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3 交錯する記憶、そして生存への渇望

「若旦那、逃げられました」


「何?!どうやって逃げられたんだ?お前ら、あんなに人数がいたのに」


「それが…これは我々の落ち度ではありません。奴は、まるで事前に知っていたかのように…」


「そんなバカな…紫乃(しの)は?」


「別荘に着いた時には、すでに紫乃(しの)の姿はありませんでした」


「あのクソアマ!あんな大金を受け取っておきながら、裏切りやがったか」


「…で、どうするんです?」


「まずは紫乃(しの)を探せ。俺を裏切った奴は、絶対に許さない」


……


闇が、濃い墨のように翔太(しょうた)の意識を包み込む。糸の切れた凧のように、果てしない暗闇の中を彷徨い、方向を見失う。


断片的な映像が、鋭いガラス片のように彼の意識を断ち切る。


洗濯機に放り込まれたかのように、様々な記憶の断片が、彼の意識を掻き回し、揉みくちゃにする。どれが自分の記憶で、どれが他人の記憶なのか、判別がつかない。


華やかなパーティー、策略渦巻く駆け引き。怯える若い女性を抱きしめ、耳元で何かを囁きながら、指先で彼女の腕を撫でる。女性の瞳には涙が浮かんでいるが、抵抗する力はない。


そして、豪華なシルクのパジャマを着て、柔らかなベッドに横たわる自分。周囲には、恭しく頭を下げる使用人たち。彼は彼らに命令し、少しでも機嫌を損ねれば、使用人たちは震え上がる。罵声を浴びせ、暴力を振るい、まるで虫けらのように扱う。


これらの記憶が蘇るたびに、翔太(しょうた)の体の中から、得体の知れない暴力衝動が湧き上がってくる。周囲のものすべてを破壊したくなる衝動。卑劣な笑みを浮かべ、足元に跪く使用人たちを嘲笑う自分。鞭を振るい、許しを乞う使用人たちを容赦なく打ち据える自分。


「この役立たずどもめ!俺様を守ることすらできないとは、飼い殺しにする価値もねぇ!」


「今度無事に逃げおおせたら、お前ら全員、まとめて殺してやる!」


「それに、俺を騙した奴らも、一人残らず地獄に送ってくれる!」


怒りに満ちた記憶に、翔太(しょうた)は身震いする。自分がこんなにも邪悪で、救いようのない悪党だったとは信じられない。


「違う…これは俺じゃない!俺はこんな奴じゃない!」 翔太(しょうた)は暗闇の中で必死に抗う。記憶の呪縛から逃れたい。自分が、あの忌まわしい橘翔太(たちばなしょうた )ではないことを証明したい。


もがき苦しみながら、記憶の檻から、醜悪な魂の牢獄から脱出しようとする。


「兄貴を見習え!毎日遊んでないで、少しは真面目にやれ」 恨みを含んだ老人の声。


「お前は本当に出来損ないだな」 冷たい兄の言葉が、鋭い棘のように胸に突き刺さる。


「ただの出来の悪いボンボンだ」 山本蓮(やまもとれん)の冷たく、軽蔑に満ちた声。


山本蓮(やまもとれん)…!」 翔太(しょうた)の拳が握り締められ、爪が手のひらに食い込む。成り上がり者で、女に縋ってのし上がっただけのくせに、何が偉そうなんだ!


見慣れた顔が、記憶の底から浮かび上がってくる。執事、表向きは丁寧だが、裏では陰口を叩いている。冷ややかな視線を送る親族たち。嘲笑の表情。誰も彼もが、翔太(しょうた)に「お前は負け犬だ」と告げている。


だが、憎悪と怒りに満ちた記憶の中にも、一筋の温かい光があった。妹、橘美咲(たちばなみさき )。いつも傍で、静かに自分を気遣ってくれる。この冷酷な世界で、唯一自分を蔑まない存在。


美咲(みさき ) …妹よ…お前だけは…幸せになってくれ…」 暗闇の中で呟く。声に、微かな優しさがこもる。


束の間の温もりに浸っていたその時、別の記憶の断片が彼の意識に流れ込んできた。それは、田中明大(たなかあきひろ)の記憶。


安物のチェックシャツを着て、満員電車に揺られ、オフィスで忙しく働く自分。毎日同じ作業を繰り返し、毎晩遅くまで残業し、終わりのないノルマに追われる。仕事帰りに好きな音楽を聴き、好きなコーヒーを飲み、好きなネット小説を読む。平凡だが、自由な日々。


