【3】
「カティアナ様」
その日、図書館に行こうと借りた本を抱えて廊下を歩いていた私に声をかける人が居た。
振り返るとフェリア様が立っていた。
美しい金の髪を風になびかせて立つ姿は女神のように神々しく、微笑みは甘い。
「フェリア様。なにか御用ですか?」
それでも、今まで挨拶すら交わさなかったのになぜ親し気に呼び止めたのだろう、と私は少し訝しく思いながら尋ねた。
「お願いがあるんです」
「お願い、ですか?」
「殿下に婚約破棄を願っていただけないでしょうか」
一瞬、息が止まった。鳥の声も風の音もなにもかもすとんと消えた。
周りにはなぜか誰もいない。人目がない時を狙って話を出したのだろうか。
「長く婚約状態にあった貴女に申し訳なくて言い出せないと、殿下がおっしゃるのです。殿下から言えば、貴女のお家の方を切り捨てるという意味にもなってしまうし。お父様もお兄様も有能な方でいらっしゃるのでしょう?殿下はとても頼りになさっているそうだから、大げさにしたくないとおっしゃって」
フェリア様はとても優雅に扇を口元に当ててほほ笑んだ。
「カティアナ様が言い出してくだされば、悪いようにはしないとの仰せでしたわ」
「・・・王家と侯爵家の取り決めを私の一存では・・・」
「殿下が言えば貴女には瑕疵が付き、お家も影響を受けるでしょうが、貴女から言っていただけたら円満に収まりますの。そのように王家で根回しされているとのことですわ。理由は好きな方ができたとか、体の具合を悪くしたとか、そういうもので構いません」
そう言って、フェリア様は目を細める。
「そうだわ!『真実の愛』を見つけた、というのはいかがです?」
心臓がずきりと傷んだ。
殿下が『真実の愛』を見つけたのなら、私はいつでも身を引く覚悟だった。なのに、私にそう言えと願われるなんて。
「そうしましょう!長く縛り付けていた婚約者の恋を応援するために、殿下は身を引いて貴女を自由にしてあげるの。貴女の幸せを願って」
音楽のように美しい声音が、悪夢を奏でる。
「私は聖女ですもの。私がお側でお慰めするから心配はいらないわ。だからねえ、カティアナ様。そういうお手紙を書いてくださいな」
返事をできない私の手を取り、フェリア様はすいすいと廊下を歩く。体が近づいて、フェリア様から甘い香りが漂ってくるのを感じた。飛び切り甘いお菓子のような匂い。
誰もいない廊下は、少し怖い感じがした。そのまま手を引かれ、教室の一つに入ると、そこにはインクとペンと紙が置かれた机が一つあった。
甘い香りが強くなる。頭がぐらぐらした。
「どうぞ、お座りになって」
言われるがままに座り、渡されるままにペンを握る。
殿下に、手紙を書かなければ。
「どうぞ、私にカティアナ様の美しい文字を見せてください」
言われて、私はペンを滑らせた。
挨拶を綴り、本題に入る。
『真実の恋』を見つけたので婚約を破棄してほしいこと。
家に迷惑をかけたくないので王都から離れた領地の親戚を頼ってそちらで過ごすこと。
婚約者が居るにもかかわらず心を揺らしてしまったことへのお詫びと、追ってきてほしくはないということ。
そして、聖女フェリア様との幸せをお祈りしていること。
「ではこちらはお預かりしますわね」
署名をしてペンを置くと、フェリア様がそう言った。そして、私をいたわるようにコップを差し出した。
「少しお疲れのようですわ。果実水をどうぞ」
それを受け取り、ゆっくりと飲み干す。喉を滑り落ちたそれは、とても冷たくて少し苦かった。
「ねむい・・・わ・・・」
「ええ、いい夢を」
闇が、私を呑み込んだ。
「ねえ、カティはけっこんするのは、いや?」
えぐえぐと泣く私に誰かがそう言っている。私は悲しくて悲しくて涙があふれるせいで視界は歪み、それが誰かはわからない。
ただとても優しい声だったことを覚えている。
「わた・・・わたしはあくやくれいじょうなので・・・けっこんできません」
「どうして?」
「あくやくれいじょう、は、こんやくはきが、おしご、と・・・」
「カティはわるい子じゃないよ?」
「でんかと、わたし、しんじつのあい、ない・・・から・・・」
「そう・・・」
温かい手が頭をなでてくれる。
「カティがほんとうにすきな人のおよめさんになれるといいね」
あの声は誰だったろう。
その後、泣きすぎて倒れた私は、そのまま家に帰ったのだった。
それ以来、いつか殿下に訪れる『真実の愛』に怯えながら、それでも王子妃教育をひたすら受けてきた。従順な婚約者のふりをして。
破棄される時、できるだけ責められたり嫌われたりしないように。
「・・・ん」
気が付くと、見知らぬ部屋にいた。
頭が重いけれど、痛むほどじゃなかったので、私は体を起こす。
小さい客間だった。寝室が別にあるのではなく、一部屋に寝台と食事のできるテーブルと椅子のセット、くつろげるソファとローテーブルのセットが置かれていて、大きな扉と別の壁に小さめの扉が二つ。大きな扉の対面には掃き出し窓があり、暗い色のカーテンがかかっている。カーテンが光を遮っているので部屋は薄暗いが、見えないほどじゃないから夜ではないんだろう。
寝台から下りて、襲ってくる眩暈をごまかしながら歩く。
窓のカーテンを引けば、緑色の草原と森が目に飛び込んできた。
「ここは、どこ?」
思わずつぶやいた私の耳に控えめなノックの音が届く。
「・・・はい」
「失礼します」
入ってきたのは私と同じくらいの年のメイドだった。
「誰?」
「お嬢様のお世話をさせていただきますメイドでございます」
頭を下げたメイドは、押してきたワゴンから湯気の立つ皿を取ってテーブルに載せた。丁寧だがほとんどこちらを見ず、笑顔もない。
「丸一日お眠りだったので、薄いスープでございます。終わりましたら下げに参ります」
それだけ言うと返事も聞かずに部屋を出ていく。
丸一日?
どこも怪我はしていないし、病気でもない。ということは、薬で眠らされていたのだろうか。
私は最後の記憶を探った。
フェリア様に手紙を書かされたこと。
あの甘い匂いと最後に飲んだ果実水。
おそらく、あの手紙を出した私が駆け落ちか何かで行方をくらまし、その間に婚約破棄を進めるということなのだろう。学園の中だからと安心していたけれど。
駆け落ちだと噂がたてば、お父様がどれほどかばってくれても、たとえ何もないまま戻れても私は傷物扱いをされる。殿下の婚約者には戻れないだろう。そうすれば、一番有力な候補は聖女であるフェリア様だ。
「それが目的だったのね」
殿下は私を気に入っているわけではないにしろ、噂ほどフェリア様を好きというわけでもないんだろう。そうでなければ手紙だけで済んだか、殿下から直接お願いされただろうから。
「でも、もう関係ないわ」
呟いて、私はその場に糸の切れた操り人形のようにぐしゃりと倒れた。