14 迫りくる豪雨、頼るもののない絶望
岩城翔也は、ついに、自分のズボンに大きな穴が空いていることに気づいた。彼の顔は、一瞬にして、真っ青になる。彼は、慌てて、穴を隠そうとするが、隠しきれない。むしろ、彼の狼狽ぶりを、強調するだけだった。 彼は、どうあがいても、この恥ずかしい瞬間を隠すことなどできないと、理解した。
「…お前ら…よくも…俺を…笑ったな…!」 岩城翔也は、怒鳴り散らす。顔には、血管が浮き出し、自尊心を、酷く傷つけられたように感じていた。
彼は、翔太を睨みつけ、憎悪と怒りを露わにする。「…坊や…覚えていろよ!…絶対に…ただじゃ…おかないからな!…それに…お前ら…下郎ども!…覚悟しておけ…!」 そう言い残し、部下に支えられ、その場を去った。
岩城翔也は、部下を連れて去った。だが、心の中の怒りは、収まることを知らない。彼は、突然、近くの屋台を蹴り飛ばし、果物や商品を散乱させる。だが、足を捻挫していたことを忘れていた彼は、すぐに、悲鳴を上げ、その苦痛に、顔を歪めた。その滑稽な姿に、人々は、再び、笑いだす。
「…ははははは…」 人々は、岩城翔也の狼狽ぶりを見て、思わず、笑ってしまう。
後ろから、笑い声が聞こえるたびに、岩城翔也の顔は、さらに、歪んだ。そして、部下を急かし、足早に、その場を去っていった。人々を嘲笑う岩城翔也の姿は、見る影もなく、怒りは、増すばかりだった。
市場の喧騒が、次第に収まると、残されたのは、散乱した瓦礫と、店主たちの、諦めにも似たため息だけだった。霞は、翔太に寄り添い、剛 は、二人を静かに見守る。三人は、それぞれの傷を抱えながら、霞の家へ向かって歩き出した。体は、疲れ果て、痛みは、増すばかりだった。
家に着くと、霞の祖母は、三人の姿を見て、すぐに、顔を歪めた。そして、彼らを部屋に招き入れ、怪我の具合を確認しながら、心配そうに尋ねる。「…あなたたち…一体…どうしたんですか…?…どうして…こんなに…傷だらけに…なってしまったの…?」
霞は、祖母の心配そうな眼差しを受け、「…おばあちゃん…私たちは…大丈夫ですよ。…ただ…市場で…悪者に…絡まれただけですから。…少し…やられただけで…」と、優しく、慰める。
「…そんな…ひどい…!…その…悪党どもは…本当に…憎たらしいわ…!…あなたたち…若いんだから…もっと…我慢しないと…!…どうして…あんな連中と…揉めるような真似を…したの…?」 祖母は、ため息をつき、涙を浮かべながら、彼らの怪我を治療する。
「…おばあちゃん…私たちは…大丈夫だよ…。…ただの…かすり傷だから…。…数日…休めば…治るから…」 翔太は、祖母の心配そうな表情を見て、自分のしたことを、後悔した。怪我をしてしまったのは、霞と剛 であり、彼は、もっと早く、この事態を収拾すべきだった。
「…そうだよ…おばあちゃん。…俺は…体が…丈夫だからな…。…すぐに…治るよ…」 剛 は、祖母を安心させようと、腕を動かそうとする。だが、怪我を悪化させ、痛みに、顔を歪めてしまう。
「…大丈夫だなんて…!…動いちゃ…ダメよ!…早く…裏庭に…行きましょう…。…薬を塗ってあげるから…」 祖母は、心配そうに、剛 を叱る。そして、剛 を支え、裏庭へと連れていく。
霞は、翔太を優しく支え、二人で、腰を下ろす。そして、薬箱を取り出し、二人の怪我を、丁寧に治療し始めた。
祖母は、剛 の袖を優しく捲り上げ、腕にできた、青あざを見つめ、胸を痛めた。そして、ガーゼで傷口を優しく拭くと、軟膏を塗る。その手つきは、手馴れていて、優しかった。一つ一つの動作から、剛 に対する、心配りと、愛情が感じられる。
霞は、翔太の怪我を手当てする。その瞳には、心配と、痛みが見える。優しく、血を拭き取り、包帯を巻く。霞は、傷を悪化させないように、慎重に処置をする。翔太の怪我は、それほど重くはない。だが、霞は、すべての傷を、丁寧に、処置した。
霞が、翔太の処置を終えると、祖母は、まだ、剛 の怪我の手当に手間取っていた。祖母は、もう高齢だ。そして、剛 の怪我は、酷い。
「…剛 さんの…怪我の…手当は…私が…します…」 翔太は、霞の気持ちを察し、言う。「…剛 さんは…俺を…庇って…俺よりも…ひどい怪我を…している…」
