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17 困境の中でのもがき、初めての賭場

彼はそう言って、眉間に薄い霧のような困惑を漂わせた。まるで、どこかの古本屋の隅に埃をかぶって置かれた、解読不能な詩集のようだ。英雄という言葉は、彼にとってはまるで意味不明な記号だった。歓声の背後にある、作り物の喜びや偽善について、彼は考える気にもならなかった。しかし「疫病神」という言葉には、なぜか特別なこだわりがあった。それはまるで、頭に釘を打ち込まれたように、彼を動けなくさせる呪文のようだった。その反応は、どこか滑稽で、同時に少しばかり悲しかった。英雄と疫病神。どちらも、人が勝手に作り上げたおとぎ話の登場人物だ。その役割を演じ、観客を喜ばせたり、落胆させたりする。結局のところ、「英雄」とは、砂糖をまぶした疫病神であり、「疫病神」とは、スポットライトを失った英雄にすぎないのかもしれない。


もし人が、英雄という高みにある虚栄を、まるで古いジャズのレコードのように聞き流せるのなら、どうして、疫病神という低い場所からの嘲りを、気にする必要があるのだろう?この世の中にある名声への執着は、まるで、深海魚が発する微かな光のように、名声そのものよりも、はるかに奇妙で、そして執拗だ。目の前に、揚げたてのフライドチキンが山のように積み上げられているのに、テーブルの隅に落ちた、たった一粒の米粒に怒りを覚えるようなものだ。あるいは、満月の夜空に広がる、虚ろな繁栄を、冷静に見抜けるのに、足元の石につまずき、よろめいてしまうようなものだ。人の心というのは、そういうものなのだろう。まるで、丁寧に切り開かれた道を歩けるのに、わざわざ茨の道を選んでしまうように。あるいは、巨大なビルが持つ、不条理な構造には無頓着なのに、そのビルの影に隠れた、小さな水たまりの深さに、こだわるように。


橘翔太は、そのこだわりが、称号そのものではなく、そこに含まれたメタファーや、嫌悪感から来ていることに、気づいていないようだった。英雄は、温かいスープのようなものであり、疫病神は、凍てついた氷のようなものだ。前者は、どうでもいいことかもしれないが、後者は、彼の骨を刺す、鋭利な刃物のように感じられた。南極の氷山には、何も感じないのに、突然吹いてきた、夏の夕暮れの風に身をすくめるように。そう、人間の矛盾というのは、まるで、鏡に映る自分の姿に、過敏に反応してしまうように、物事そのものよりも、それが自分をどう見ているかによって、生じるものなのかもしれない。


英雄と疫病神。結局のところ、それはただの記号だ。人が勝手に貼ったラベルのようなものだ。しかし、人は妙にそれに執着する。まるで、無意味だと知りながら、迷路の出口を探すように、正誤、吉凶、善悪をはっきりさせようと、必死にもがく。おそらく、これは人間という生き物の、奇妙で、そして少しばかり哀しい、ロマンなのだろう。


空は、まるで、重たいレコードを延々と聴いているかのように、陰鬱だった。今にも、溜め込んだ不満を、土砂降りの雨に変えて、世界に降り注ぎそうな気配が漂っていた。霞は翔太を見て、胸の中に、青いレモンのような、酸っぱいものが広がった。それは、言葉にできない、複雑な味だった。この世の中の、弱者に対する憐憫は、まるで、道化師の作り笑いのようだ。温かく見えるが、その実、いつでも簡単に、手のひらを返すことができるという、嘘で塗り固められている。霞は理解していた。天が雨を降らせるように、人が人を選ぶように、この世は、彼らのような弱者に、微塵も慈悲をかけないだろうと。


彼女は、翔太の手をそっと握り、自分の微かな力を、彼に伝えようとした。ここ数日、翔太の世界は、まるで、古い映画のフィルムのように、激しく変化していた。現実は、まるで、悪戯好きの猫のように、彼の心の中にあった、教科書通りの理想を、全てひっくり返し、粉々に砕いてしまった。彼は、まるで、バラバラになったパズルのピースを、目の前に広げられた子供のようだった。その混乱に、途方に暮れ、泣けばいいのか、怒ればいいのかも分からなかった。霞は、彼には時間が必要だと知っていた。まるで、暗い部屋で、落とした鍵を探すように、これらの破片を少しずつ集め、再び組み立てるための時間が必要だと。たとえ、結果的に、いくつかの欠片が足りなくても。


