4 夕陽の埠頭、温かい出会い
刺すような寒さが、まるで体の一部になったかのように翔太にまとわりつく。氷室に捨てられた獣のように、体は硬直したままだ。意識は、風に吹かれる蝋燭の炎のように、頼りなく揺れている。瞼は鉛のように重く、開けることができない。
ゴミ収集車から飛び降り、頭を打ったことまでは覚えている。その後の記憶は、まるで深い霧に包まれているようだ。長く暗い夢を見ていたような気がする。血と暴力と恐怖に満ちた夢。無数の見えない手が彼の意識を引き裂き、耐え難い疲労と苦痛を与えてくる。
微かに、優しい声が聞こえる。その声は、深い闇を貫く一筋の光のように、翔太の心にわずかな安らぎをもたらした。
「…大丈夫ですか?…目を覚ましましたか…?」
声が近づき、鮮明になるにつれて、翔太の意識も少しずつ戻ってくる。瞼にわずかな隙間を作り、ぼんやりとした人影が見えた。シンプルなポニーテールの若い女性。素朴な綿のスカート。そして、優しい笑顔。彼女の瞳は黒曜石のように澄んで輝き、不思議な安心感を与えてくれる。
霞だ。
霞の目には、地面に倒れ、全身泥だらけの翔太の姿が映っていた。今朝、夕陽の埠頭近くの路地で、花売りの屋台を出そうとしていた霞は、道端に倒れている彼を見つけたのだ。
顔色は青白く、全身土まみれで、服は破れている。見るからに弱々しい。苦痛に歪んだ眉間と、呻き声。霞は、見過ごすことができなかった。一度は立ち去ろうとした。今の世の中、人の好意につけ込む悪人もいる。弱い女性である霞は、危険な目に遭わないよう、用心深くあるべきだった。
しかし、優しさが勝った。彼を助け起こそうとしたが、予想以上に重く、一人ではどうにもならない。幸いなことに、顔なじみの、力持ちの青年、剛 (ごう)が通りかかった。
剛 は、何も聞かずに翔太を霞の家に運んでくれた。霞の家は、夕陽の埠頭に近い小さな町、落霞町にある。都会の喧騒からは遠く離れた、静かな町だ。だが、そこには独特の港町文化と、心惹かれる風景があった。
落霞町。夕焼けの残照が優しく包み込むような、詩的でロマンチックな名前。夢と現実が交錯する、理想郷のような場所。町は夕陽の埠頭に寄り添うように広がり、大小様々な漁船が停泊している。夕日に照らされ、金色に輝く船体は、まるで音符のように、心揺さぶる漁師の歌を奏でているかのようだ。
住民の多くは、素朴で心優しい漁師や商人たち。日の出とともに働き、日没とともに休息する、シンプルで満ち足りた暮らしを送っている。裕福ではないが、自給自足の生活は、彼らに心の安らぎを与えていた。
生活への情熱にあふれた住民たちの顔には、いつも明るい笑顔が浮かんでいる。夕方になると、子供たちの遊ぶ声と大人たちの笑い声が町に響き渡り、温かい風景を作り出す。
埠頭には、魚やエビを満載した漁船が次々と到着する。漁師たちは獲れたばかりの海の幸を陸揚げし、市場へと運んでいく。新鮮な魚介類は、潮の香りを漂わせ、住民たちの食卓を彩る。
通りの両側には、様々な店が軒を連ねている。海産物店、果物屋、工芸品店。夜になると、店先に灯りがともり、柔らかな光が家路を急ぐ人々の足元を照らす。
落霞町は、人情味あふれる町だ。人々は助け合い、支え合い、この温かい故郷を守っている。
霞は、そんな落霞町で生まれ育った。幼い頃から祖母と二人暮らしで、小さな花屋を営んでいる。毎朝、埠頭の花市場で仕入れた花を、町で売っている。自分の手で、祖母と自分の生活を守っているのだ。
霞の家は、町の西側にある静かな路地にある。外壁は少し古びているが、蔦が壁を覆い、緑の彩りを添えている。玄関を開けると、爽やかな花の香りが漂ってくる。庭に咲くジャスミンとヒナギクの香りだ。
室内は狭く、家具も簡素なものばかりだが、隅々まで綺麗に掃除されている。古い木の床は、歩くと心地よい音を立てる。壁には、何枚かの風景画が飾られている。額縁は色褪せているが、温かい生活感が漂っている。