霞は、翔太の言葉に、ハッとする。そして、剛 の傍に駆け寄り、「…剛 …私が…反対側の…傷を…手当します。…少し…我慢してくださいね…」と、声をかける。
剛 は、顔を伏せ、視線を逸らしながら、「…ああ…ありがとう…霞…心配しないで…我慢できるから…」と、答える。
剛 は、そう言ったが、霞は、慎重に、傷を治療する。霞は、剛 の顔を見つめる。その瞳は、相変わらず、霞のことを心配している。霞の動きは、優しく、そして、温かい。そんな、霞に、剛 は、嬉しさを感じると同時に、苦しさを感じていた。霞も、剛 の視線に気づいているのか、霞は、視線を逸らし、剛 の目を見ようとはしなかった。
霞は、剛 が、まだ、喧嘩の事を、気にしていることを理解する。だが、今は、話すべきではないと、悟る。剛 の怪我が治ったら、改めて、ゆっくりと、話そうと、心に決めた。その時になれば、きっと、剛 は、冷静に、霞の言葉を、聞いてくれるはずだ。
翔太は、二人の様子を見つめ、複雑な感情を抱く。翔太は、二人の仲を、良くしたいと思っていた。だが、今は、ただ、二人を、そっとしておく方が、良いと理解する。彼は、静かに、霞に寄り添い、二人の邪魔をしないように、務めた。
剛 は、怪我の手当が終わると、すぐに立ち上がり、帰ろうとする。「…俺は…これで…失礼します…」
「…剛 さん…ご飯を食べてから…帰りませんか…?」 霞が、剛 を、呼び止める。
「…そうだよ、剛 ちゃん。…体に…怪我をしてるんだから…。…無理しちゃ…だめだよ…」 祖母もまた、剛 を説得する。
だが、剛 は、首を横に振る。「…いいんだ…おばあちゃん…。…まだ…用事が…あるから…」 そう言うと、剛 は、背を向け、足早に去って行った。
霞は、剛 の後ろ姿を、見つめ、その瞳は、複雑な感情に満ちている。彼女は、何かを言いたかったが、言葉にできず、ただ、見送るしかなかった。
翔太は、そんな霞を見て、優しく「…霞…剛 兄さんは…良い人だから…。…きっと…」と、語りかける。
「…分かっているわ…」 霞は、翔太の言葉を遮るように言う。その声は、小さく、無力感に満ちていた。「…彼は…私を…責めることは…しない…」
翌朝、翔太と霞は、いつも通り、市場へ向かう準備をする。だが、市場へ着いた時、二人は、目の前の光景に、言葉を失う。
花屋の屋台は、破壊され、無残な姿を晒していた。植木鉢は、割れて散乱し、花は、踏みつけられ、無残に散らばっている。鼻を突くような、腐敗臭が漂い、吐き気を催すほどだった。近くの、剛 の魚屋台も、破壊され、魚の腐った臭いと、ガラスの破片が、散乱していた。店を覆っていた傘や、旗も、バラバラに引き裂かれていた。
翔太と霞は、この惨状を見て、すぐに、昨夜の岩城翔也の仕業だと、悟る。彼の復讐は、あまりにも早く、そして、激しかった。
近くにいた店主が、二人の姿を見て「…気にしないでください。…終わったことですから。…あまり…深く…考えない方が…良いですよ…」と、慰める。
「…クソッ!…俺は…絶対に…あいつを…許さない…!」 翔太は、怒りを抑えきれず、拳を握りしめ、心に、怒りの炎を燃やした。
霞は、翔太を優しく引き止め「…明さん…落ち着いてください…。…あの人たちには…力があります。…私たちには…どうすることも…できません…」と、諭した。
翔太の瞳に、怒りが宿る。「…だからって…このままじゃ…いけないだろ!…警察に…訴えるんだ!」
「…無駄よ…」 霞は、首を横に振った。そして、絶望を滲ませた声で言う。「…ここの警察も…あの…悪党と…同じようなものなのよ。…何も…してくれないわ…」
剛 も、やってきて、二人の話を聞き、「…翔太…落ち着け…」と、言い聞かせる。「…ここの…事情は…君も…知っているはずだ。…岩城の…家は…ここで…大きな力を持っている。…俺たちは…所詮…ただの…弱い人間だ。…警察だって…動かない…」
翔太は、霞と剛 の言葉を聞き、怒りが、さらに募る。彼らは、諦めてしまった。自分のために、正義を貫こうとする、勇気など、持っていなかった。本当に、このまま、泣き寝入りするしかないのか?