人の心は、時として、割れたコーヒーカップのように脆く、それを修復するには、高層ビルを建てるよりも、はるかに多くの労力が必要となる。霞は、翔太の、困惑と頑固さが混ざった、複雑な表情を見て、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。しかし、それよりも強く、静かな決意が、彼女の心に湧き上がっていた。まるで、静かに流れる川のように。どれほど激しい風雨が来ようとも、彼女は彼のそばにいるだろう。たとえそれが、古くなった傘でも、彼のために、少しでも空を覆ってあげたい。運命は、悪ふざけが好きな脚本家かもしれない。しかし、彼女と翔太は、自分自身の物語の主人公になれるはずだ。運命の操り人形になるよりも、自分たちの足音を、この世界に響かせる方が、ずっと良い。


朝の陽光は、厚い雲を無理やりこじ開け、まるで、古い写真のような、薄い銀色の霧となって、庭を覆った。霞と翔太が、朝食を終えると、庭は静寂に包まれた。まるで、この世界全体が、無音状態の真空パックに閉じ込められたようだった。彼らの花屋は、無残に破壊され、収入は途絶え、生活の繋がりも、まるで、根こそぎ引き抜かれた古い木のように、失われていた。それは、まるで、折られた花のように、生気を失っていた。


霞は、何も言わず、ただハサミを手に取り、ゆっくりと、花壇のそばに歩いて行った。彼女は腰をかがめ、まるで、古いレコードを丁寧に扱うように、生き残った枝を、注意深く剪定した。その動作は、まるで、傷ついた猫を優しく撫でるように、見えた。ハサミが「カチッ」と音を立て、細い枝が落ちた。それはまるで、彼女の心の中のため息のように、そっと土に隠れていった。彼女は、急ぐことも、焦ることもなく、まるで、古い手紙を整理するように、いつもどおりに、静かに枯れた葉を一枚一枚摘み取り、花苗を整えていった。まるで、人生の破片や苦難は、修理が必要な、ただのパズルのピースに過ぎないかのようだった。


庭の隅の、古びた石のベンチに、翔太は座り、わずかにうなだれていた。まるで、雨に濡れて、項垂れる子犬のようだった。彼の瞳は、まるで、古いフィルムのように、ぼやけていて、空に向かって、茫然とした視線を投げかけていたが、そこには何も映っていなかった。彼はかつて、自分が霞の、頼りになる存在になり、彼女に平穏と幸せをもたらすことができると思っていた。しかし、今の彼は、まるで、水面に浮かぶ落ち葉のように、どこへ向かえば良いのか、分からなかった。


彼は、花壇で作業をする霞に、目を向けた。彼女の背中は、細いが、真っ直ぐ伸びていて、その動作には、運命への反抗とも、人生との和解とも言える、一種の執拗な忍耐が、宿っていた。彼女の手は、花枝をそっと撫でており、まるで、貴重なアンティークを扱うように、見えた。その真剣な表情は、彼に言葉にできないほどの、恥ずかしさを感じさせた。


霞は、剪定した枝をきれいに脇に置き、また小さなスコップを手に取り、まるで、古い時計を修理するように、いくつかの新しい苗を、丁寧に植木鉢に植えた。彼女の動作は、細心の注意が払われており、一つ一つの土が、まるで、希望の重みを持っているかのように、新しい根を優しく覆った。彼女は、これらの苗が、運命と戦う中で、残された、わずかな光に過ぎないことを、理解していた。しかし、光がある限り、彼女は、決して諦めないだろう。


彼女は顔を上げ、スコップを持ったまま、翔太を見た。その瞳は、非難でも、悲しみでもなく、静かな優しさで満たされていた。まるで、春の山間を流れる、穏やかな小川のように、静かに流れ、全てを洗い流す力を持っていた。


