6 埠頭の喧騒、穏やかな日常
朝の光が薄いカーテン越しに差し込み、埃が光の中で舞い踊る。かすかに薬草の香りが漂う。昨夜、霞が煎じた薬の残り香だ。簡素だが清潔な部屋。壁際の小さなテーブルの上には、野花が生けられた素朴な花瓶が置かれ、彩りを添えている。
小鳥のさえずりが窓から聞こえ、翔太は目を覚ます。眉間に皺を寄せ、寝返りを打つ。ゆっくりと目を開けると、朝の光が部屋を暖かく照らしていた。見慣れた木製のベッド、壁に貼られた切り絵、窓辺に置かれた霞お手製の陶器の壺。日常の風景が、彼の心を落ち着かせる。記憶は戻らないが、この小さな部屋は、記憶を失った翔太にとって、唯一の安息の地となっていた。
ゆっくりと起き上がり、両手を膝に当て、うつむいて考え込む。それから立ち上がり、壁に掛けられた古い鏡の前に立つ。鏡に映る自分の顔は、若々しく整っている。きりっとした眉、吸い込まれそうな瞳、彫りの深い顔立ち。顔色は少し青白いが、隠しきれない気品が漂う。しかし、鏡の中の自分に、どこか違和感を感じる。記憶を失う前の傲慢さや陰鬱さは消え、代わりに戸惑いと寂しさが浮かんでいる。
「明さん、起きて!今日は早く埠頭に行って、仕入れに行かないと!」 霞の明るい声がドア越しに聞こえ、翔太の思考を遮る。彼は一瞬我に返り、「ああ、今行く」と小さく答える。
霞が用意してくれた綿のズボンに着替える。柔らかな肌触りで心地良いが、見慣れないほど簡素な服だ。クローゼットを開けると、中には数着の派手な服が掛かっている。霞に助けられた時に着ていた服だ。上質な絹の生地、洗練されたデザイン。どれも、今の自分の生活とはかけ離れた、豪華なものばかりだ。
「…これは…もう、俺の服じゃない…」 呟きながら、クローゼットの扉を静かに閉める。過去の生活への嫌悪感と、拭いきれない好奇心、そして微かな喪失感が胸をよぎる。
霞の献身的な介護のおかげで、翔太の体調は徐々に回復していた。以前のような衰弱もなく、落ち着きを取り戻しつつある。この町は落霞町という名前で、三つの県の境に位置する、川沿いの静かな町だということを知る。夕日が沈む頃、川面に霞がかかることから、この名が付けられたらしい。
霞の話によると、ここから一番近い都会は雲水市という場所で、多くの若者が夢を抱いて都会へと出て行くらしい。その話を聞くと、翔太は自分の過去がその街と何か関係があるような気がしてならない。だが、具体的な記憶は一向に戻らない。
部屋を出ると、霞が朝食を用意していた。温かいお粥と、数種類の漬物。
質素な朝食に、翔太は思わず眉をひそめる。贅沢な食事に慣れていたわけではないが、目の前の食事は、彼にとってあまりにも簡素すぎた。
彼の表情に気づいた霞は、「どうかしましたか?…口に合いませんか?…田舎なので、あまり良いものは…」と申し訳なさそうに言う。
霞の言葉に、翔太は少し恥ずかしくなる。彼女が精一杯、自分の世話をしていることを知っている。スプーンを手に取り、黙って食べ始める。
「明さん、今日は顔色が良いですね。きっと、すぐに思い出せるわ」 霞は励ますように言う。
「…ああ、そう願いたい」 翔太は小さな声で答える。霞の励ましが嬉しい反面、心の中の不安と焦燥感は消えない。
「…もし…思い出せなくても…大丈夫ですよ。この町は…とても良いところです。静かで…穏やかで…。一緒に花を売って…一緒に暮らして…きっと…楽しい毎日が送れると思います…」 霞は、記憶を失い、落胆している翔太を心配しているようだった。
「…そうだな…」 翔太は曖昧に答えるが、心の中ではこれからのことを考えていた。このままではいけない。自立して生きていく術を身につけなければ。男である自分が、いつまでも霞に頼るわけにはいかない。
朝食の後、霞が食器を片付け始める。翔太も手伝おうとするが、慣れない家事に戸惑い、皿を割ったり、水をこぼしたりしてしまう。
「…私がやりますから、明さんは座っていてください…」 霞は少し困ったように言う。翔太を椅子に座らせ、一人で片付けを始める。
翔太は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。早くこの生活に慣れたい。だが、何もかもが上手くいかない。今まで家事などしたことがない。会社を経営するよりも、よほど難しいと感じた。
「今日は花市場に行って仕入れをして、それから町で店を開きましょう」 霞は食器を片付けながら、翔太に言う。