「…俺は…絶対に…諦めない!…」 翔太は、力強く言い放ち、踵を返し、警察署へと向かって歩き出した。翔太は、警察に訴えれば、きっと、自分たちのために、正義を貫いてくれると、信じていた。
霞と剛 は、翔太の後ろ姿を見つめ、複雑な気持ちになる。翔太は、絶対に、諦めないと理解していた。二人には、ため息を吐くことしかできなかった。そして、破壊された店を片付け始める。
翔太は、市場を出た直後、自分の行動を、少し後悔した。なぜ、自分は、こんなにも感情的になったのだろう。そして、警察署が、どこにあるのかも、知らないことに気づいた。
彼は、霞に、聞きたかった。だが、きっと、霞は、翔太の行動を、止めようとするだろう。だから、彼は、通行人に警察署の場所を尋ねると、そこへ向かった。
翔太が、町の警察署へ着くと、それは、彼が想像していたよりも、ずっと、質素なものだった。警察署は、小さく、そして、薄汚れていた。受付には、一人の警官が座っていたが、椅子に寄りかかり、あくびをしている。どうやら、まだ、寝起きなのだろう。
机の上には、書類が散乱し、埃を被っていた。この場所は、まともに手入れがされていないのだろう。警察署全体に、老朽化した雰囲気が漂い、ここが、全く機能していないように思えた。
「…何か…ご用ですか…?」 翔太の姿を見ると、警官は、面倒くさそうに、声をかけてきた。その口調は、だらしなく、やる気が全く感じられない。
「…訴えたいことがあるんです!…俺は…いじめられたんです…!」 翔太は、必死に訴えた。
「…は?…いじめられた?…まあ…いいや。…それで…何があったんだ…?…」 警官は、だらだらと答える。彼は、面倒くさそうに、体を起こすこともしない。
翔太は、警官に、岩城翔也に、いじめられた経緯を説明し始めた。昨日、市場で、何があったのか。そして、今日の朝、店を破壊されたこと。すべてを、詳しく、語った。
警官は、最初、いい加減に聞いていた。だが、翔太が、岩城翔也の名前を口にした時、彼の表情は、一変した。
だらしなく、椅子に座っていた体も、すぐに起き上がり、態度を硬化させると、翔太の言葉を遮る。「…待て…。…お前が…訴えている相手は…岩城翔也だって言ったか…?」
「…そうだ!…岩城翔也だ!…彼は…地元の…権力を…利用し…暴れ回って…弱い者を…いじめているんだ!…お前たち…警察は…俺たちの代わりに…正義を…貫くべきだ!」 翔太は、怒りを露わにする。警察が、ついに、味方になってくれる。そう、信じていた。
「…あら…その件は…少し…難しいかな…」 警官の態度は、急に、曖昧になる。そして、様々な言い訳を並べ始める。
「…難しい…?…なぜだ…?…まさか…お前たち…警察は…こんなにも…無責任なのか…?」 翔太は、怒鳴る。この警察も、また、無責任なのだと、思い知らされる。
「…いや…まあ…あなたも…分かっていると思いますが…俺たちは…ただの…小さな…田舎町の…警察でして…。…力も…限られていますからね…。…どうにも…できないこともあるんですよ…」 警官は、言い訳を続け、視線をそらす。
「…ダメだ!…絶対に…あなたたちに…やってもらわなければ…ならない!…あなたたちは…市民のために…正義を…貫くべきだろう!…」 翔太は必死に訴える。正義は、必ず、正しい行いをする人たちを、救ってくれる。そう、信じていたかった。
「…だから…言っているでしょう…。…俺たちには…どうすることも…できないんだって!…それに…証拠は…ないでしょう?…証拠もないのに…どうすれば…お前さんの…味方になれるんだよ…?…」 警官は、声を荒げ始める。そして、翔太を追い出すように、手で、追い払う仕草をした。
「…俺は…ただ…訴えに…来ただけなのに!…なぜ…そんなことを言うんだ!…警察は…市民の…味方ではないのか…?」 翔太は、感情をあらわにし、叫ぶ。
「…はぁ…なんだと?…お前…俺たちが…悪いことをしているって言うのか?…だったら…証拠を…見せてみろよ!…証拠がなければ…これ以上…騒ぐようなら…お前を…逮捕するぞ…!」 警官の態度は、急変し、怒鳴り散らす。先程の曖昧な態度は、消え、その瞳は、冷酷だった。
「…あなたたち…。…」 翔太の心臓は、激しく鼓動する。彼は、希望を抱き、ここへ来た。だが、彼の目の前にいたのは、絶望だった。
「…証拠がないなら…俺たちの邪魔をしないでくれ!…早く…立ち去ってくれ…!…とっとと…出て行け…!」 警官は、手を振り払い、翔太を追い出そうとする。
翔太は、心の底から、絶望を味わう。綺麗に整備された、正義を象徴するはずの警察署は、汚く、荒廃しており、自分の理想とは、大きくかけ離れていた。彼は、理解した。この世界は、自分が想像していたよりも、ずっと暗く、不公平な世界なのだと。
翔太は、警察署を後にする。町を歩きながら、周りの景色が、彼の心を、さらに、絶望へと突き落とす。彼の心の奥底に燃えていた正義は、無力感と絶望感に、打ち砕かれていった。
彼は、どんよりとした空を見上げ、嵐が、近づいているのを感じた。




