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わたくしの猫

 昔、猫を拾った。

 道端でひとりで鳴いていてアッシュグレーの毛並みにラピスラズリの瞳をした、小さな猫。周りに親は居ないみたいで薄汚れてて痩せこけてたけれど、生きたいと必死に鳴いてた。

「わたくしの家においで」

 一緒にいたお兄さまに「レティに飼えるの?そいつすぐ大きくなるよ」と言われたけれど、わたくしはもうその子を連れて帰るという気持ちしかなくて、「この子が自立出来る様にするわ!」と反対を押し切った。

 そのまま抱こうとしたら周りに止められて手を繋いで馬車に乗せた。馬車の中でも怯える猫に「大丈夫よ」と声をかけながらこの子の名前は何にしようかしら?と考えていたのを覚えている。


 その後、お兄さまはわたくしが妬けるくらいその子と仲良くなった。

 お兄さまには年の近い乳兄弟がいなくて、やっと何でも連れまわせる同性の子分が出来たのがよほど嬉しかったみたい。

 学園に入学する頃には「レティにはわからないよ。男同士の話さ」ってわたくしを除け者にするようになった。

 なによ!最初は猫…カズキ…を拾うの反対してたくせに。カズキも「お嬢様、ごめんな!ロラン、行こう」ってわたくしを置いて行く。

 あなた、わたくしが拾わなかったらどうなってたと思うのよ!

 わたくしが何を言っても2人は笑いながらわたくしを置き去りにしていく。

 これは躾し直さなきゃだめね。

 カズキはわたくしの猫なんだから。


 ある夜、わたくしはカズキの部屋に入った。

カズキはベッドでよく眠ってる。メイドに言って飲ませた、薬入りのココアがよく効いてるみたい。

 わたくしは念のためにカズキの手をベッドのヘッド部分に縛りつけてから、そっとベッドに上がった。

 本当に大きくなった。薄汚れて痩せこけていたあの時が嘘みたい。サラサラのアッシュグレーの髪は肩まで伸びて、今は閉じてる目は希望に溢れたラピスラズリ。そこには絶望なんてもう見えないけれど、これからまたその色に変わるのかしら?それとも……

 掛布を剥いでカズキに跨がる。寝衣のボタンをひとつずつ外してそっと脱がせた。

 肋骨が浮いていた肢体は程よく筋肉がついていて綺麗。ガサガサしてた肌はしっとりしている。カズキの肌をこんなに近くで見たのはいつぶりかしら。

 ……きっと騎士見習いとして外に出たらもうこんな事は出来ない。わたくしのデビュタントも半年後に迫ってる。これが最後のチャンスね。

 額、こめかみ、目蓋、頬にそっとキス。

 カズキ、わたくしの大事な猫。拾った時から可愛くて大好きよ。

 だから、許して。

 カズキの唇にキスをする。閉じられたそこを無理矢理開けて深くくちづける。奥で丸まった舌を絡めて吸って好きなだけ弄ぶ。ピチャ…湿った音が興奮を煽る。

「ん…」

 軽く抵抗を覚えて、顔を上げるとラピスラズリが驚愕の色をのせてわたくしを見上げている。

「目が覚めたのね」

「なん、で、お嬢…」

「レティ、よ。レティと呼びなさいって言ったわ」

「レティ…」

「最近のあなた、少し生意気ね。だから躾し直さなきゃって思ったの。誰があなたを拾ったのか、わからせないといけないわ」


 わたくしは猫を愛でる動きを再開した。

上から順に唇を落としていく。ピクリと反応を返した耳は特に長く愛でた。耳たぶを舐めて時々齧って中に舌を入れてわざと音を立てて舐めしゃぶった。もちろん、反対側の耳も指先で優しくくすぐる。

 首と鎖骨、小さくリップ音を立ててから、顔を上げると猫は静かにわたくしを見ていた。ラピスラズリにはなんの感情ものせていない。その醒めた目つきにスーッと興奮の熱が下がるのがわかった。