「ああ、一緒に行く」 翔太はすぐに立ち上がり、霞と一緒に外に出る。もしかしたら、自分の身元の手がかりが見つかるかもしれない。
埠頭は活気に満ちている。漁師たちが荷揚げ作業に追われ、魚介類の生臭さと威勢の良い掛け声が入り混じり、独特の雰囲気を作り出している。
目の前の光景に、翔太は戸惑いを覚える。活気に満ちたこの場所に、どこか馴染めない。まるで、隔絶された世界に迷い込んだような感覚。
霞は慣れた様子で花屋と値段交渉をしている。地元の方言を交えながらの会話は、親しみやすさに溢れている。すぐに、新鮮な花を選び、竹籠に詰めていく。
花を買う間、翔太も手伝おうとする。霞が花籠を持ち上げようとした時、反射的に手を伸ばすが、重い荷物を運ぶことに慣れていない翔太は、籠を持ち上げるのがやっとで、よろめいてしまう。
「…きゃっ!…危ない!…怪我しませんか…!」 霞は慌てて声を上げる。
翔太は照れくさそうに頭を掻く。「…すまない…少し…不器用で…」
「…大丈夫ですよ。ゆっくりでいいんです…」 霞は微笑み、慣れた手つきで花籠を天秤棒に担ぐ。
翔太は、重い花籠を軽々と担ぐ霞の後ろ姿を見つめる。少し華奢な背中。かつての自分が、会社で夜遅くまで残業し、一人で重圧に耐えていた時のことを思い出す。霞の姿に、尊敬の念を抱く。
町の市場に着くと、翔太は道端に並ぶ屋台に興味を示し、「…これらの物は…高いのか…?」と尋ねる。
霞は、翔太が指差す工芸品を見て、「…そうですね…高いものもありますが…ほとんどは…それほどでもありませんよ。普段使いのものなので…そんなに高いものは…必要ないですから…」と笑う。
翔太はポケットに手を入れる。空っぽだった。無一文の自分。これからの生活の厳しさを改めて実感する。かつての自分は、金銭の苦労など考えたこともなかっただろう。まさか、こんな形で金の大切さを知ることになるとは。少し恥ずかしそうに、「…花を売って…一日…どれくらい…稼げるんだ…?」と尋ねる。
霞は歩きながら答える。「…そうですねぇ…売れ行きが良ければ…数十元…でしょうか…。売れなければ…今日の食費くらい…かもしれません…」
翔太は、霞の言葉に愕然とする。数十元。かつての自分にとっては、一食分のチップにも満たない金額だ。それが、今の自分の生活費になる。
肉まんの屋台の横を通り過ぎた時、食欲をそそる匂いに翔太は思わず足を止める。朝食のお粥だけでは、少し物足りない。肉まんを買おうとするが、霞に止められる。
「…無駄遣いしちゃダメですよ。…昨日のお粥が…まだ残ってますから…。…肉まんが食べたかったら…今度、一緒に町の市場に行って…材料を買って…手作りしましょう…」
霞の言葉に、翔太は言葉を失う。肉まんくらい、たいした金額ではないと反論しようとしたが、すぐに口をつぐむ。かつての自分は、どれだけ無駄遣いをしていたのだろう。この生活で、金銭感覚を改めなければいけない。
二人がいつも店を出す場所に着くと、同じ場所で屋台を出している剛 が、霞に気づき、笑顔で声をかけてくる。翔太は、自分が倒れていた時に剛 が助けてくれたことを霞から聞いていたので、感謝の気持ちを伝える。剛 は軽く会釈すると、自分の仕事に戻っていった。
霞は手際よく花を並べ、店を開く。
「…いらっしゃいませ〜!…新鮮なお花…お安いですよ〜!…」 霞の元気な声が、埠頭に響き渡る。
客を呼び込む霞の姿。すぐに、彼女の屋台の前には人だかりができた。
翔太は、忙しそうに働く霞の姿を見つめる。感謝の気持ちが胸にこみ上げる。今の自分は、何もできない。霞の優しさに助けられなければ、きっと野垂れ死にだっただろう。
霞の姿から、翔太は自分が失ったものを見つける。それは、生きる力。そして、日常の大切さ。かつての自分が忘れていたもの。
赤いバラを手に取り、見つめる。指先で花びらをそっと撫でる。
日常の小さな幸せに、今まで気づいていなかった。
忙しく働く霞。大変な仕事なのに、彼女はいつも笑顔だ。
「…もしかしたら…こんな人生も…悪くないのかも…しれない…」 翔太は心の中で呟く。
霞の姿を真似て、通行人に花を売ってみる。ぎこちない動きが、かえって人々の目を引く。どこか垢抜けない、大きな青年に、人々は微笑みかける。
霞が客と楽しそうに話しているのを見る。素朴だが、温かい人情味あふれるこの町。ここで生きていくのも、悪くないのかもしれない。