「俺の漫画…俺のコーヒー…」 翔太(しょうた)は心の中で呟く。かつての楽しみを思い出す。かつて自分を温かく、幸せな気持ちにさせてくれたものが、今は遠く、手の届かない場所にある。喪失感と悲しみに胸が締め付けられる。


そして、自分が読みふけっていた駄作小説を思い出す。夜更かしして文句を言っていた日々。夢見ていたささやかな未来。


かつて自分は、田中明大(たなかあきひろ)という、平凡な会社員だった。地味だが、正直に生きていた。忙しかったが、心は穏やかだった。そして今は、橘翔太(たちばなしょうた )という、罪と陰謀にまみれた悪役だ。


なぜ、こんな世界にタイムスリップしてしまったのか。なぜ、悲劇的な結末を迎える悪役に?なぜ、こんなにも多くの苦難に直面しなければいけないのか。


「…不公平だ!クソッ!目が覚めないのかよ?!」 暗闇の中、絶望と悲しみに満ちた叫び声が響く。天の不公平を呪い、作者の無能さを罵り、この世界を憎む。


「俺はただ…平凡に生きたいだけだったのに…なんで俺にこんな思いをさせるんだ!なんで俺をこんなクズ野郎にするんだ!…俺は…この悪役の運命から逃れられないのか?…俺は…あいつみたいに、復讐され、嘲笑され、殺される運命なのか…?」


だが、すぐに冷静さを取り戻す。ここで嘆いていても何も変わらない。どうすれば現状を変えられるか、考えなければ。


「…いや、このまま諦めるわけにはいかない!」 翔太(しょうた)は心に誓う。


「今度こそ…今度こそ生き延びて…この物語を変えてやる!橘翔太(たちばなしょうた )を…まともな人間にしてやる!絶対に…あいつみたいに悪事を重ねる人生は送らせない!」


深呼吸をして、感情を鎮め、冷静さを保とうとする。


しかし、断片的な記憶は、まるで彼を嘲笑うかのように、次々と湧き上がってくる。


傲慢で、悪辣な御曹司。そして、平凡で、臆病で、無力な会社員。


二つの相反する人格の間で揺れ動く翔太(しょうた)の心は、矛盾と葛藤に満ちていた。


復讐心。贖罪の気持ち。


「…俺は…誰だ?俺は…どうすればいいんだ…?」 何度も自問自答するが、答えは見つからない。


「…俺は…あいつみたいに…誰からも蔑まれ…最後は路上で無残に死ぬ運命なのか…?」 心の中で呟く。その問いは、鋭い刃物のように彼の心を抉る。


タイムスリップする前の記憶が、鮮明に蘇る。夜更かしして小説を読んでいた疲れ。平凡で、ささやかな日常。未来への淡い希望。


「…死にたくない!…あいつみたいに…無駄に人生を終わらせたくない…!」 翔太(しょうた)は心の中で叫ぶ。すぐに殺される悪役にはなりたくない。変わりたい。やり直したい。


人生を変えるためには、まず自分を殺そうとする存在を排除しなければいけない。冷静に状況を分析する。小説のストーリーでは、橘翔太(たちばなしょうた )の死は、主人公一行の行動が原因だった。つまり、運命を変えるには、主人公一行を倒すか、和解するかの二択しかない。


主人公たちを倒す? それは不可能に近い。主人公補正のかかった主人公たちは、チート級の強さだ。頭脳明晰、高い能力、そして優秀な仲間たち。一方の自分は、タイムスリップ前はただの平凡な会社員。才能も、資源も、主人公たちとは比べ物にならない。今は御曹司の橘翔太(たちばなしょうた )だが、この男はまるで能がない。そうでなければ、こんなにも早く殺される運命にはなっていないはずだ。


ここまで考えて、一つの結論に達する。主人公たちを倒すなどという無謀な考えは捨て、主人公一行に協力するべきだ。それが、生き残る唯一の道かもしれない。たとえ土下座して謝罪することになっても、構わない。