 猫がわたくしを避け始めたのは、いつからだろう。

 子供の頃はわたくしを中心にして動いていた。「レティ、レティ」と呼んでわたくしの後ろをついて来た。

 いつからか「レティ」が「お嬢様」になって、気付いたらわたくしの身長を頭一個分くらい抜いていて、わたくしよりお兄さまと一緒に過ごすようになって。

 カズキにはとある娼館にお気に入りがいるって聞いたのはどこの茶会だったかしら。そんな噂話で近況を知るくらい、一緒にいない時間が増えた。

 もう、カズキはわたくしの手を必要としていない…


 わたくしはカズキの手の拘束を外して、彼の上から降りた。

「レティ?」

 惨めだった。

 貴族として何でも与えられていたけれど、わたくしの本当に欲しいものは手に入らないと気付いてしまった。貴族令嬢として傲慢に命じれば……でもそれでは心は手に入らない。

 何かが溢れてしまいそう。

 起き上がったカズキの頬をそっと撫でてからわたくしは何も言わずに退室した。



 デビュタントの日は、お兄さまにエスコートしてもらった。いつもカズキにしてもらってたけど、さすがのわたくしもあんな事があった後で彼に頼むほど図太くはない。

「レティ?本当に俺でいいのか?今からでもカズキに…」

「今日はお兄さまにしてもらいたかったの。いいでしょう?」

「まあ、いいけど。どんな心境の変化だい?」

「そうね。そろそろ飼い主から自立してもらおうと思って」

「えっ?」

 そこからお兄さまは黙ってしまった。それを怪訝に思う間もなく、わたくしは他の貴族子息たちからダンスを申し込まれたり、仲の良い友人との会話を楽しんだりして、お兄さまとの会話はそのままになってしまった。


 デビュタントの日から何年か過ぎ、お兄さま達は騎士団に入団して滅多に家に帰らなくなった。その間にお父さまの事業が失敗して家は没落。わたくしと両親は昔からの使用人と一緒に首都を離れて国境近くの田舎に引越した。お父さまは昔馴染みの方の領地経営の手伝いをし、お母さまは家庭教師の職を得た。

 そんな中、わたくしはやっぱり猫が好きで猫達のための家を設立した。

 田舎で何年も過ごしているうちに、わたくしへの縁談は立ち消えてとうに行き遅れとなっていた。行き遅れの元貴族令嬢には後妻や愛人としての道しか残っていない。

 わたくしにはおじいさまからの遺産があり、猫達と過ごす分には困らない。年二回のバザーもそこそこ盛況だ。それに、貴族然としたドレスも宝石も必要ない。簡素なワンピースにエプロンで十分。毎日凝った編み込みをされていた、腰までの長さのあった髪もバッサリ落としてしまった。この時は両親や乳姉妹に泣かれてしまったけれど、わたくしは後悔していない。わたくしの淡い金色の髪は大層良い値がついて、猫達のために新しい服が買えた。

 貴族のレティからただのレティになって、白魚のようだった綺麗な指はあかぎれでぼろぼろになった。透けるように白い肌は日に焼けた。無くしたものは多いけれど、わたくしはこの生活に満足している。


 ある日、年長の猫達と一緒に市場へ買い物に出かけた。彼らはそろそろ自立に向けて準備しなければいけない。わたくしより少しだけ低い身長に囲まれて。みんなの目はキラキラ輝く宝石のよう。夢と希望に溢れた、たくさんの宝石たち。

「レティ、あたしね、首都の騎士団に入りたいな」

「あなたは剣を持つのが好きだからきっと向いてると思うわ」

「本当?」

「ええ、本当よ」

「あたしが騎士になったら、レティの騎士になってもいい?」

 わたくしの騎士。

 それは守護者になるという事。

「わたくしの騎士なんて、もったいないわ」

「そんな事ないよ!騎士に憧れるチビ達だってみんなレティの騎士になりたいって言ってるよ」

 ねー、と周りの猫達がうなづく。

 胸がふわっと暖かくなってほろりと溢れた。

「レティ、泣かないで」

「嫌だった?」

 嫌なんて、ない。

 わたくしの一番近くにいた騎士は、もうだいぶ遠くなってしまった。もう噂すらも流れては来ない。彼は騎士になって、わたくしは平民のレティ。もう簡単には会えない。


 それから、幾人かの猫達が自立して家を出て行った。騎士団に入団して、国境を守るために砦へと異動していった。

 隣国との戦争が近付いていた。


 戦争が始まった。

 物流が止まって市場に物が無くなった。

 物価が上がって物が買えなくなった。

 町に親を無くした猫が溢れた。

 わたくしと残った猫達で手分けして町に溢れた猫達を家に連れ帰った。家の周りの庭は全て開拓して畑になった。古いシーツを服に仕立てて猫達に与えた。爪に火をともすくらいの節約とほんの少しの我慢。それでも凍える夜はみんなでひとつの部屋に集まってくっついて過ごした。