「明、一緒に畑仕事を手伝ってくれる?」霞は優しく微笑み、その声は、まるで、古いラジオから流れる、心地よいジャズのように、穏やかで軽快だった。彼女の笑顔には、人に安心感を与える力があった。まるで、人生がどれほどバラバラになろうとも、日々は続いていくと言っているようだった。


彼女は、立ち上がり、翔太の手を掴んだ。まるで、深淵に囚われた人を、引き上げるように。「さあ、行こう。畑を見てみよう。おばあちゃんが育てた野菜が、もうすぐ収穫できそうだって」


翔太は、彼女の手を見て、少しハッとした。それは、まるで、信じられないような、あるいは、何か、頼るものを見つけたような表情だった。彼は黙って、霞について行き、家の裏にある畑に行った。そこには、様々な野菜が植えられており、緑の葉が、太陽の下で、かすかに光り輝き、まるで、柔らかい緑の海のようで、空の雲を映していた。


彼らは一緒に、腰を下ろし、一つ一つの苗を丁寧に土に埋めた。霞の動作は、優しく、そして、手際が良かった。彼女は作業をしながら、翔太に話しかけた。「花屋は、しばらくお休みだけど、生活は続けていかないと。自分で野菜を育てるのも、悪くないわ。少なくとも、お腹は空かせないし」彼女は微笑んだ。その瞳には、人生に打ちのめされない、強い意志が宿っていた。


翔太は、彼女を見つめ、何とも言えない気持ちになった。彼は、まるで、泥沼にはまった水草のように、身動きが取れないように感じていた。一方、霞は、まるで、太陽のように、彼に希望を抱かせてくれた。彼は、低い声で言った。「でも……僕には、何もできない。自分さえ、養えない。今の僕は、まるで、役立たずだ」


霞は、手を止め、翔太の方を向き、真剣な眼差しを向けた。彼女は翔太の手を握り、優しく握り返し、微笑みながら言った。「どうして、そんなこと言うの?あなたは、私のことを守れるし、他の人を助けることもできる。それに、花をとても綺麗に育てられる。私は、あなたって、すごいと思うよ」


彼女の声は、小さかったが、まるで、深い山の湧き水のように、翔太の乾いた心に染み渡った。彼は、彼女をじっと見つめ、どう答えていいのか、分からなかった。風が、そっと彼らのそばを吹き抜け、土と野菜の香りが漂い、安心感と、静けさをもたらした。


翔太は、仕事を見つけようとしたが、まるで、泳ぎを始めたばかりの人のように、浮き上がるどころか、水の中に頭から突っ込み、何度も水を飲んだ。記憶喪失のため、彼は、自分の過去を忘れ、才能を発揮できるかもしれない技術も、忘れてしまっていた。この数日間、彼は、古いものを手放し、新しいものを受け入れた。しかし、受け入れたのは、容赦ないドアの数々であり、手放したのは、ただでさえ少なかった、自信だった。


彼は、レストランでウェイターの仕事に応募し、皿洗いは、最も技術を必要としない仕事だと考えていたが、店のオーナーが、いくつかの料理名を口にしただけで、彼は混乱し、追い出されてしまった。彼は、港で仕事を探しに行き、運び屋は、腕と足さえあればいいと考えたが、最初の麻袋を肩に担ぐ前に、押しつぶされそうになった。最後に、彼は意を決して理髪店に行き、シャンプーなら、簡単だろうと考えたが、客の頭に泡をつけ、大混乱を引き起こした。店のオーナーは、まるで、シャンプーのような些細なことでさえ、災害を起こせる天才を見るような目で、彼を見ていた。


「もしかしたら、僕は、本当に、役に立たないのかもしれない」翔太は、家に帰ると、霞に、しょんぼりと言った。その口調は、まるで、絶望に満ちた祈りのようだった。


霞は、彼の言葉を聞いても、普通の人々のように、すぐに熱心に慰めようとはせず、むしろ、静かに彼を見つめた。それはまるで、見向きもされない、古い陶器を眺めているようだった。「どうして、そんなこと言うの?」彼女はやっと口を開いた。その口調は、まるで、確信に満ちた言葉のように、真剣だった。「私は、あなたって、すごいと思うよ!」