今は、祖母は留守だ。町の薬屋に薬を取りに行っている。祖母は体が弱く、持病を抱えているが、毎日、できる限りの家事をこなしている。
霞と剛 は、翔太を客間に運び、ベッドに寝かせた。客間には、古い木製のベッドと簡素なクローゼット、そして小さな棚があるだけの簡素な部屋だが、ベッドは綺麗に整えられ、シーツも清潔だ。
剛 は、翔太を寝かせると、霞に「何かあったらすぐに連絡しろ」と言い残して帰って行った。
霞は、濡れタオルで翔太の顔の汚れを優しく拭き取った。まるで壊れ物でも扱うかのような、慎重な手つき。
ベッドに横たわる翔太を見ながら、霞は考える。「この人は…一体誰なんだろう…?」 服は汚れているけれど、生地は上質なものだ。それに、顔立ちも整っている。もしかしたら、どこかの金持ちの家の息子が、家出したのかもしれない…。
翔太の額に手を当ててみると、熱い。慌てて台所へ向かい、解熱剤を作ろうとする。
台所の焜炉の上には、素朴な土鍋が置かれている。隣のガラス瓶には、庭で摘んだばかりの野花が生けられている。窓から差し込む陽光が、部屋を金色に染め、温かい雰囲気を作り出している。
霞は薬棚から薬草を取り出し、土鍋に入れ、水に浸す。手際よく火を起こし、弱火でじっくりと煎じ始めた。時々、焦げ付かないように土鍋の中をかき混ぜる。
その時、玄関の扉をノックする音がした。
「霞ちゃん、いるかい?今日は花屋が閉まってたから、ちょっと心配でね」 優しい声が聞こえる。
霞が扉を開けると、隣に住む王おばさんの姿があった。丸顔で、血色の良いふくよかな女性。いつもニコニコしていて、目尻には皺が刻まれているが、瞳からは温かい光が溢れている。
「王おばさん、いらっしゃい。どうぞお上がりください」 霞は王おばさんを家の中に招き入れる。
王おばさんは、霞の家に横たわる見知らぬ男を見て、心配そうな顔をする。
「霞ちゃん、この人は誰だい?どうして家に寝かせているんだい?」
「今朝、道端で倒れているのを見つけて…具合が悪そうだったから、連れて帰って来たんです」
「…この子は、本当に優しい子だね。でも、今の世の中、物騒だから、気をつけないとダメだよ」 王おばさんは心配そうに霞に忠告する。
「はい、王おばさん。ありがとうございます」
「あら、まぁ…本当に優しい子だねぇ…」 王おばさんはため息をつき、翔太の状況を詳しく尋ねる。そして、何かあったらすぐに自分に言うようにと、念を押した。
「じゃあ、私はこれで。また来るよ」 王おばさんは霞に声をかけ、家路についた。
王おばさんを見送った後、霞は再び焜炉の前に戻り、薬を煎じ続ける。
その時、薬屋から祖母が帰ってきた。両手には、薬草でいっぱいの籠を抱えている。小柄で痩せた体つき、少し疲れた様子だが、足取りはしっかりとしている。頭に巻いた濃い色のターバンからは、数本の白い髪が覗いている。
祖母の口元には、いつも穏やかな笑みが浮かんでいる。歯は少し欠けているが、その笑顔は言葉にできない優しさと温かさに満ちている。
「おばあちゃん、おかえりなさい」 霞は薬の籠を受け取り、祖母を椅子に座らせる。
「さっき王さんから聞いたよ。倒れてる人を助けたんだって?」 祖母は心配そうに尋ねる。
「うん。なんだか、かわいそうで…」 霞は素直に答える。
「この子は…本当に優しい子だね…」 祖母は霞を優しく見つめる。目には愛情が溢れている。顔には深い皺が刻まれ、肌は浅黒く日焼けしているが、健康的な艶がある。眉間には、生まれながらの温かさと慈愛が漂っている。目は少し濁っているが、優しい光を湛えている。まるで、人生の苦難をすべて受け止め、それでもなお優しくあろうとするかのようだ。
「大丈夫だよ、おばあちゃん。私が見てるから、薬を煎じてきて」 そう言って、霞は薬缶の様子を見る。
翔太は、眠りの中、再び温かさを感じた。かすかな薬草の香りと、柔らかな手の感触。目を開けようとするが、瞼は重く、開かない。ただ、その温かさを感じながら、心の中で霞に感謝する。