 空からちらほら雪が舞う季節。

 国境の砦に首都から騎士団がやって来た。遠目から光を反射する鎧兜の色は白。勇ましい掛け声が、町からの声援が聞こえる。これで国境は守られた、という安心の声も。

 領主さまからの命を受けて、女達は砦に入った。遠路はるばる来られた騎士さまに歓迎の宴を行うとの事だった。

 16歳から23歳までの女は酌婦としての参加らしい。わたくしは一番の大年増として年下の女達を率いて宴会場に入る。

 しなだれる女、騎士の膝に手を乗せて密接する女、大きな声で笑う女…戦争で若い男達がいなくなった「ここ」では、出会いがない。みんなはギラギラ輝く獣の目。

 辺りを見回すと一画だけサークル状に人がいないテーブルが目についた。服を見れば、階級は上の方。それなのに1人で手酌で飲んでいる。ふぅ、とため息をついてそこに足を向けた。

 空いた空き瓶を脇に寄せて、次の瓶を手にしたところでそっとその瓶を奪い取る。そのまま、空いたグラスに酒を注いだ。グラスを持つ手から視線を上に移動して、目に入ったのはアッシュグレーの髪と昏い色をのせたラピスラズリ。思わず息を飲んだ。

 わたくしを怪訝そうに見ている。

 彼はわたくしをわかっていない。

 太陽みたいだと言ってくれた髪は煤けて、白くて綺麗だと誉めてくれた肌は日に焼けて。キラキラ光ってるね、と言ってくれた瞳は諦めの色に染まっている。

 彼と最後に会ったのは、まだ貴族令嬢だった頃。こんなにくたびれてしまった女ではない。

 宴もたけなわになった頃、わたくしは静かに席を立った。周りはそれなりに盛り上がっていて、女達はそれぞれの相手を見つけていい雰囲気になっている。

 ダークブラウンの髪色の騎士さまと仲良くなった友人にそっと声をかける。

「わたくしはそろそろ帰るわ」

「もういいの?」

「ええ、猫達が待ってるから」

「猫達?」

 騎士さまが口を挟む。あ、っと気まずそうな顔をして。

「割り込んだのはわたくしの方だから気になさらないで」

「猫っていうのは、孤児の事なの。レティが拾って育ててるのよ」

「若いのに偉いね」

「わたくし、昔から猫が大好きなんですの。一番好きだったのは最初に拾った子ですわ。もうとっくに離れてしまいましたけどね」

 何の運命の悪戯か、同じ部屋にいるけれど。

 友人と騎士さまに軽く頭を下げてそのまま部屋を後にした。1人で歩く道すがら、ポツリと一雫涙がこぼれた。

 本当に遠くなってしまった、と改めて思い知ったから。


 季節が巡って、また冬。

 戦争はたくさんの命を奪った。小さいのも大きいのも。

 お父さまは終戦を待たずして、夏風邪を拗らせて亡くなってしまわれた。それを追うようにお母さまも…

 音信不通のお兄さまに代わってわたくしが喪主を勤め、屋敷を売り払い、長く一緒にいてくれた使用人にささやかな金子を与えて我が家は離散した。


 冬支度の為に近くの森へ入った。薪の値段が高騰して少しでも節約出来るように猫達と松ぼっくりを拾う。そこに畑作業をしていたはずの猫達が駆けてきた。

「レティ、たいへんだよ!家に大きな猫が」

 わたくしが家を無くした孤児を猫と呼んでいるせいで、お客さんが来ても子供達は「猫」と言うようになってしまった。

「どんな方?」

「怪我してて、入り口で座り込んじゃって」

「まあ、大変!」

 年長の子供達に子猫の世話を頼んでからわたくしは1人家に戻った。

 家の入り口に座っている人を見て、わたくしは雷が落ちたような衝撃を受けた。「まさか、そんな」意味のない言葉しか出て来ない。

 血と土に汚れた髪色はアッシュグレー。眩しそうに瞬く瞳はラピスラズリ。

「すまない、逆光であなたの姿が見えない。ここは孤児院か何かだろうか?」

「ええ、ここは猫達の家よ」

「猫?」

「家を無くした猫が住む家なの……あなたもまたわたくしに拾われてくれるかしら?」

