魚籠を受け取りながら、少し戸惑う。剛 の気持ちは分かっている。でも、自分にとって彼は兄のような存在でしかない。そろそろ、はっきりと言った方がいいのかもしれない。
「…いいってことよ。…俺たちは友達だろ?…それに…霞もいつも…色々くれるじゃないか…」 剛 は頭を掻き、照れくさそうに笑う。
「…私があげているのは…ほんの少しのものですから…。…でも、この魚は…貴重すぎます。…受け取れません…」 霞は魚籠を剛 に返し、穏やかだが、毅然とした態度で言う。
霞の言葉に、剛 の笑顔が凍りつく。彼は魚籠を受け取り、うつむき加減に「…大丈夫だよ…。…この魚は…自分で釣ったものだし…別に…高くもないし…」と呟く。
霞は何も言わないが、心の中でため息をつく。金色の鯉がこの地域でどれほど貴重なものか、彼女は知っている。
この貧しい地域では、魚や肉はごちそうであり、一般家庭では滅多に食卓に上ることはない。ましてや、金色の鯉のような希少な魚は、年に一度、特定の時期にしか獲れない。漁師たちの間では、竜神の化身であり、竜門を登った鯉は龍となって天に昇ると言われている。そのため、金色の鯉は特別な意味を持ち、富と幸運の象徴とされているのだ。
金色の鯉が獲れる時期になると、漁師たちは高値で売れるため、競って漁に出る。一匹の金色の鯉は、漁師の半年分の収入にも匹敵するほど高価なものなのだ。剛 が持ってきたこの金色の鯉は、間違いなく高価なものだった。霞が受け取れないのも当然だ。
剛 も、自分の行動が友情の域を超え、霞を困らせていることに気づいたようだった。彼は俯き、魚籠の縁を指でなぞりながら、何も言わずに苦笑する。心の中に、言いようのない喪失感が広がる。
その時、祖母が買い物籠を持って帰ってきた。籠の中には、新鮮な野菜がいっぱいだ。
「…あら、ちょうど良かったわ、剛 さん。…晩ご飯、一緒にどうだい?…今日、李さんから採れたての野菜を貰ったんだよ…」 祖母は満面の笑みで剛 を誘う。
祖母の声に、霞と翔太、そして剛 は振り返る。
「…いえ…おばあちゃん…俺は…ちょっと用事があるので…」 剛 は慌てて断る。無理やり笑顔を作り、「…おばあちゃんたちで…美味しく食べてください…」と言って、足早に立ち去ってしまう。
霞は、剛 の後ろ姿を見送りながら、申し訳ない気持ちになる。少し冷たくしてしまったかもしれない。だが、これは初めてのことではない。何度断っても、剛 は諦めない。
霞は小さくため息をつき、心に決める。これ以上、剛 を傷つけるわけにはいかない。彼をこれ以上、期待させるわけにはいかない。いつか、きちんと話さなければ。彼との間には、友情以上の感情は存在しないことを。
霞が野菜を持って台所へ向かおうとした時、翔太が考え込むように、剛 が去った方を見つめていることに気づく。
「明さん、どうしたんですか?…剛 さんのこと…気にしてるんですか…?」
「…いや…ただ…剛 さん…少し…おかしいと思っただけだ…」 翔太は言う。なぜ、剛 が自分を避けるような態度を取るのか、理解できない。
「…彼は…ただ…少しシャイなだけですよ…」 霞は、剛 の気持ちを察しながら答える。
「…シャイ…?…どうして…シャイなんだ…?」 翔太には、霞の言葉の意味が理解できない。悪いことをしたわけでもないのに、なぜ恥ずかしがる必要がある?