その行為は臆病に見えるかもしれない。周囲から蔑まれるかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。所詮、自分は他人から見れば橘翔太(たちばなしょうた )なのだ。恥をかくのは橘翔太(たちばなしょうた )であって、自分ではない。そう考えると、翔太(しょうた)の中で橘翔太(たちばなしょうた )への嫌悪感は少し薄れ、むしろこの立場を利用できるかもしれないとさえ考えるようになった。


「…そうと決まれば、やってみる価値はある」 翔太(しょうた)は呟き、瞳に決意の光が宿る。


その時、深い闇の中に、かすかな光が現れた。濃霧の中を漂う蛍火のように、儚く揺らめいている。翔太(しょうた)の意識は、光に引き寄せられるように、わずかな覚醒を取り戻す。視線を向けると、光の中にぼんやりとした黒い影が見える。それは人のような、それでいて人ではないような、奇妙な影。光の揺らめきに合わせて輪郭が歪み、不気味で神秘的な雰囲気を漂わせている。


「…誰だ?…そこにいるのは誰だ…?」 翔太(しょうた)の声は、まるで鉄の輪で締め付けられているかのように、か細い。体を動かそうとするが、手足は鉛のように重い。ただ、目を凝らして、黒い影の正体を見極めようとする。


しかし、影は何も反応を示さない。光の縁を彷徨うように、何かを躊躇っているようにも、観察しているようにも見える。翔太(しょうた)の鼓動は高鳴り、背筋に冷たいものが走り、それが四肢へと広がっていく。得体の知れない圧迫感。まるで、何かが自分の魂を見透かそうとしているかのような感覚。


叫ぼうとするが、声は喉に詰まり、かすれた音しか出ない。「…くそっ…なんだ…これは一体…!」 心の中で焦燥感が募る。この奇妙な束縛から逃れようと藻掻くが、まるで底なし沼でもがいているかのように、抗えば抗うほど、深く沈み込んでいく。


翔太(しょうた)の不安を察知したかのように、影の動きが止まり、そしてゆっくりと後退し始めた。影が遠ざかるにつれて、光も徐々に弱まり、再び闇が世界を覆っていく。影の輪郭はぼやけ、やがて完全に闇に溶け込んだ。


「…あれは…何だったんだ?…俺を追ってきたのか?それとも…俺は…もう死んだのか…?」 恐怖と不安が翔太(しょうた)の心を掻き乱す。様々な憶測が頭をよぎるが、どれ一つとして確信を持てるものはない。無力感が、巨大な波のように彼を飲み込んでいく。


影が消えた後、暗闇の圧迫感はさらに増したように感じる。彼の意識は、蝋燭の炎のように徐々に弱まり、世界が遠ざかっていく。何かを掴もうとするが、両手はまるで意思を失ったかのように動かない。まるで、目に見えない牢獄に閉じ込められているかのようだ。


「…ダメだ!…ここで諦めるわけにはいかない…!」 翔太(しょうた)は心の底で叫ぶ。意識を集中させ、残されたわずかな清明にしがみつく。「…こんな人生は…俺が望んだ人生じゃない!…俺は…このクソみたいな運命を…絶対に…変えてやる…!」


心の奥底から、不思議な力が湧き上がってくる。生存本能が、彼をこの闇から引きずり出そうとしているかのようだ。彼の意識は、逆流する炎のように、周囲の冷たさと束縛を焼き尽くそうともがく。しかし、その炎はすぐに、容赦ない嵐に吹き消されてしまう。体から力が抜け、視界がぼやけ、すべての感覚が麻痺していくのを感じる。


最後の力が尽きようとした時、彼の脳裏に、無数の断片的な映像が走馬灯のように駆け巡る。華やかなパーティー。冷酷な視線。意味深な囁き…。次々と映し出される映像は、過去の記憶のようでもあり、悪夢の幻影のようでもある。


そしてついに、翔太(しょうた)の意識は闇に完全に飲み込まれ、底知れぬ深淵へと落ちていく。周囲には、死のような静寂が訪れ、まるで時間が止まったかのようだ。残されたわずかな希望の灯火が、彼の心の奥底で、か細く揺らめいている。

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