 座り込むカズキにそっと近付いて肩に手を置いた。

 驚いたように目を見張る彼の目に昏い色はない。

「レティ?」

「ええ」

 カズキの腕がぐいっと強くわたくしの腕を引く。バランスを崩して前のめりになったわたくしを強く抱いてわたくしの肩に額をつけてきた。

「会いたかった。ずっと探してた。ロランと連絡つかなくなって。人伝てに田舎に引っ越したと聞いて…昨年部下が国境で年若い女が孤児を集めて暮らしてると。平民だったけど、言葉遣いと所作が貴族のようだと言っていたから、もしかしたら…と」

 驚くのはわたくしも一緒だった。カズキがそんなにわたくしを探してるなんて思いもしなかった。傲慢な令嬢なんてとっくに忘れていると思っていたから。それをそのまま伝えると、低い声で「忘れるわけがない」

「レティは俺を大勢の孤児と一括りにしてたかもしれないけど、レティが俺を拾ってくれたから俺は生きられた」

 もう無理だった。

 抑えきれない何かが上がってきて、わたくしは初めて大きな声で泣いた。

 カズキを諦めた夜、田舎に引越した時、婚約破棄された時、両親が亡くなった時…意地と矜持が邪魔をして泣けなかった。周りが可哀想にと泣くのを見るたびに心は凍えていった。

 わたくしが泣いている間、カズキはずっと静かに待っててくれた。

「わたくしもずっと会いたかった」

 背中をさすってくれた手がそっと涙に濡れた頬を撫でる。

「髪を切ったんだな。……もしかして、昨年の宴の時に酌してくれたのはレティ?」

「気付くの遅すぎるわよ」

「マジか。………ックソ!何であの時に気付かなかったんだ!」

「本当にね。わたくしはあれで気付かないから忘れられたのだと思ってたわ」

 がっくりしょげる彼に小さかった頃の姿が重なる。

 何年経ってもやっぱりわたくしはカズキが好き。

 彼の唇にそっと自分の唇を押し当てた。すぐに離れて見上げると、彼の耳が真っ赤に染まっている。

「好きよ。わたくしの一番大事なカズキ」

「……平民になろうが、何年経ってもレティはレティだな。勝てる気がしない」

「え、っと。つまり?」

「俺も好きだよ。俺の唯一の飼い主さま」


 カズキは国境の騎士団に所属するようになって、休みの度にわたくしの家にやってくる。もう家にいる猫達公認だ。年長の猫達に剣を教えたり、小さな猫達と遊んだりしてくれる。

 領主さまにも早く結婚しろ、とせっつかれている。両親を亡くして一人になったわたくしをずっと気にかけてくださったのを知ってるから…

 だけど、わたくしもカズキももう一人の家族を待ちたいと思った。わたくしのたった一人のお兄さま。


 再会して2年が経った。

 わたくし達の間に子供が生まれた。淡い金色の髪にラピスラズリの瞳をした、かわいい女の子。

 国境の孤児院「猫の家」を卒業して、各地方に出て行った子供達がお祝いを持って訪ねて来てくれた。その中で、一番のサプライズ。首都の騎士団に入団して女騎士になった彼女が、お兄さまを連れて帰ってきてくれた。


 ほろほろ涙が流れる。

 わたくしはカズキに会ってから涙もろくなってしまったみたい。静かに泣くわたくしを後ろからカズキが抱いて、わたくしと同じ泣き顔をしたお兄さまが前から抱きしめてくれた。娘は泣きもしないで大人3人が泣く様を下から眺めている。

 わたくし達は10年以上を経てやっと家族として会えた。



 わたくしはこれからも家を、親を、場所を無くした猫を拾うだろう。そして、彼らを我が子のように愛し、自立への手助けをするのだ。国境近くの孤児院「猫の家」で。わたくしの一番大事な猫と、わたくし達の娘と一緒に。

 キラキラ輝くラピスラズリがわたくしに愛を教えてくれる。


 


 

 

 







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