霞は、この話題をこれ以上続けたくない。話題を変えるため、翔太に洗濯用の香料を洗濯物に加えるように頼む。
霞が夕食の準備をしていると、翔太が鮮やかな色の液体の入った瓶を持って台所に入ってきた。「…あの…霞…これ…どうやって使うんだ…?」 翔太は首を傾げ、不思議そうに尋ねる。
霞が答えるよりも早く、翔太は瓶の蓋を開け、香料の匂いを嗅ぐ。「…いい匂いだ…。…ジュース…か…?」 そう言って、瓶を口に運ぼうとする。
「…ダメッ!…明さん!…それは飲んじゃダメです…!」 霞は慌てて翔太の手から瓶を奪い取る。彼女の顔には、驚きと焦りが浮かんでいる。
「…どうして…?…美味しそうだ…」 翔太はきょとんとした顔で、霞の反応が理解できない。
「…もう!…これは洗濯用の香料ですよ!」 霞はあきれたように言う。「…洗濯に使うもので…飲むものじゃありません!…飲んだら…お腹を壊しますよ!…ひどい時は…命に関わることも…!」
翔太は驚きのあまり、香料の瓶を見つめる。そして、少し残念そうに呟く。「…そうか…香料か…。…どうして…色が違うんだ…?…それに…匂いも…ジュースみたいで…」
霞は、呆れながらも、花の種類によって香料の色が違うこと、そして香料とジュースの違いを丁寧に説明する。
翔太は、霞の説明を聞きながら、まるで未知の世界に迷い込んだような表情をする。「…どうして…俺は…何も知らないんだ…。…こんなことも…分からないなんて…」
霞は、翔太の姿を見て、心の中でため息をつく。もし、彼が記憶を取り戻せなかったら、これから学ぶことは山ほどある。優しく諭すように、「…これから…何かを口にする時は…必ず…私に聞いてくださいね…?」
翔太は頷き、「…わ…わかった…」と力なく答える。
霞は苦笑する。これから、彼に色々なことを教えなければいけない。この世界で生きていくために必要な、基本的な知識を。
夕食後、霞が食器を洗っていると、翔太が雑巾を持って、黙々とテーブルを拭いている。彼の動作は丁寧で、真剣だ。まるで、重要な任務を遂行しているかのように。
翔太が一生懸命にテーブルを拭く姿を見て、霞の心は温かくなる。翔太が家に来てから、少しずつだが、彼の存在に慣れてきた。記憶は失っているけれど、彼は純粋で優しい。以前のような傲慢な御曹司とは別人のようだ。彼との何気ない会話や、一緒に過ごす時間は、霞にとってかけがえのないものになりつつあった。
霞にとって、祖母はかけがえのない存在だ。祖母がいなければ、今の自分はいない。幼い頃、霞は大人になったら祖母に楽をさせてあげると誓った。だが、貧しい暮らしは、幼い少女と老いた祖母にとって、あまりにも過酷だった。
幸い、落霞町の人々は温かく、親切な隣人たちの助けもあり、祖母の病気の治療費や生活費を稼ぐことができた。貧しいながらも、温かい人々に囲まれ、霞は幸せを感じていた。
今の翔太は、かつての自分のように、何もできない。頼りない。霞は、記憶を失い、不安な日々を送る翔太に、少しでも安らぎを与えたいと思っていた。
「…明さん…あなたにとって…一番大切なものは…何ですか…?」 霞はふと、翔太に尋ねる。
突然の質問に、翔太は戸惑う。拭いていた手を止め、少し考えてから、「…そりゃ…金だろ!…金があれば…何でも買える…!」と答える。最近、霞と一緒に市場で花を売るようになってから、欲しい物が増えた。美味しそうな食べ物、綺麗な服、珍しい雑貨。どれも、金がないと買えない。
翔太の答えに、霞は少し眉をひそめる。考え込むように、静かに言う。「…でも…お金がすべて…ではないと…思います…。…本当に大切なのは…心の豊かさ…心の安らぎ…です…。…毎日…心穏やかに…楽しく過ごせるなら…たとえ貧しくても…それが一番の幸せだと…私は思います…」
翔太は、霞の言葉に戸惑う。「…楽しいって…美味しいもの食べたり…面白いことしたり…だろ?…でも…それには…金が…必要だ…!」 声に、焦燥感が混じる。懐の寂しさを思い出し、苛立ちを覚える。
「…明さん…幸せは…お金で買えるものじゃ…ありません…」 霞の視線は、庭の籐椅子に座り、星空を見上げる祖母へと向かう。祖母は、穏やかな笑みを浮かべている。霞の声は優しく、そして力強い。「…本当の幸せは…日常の小さな出来事…人の温かさ…そういうものの中に…あるんです…。…お金では…買えないものの中に…」
「…人の温かさ…?」 翔太は霞の視線の先にある祖母を見て、不思議そうに呟く。「…それって…食えるのか…?」
霞は優しく微笑み、首を横に振る。「…明さん…いつか…どれだけお金があっても…本当に大切なもの…人の温かさ…心の安らぎ…そういうものを失ってしまったら…どんなに大金を持っていても…取り戻せない…ということに…気づく日が来るかもしれません…」
翔太は黙り込む。霞の言葉に、心は揺さぶられる。だが、同時に、深い戸惑いも感じる。霞の言うことは分かる。だが、今の翔太には、あまりにも現実離れした話に聞こえる。彼の頭には、過去の華やかな生活が蘇る。色鮮やかな記憶は、霞の語る質素な幸せとは、あまりにもかけ離れている。
霞は、翔太の戸惑いを感じ取り、優しく語りかける。「…明さん…今はまだ…理解できないかも…しれませんが…。…いつか…美味しいものを食べても…楽しいことをしても…心が満たされない時が…来るかもしれません…。…そんな時…きっと…今日の私の言葉を…思い出す日が来ると思います…」
「…そう…かな…」 翔太は俯き、呟く。瞳に、葛藤が浮かぶ。霞の言葉を信じたい気持ちと、未だ消えない欲望。今の彼が求めているのは、霞の言う「心の安らぎ」ではなく、もっと分かりやすい、目に見える幸せだ。霞の言う「温かさ」や「心の豊かさ」を理解するには、まだ時間が必要なのかもしれない。