「霞、僕を慰めなくてもいいんだ」翔太は、ため息をついた。その表情は、まるで、水やりをされない鉢植えのように、しょんぼりとしていた。「自分が今、何もできないって、分かってるんだ」


「あなたは、何もできないわけじゃない」霞は、一言一言、はっきりと、まるで、とんでもなく間違った数学の問題を訂正しているように、言った。「あなたはまだ、自分自身の道を見つけていないだけよ。鶏は、鷹のように飛ぶことを学べないし、魚は、空を舞う燕を、羨む必要はない。あなたには、あなたの良さがある。まだ、誰も見ていないだけ。私は見たわ!」


翔太は、ハッとした。霞の言葉は、まるで、薄い霧を晴らすように、初めて、自分は無価値ではないかもしれないと、感じさせてくれた。彼の胸の中に、不思議な温かさが生まれ、それはまるで、雨粒に優しく潤された種子のようだった。そうだ、彼はまだ、自分の方向を見つけていないだけだ。まだ、たくさんの道があるはずだ。彼は心の中で、拳を握りしめ、何があっても、踏ん張ることを決めた。彼は、強くなりたい。自分の居場所を見つけたい。そして、霞のためにも、彼女の信頼に、値するように。


今の彼には、この道が、どれほど長く、どれほど困難なものになるか、分からなかった。しかし、少なくとも、彼は、一歩を踏み出すことを決めた。泥沼から這い上がろうとしている人にとって、この一歩は、最高のスタートだった。


夕暮れの街路には、涼しい風が吹いていた。翔太と霞は、いつものように散歩に出かけ、賭場の前を通りかかった時、心を引き裂くような、泣き声が聞こえた。その声は、まるで、古い蓄音機から流れる、歪んだレコードの音のようだった。声のする方を見ると、賭場の入り口に、一組の親子が座って、まるで、誰かの葬式をしているかのように、泣いていた。その声に含まれる悲しみは、まるで、鉄を溶かす溶鉱炉のように、強烈だった。


「どうか、お金を返してください!あれは、私たちの全財産なんです!」父親は、地面にひざまずき、哀願していた。その表情は、まるで、崩れ落ちた古代の石像のように、悲痛だった。


賭場の入り口には、大柄の男が立っていた。その顔色は、まるで、賞味期限切れの、黒いコーヒーのように、陰鬱だった。彼は、冷たく、鼻で笑った。「金を返せだと?ここは、慈善団体か?ここは賭場だ!金があるなら入れ、ないなら出て行け!」


そばにいた女の子は、男の服の裾を引っ張り、まだ完全に開いていない、小さな花のように、可愛らしい声で言った。「おじさん、私たち、本当にお金がないんです。お願いです、お金を返してください!」


男は、少しも憐憫の情を示さず、まるで、価値のないボロ布を払い落とすように、女の子を突き飛ばし、氷よりも冷たい口調で言った。「邪魔をするな。商売の邪魔だ」


霞は、前に出て、女の子を優しく起こし、優しい声で言った。「どうしたの?なぜここにいるの?」


「私たちは……騙されたんです。全てのお金を使い果たしてしまったんです……」父親は、申し訳なさそうに、そして、無力そうに答えた。その口調には、人生のどん底から来る、絶望が溢れていた。まるで、泥の中で、もがく魚のようだった。


「どうして賭場に行ったの?ギャンブルは、人を不幸にするものなのに」霞は、腰をかがめ、まるで、過ちを犯した子供を慰めるように、優しさの中に、少しばかりの非難を込めて言った。


「ここなら、お金を稼げると聞いて、期待してしまったんです……」父親はそう言うと、うなだれた。まるで、全ての恥を、地面に刻みつけたかのように。


翔太は、ずっと黙って傍らに立ち、この親子を見つめていた。彼の心は、何かで締め付けられるように、痛んだ。父親の哀願は、かつての自分の惨めさを思い出させた。そして、女の子の無力さは、霞がかつて、自分を信じてくれたことを思い出させた。彼は、前に出て、溶鉱炉から取り出した鉄のように、決意に満ちた眼差しで言った。


「泣かないで」彼の口調は、優しく、そして力強かった。まるで、優しく、大きな手のようだった。「僕が、君たちのお金を取り戻してあげる」

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