表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

モーテル8号室

カフネ

作者: 穹向 水透

36作目です。綺麗な愛を文字にしようと思って書きました。

       1


 星がくるくると暗く明るい宇宙で遊んでいる。あるものは青く、あるものは赤い。また、あるものは眼に見えもしない。眼に見えないものはないもの、極端に言えば「死んだもの」になる。

「そうでしょう?」

「そうかな」

「見上げてごらん。あの宇宙を。眩まないうちに青い光を見つけてみなよ。どう? 目立つだろう?」

「目立つね」

「六等星は見える?」

「ここじゃ見えないね」

「そうだね」

 街灯は疎らに立っているだけだが、それでも星の輝きを邪魔する。誰がそれに助けられているのだろう。誰も助けられはしないだろう。

 あのオレンジ色の光が不愉快だ。ヒトなんかに作られた癖に、生意気にも目立っているのだから。出鼻を挫いてやりたかったが、普及のスピードが早過ぎた。ジャイアントホグウィードに似ている。

 遠くで車のクラクションが聞こえた。誰かが何かの目的で鳴らしたのだ。それは警告かもしれない。そして、その警告は仕事をしたのだろうか? クラクションが鳴る時は、誰かが命拾いをするか、落とすかのどちらかに限定され、それ以外はありえない。

「そうでしょう?」

「きっと、拾ったと思うよ」

「どうして?」

「空気が澱んだままだから」

「それは夏だからだよ」

「夏だから?」

「そう。夜だけど熱に噎せそうでしょう?」

「私はそうは思わない」

「君は変わってるからね」

 忌まわしい街灯が等間隔で立つ国道を車で走っている。

 クラクションは壊れて、ひとつも鳴かない。いつ壊れたのかなんて知らないし、どうでもいいことだと思う。

 運転主は僕。あまり運転は慣れないけれど、精一杯、安全走行中。

 今、僕らは橋を渡っているけれど、そこから落ちたりしたら笑い者になってしまうだろう。橋は一本道だし、貪欲なオレンジの光が大袈裟に灯っているからだ。

「山の向こうには何があるの?」

「僕は知ってるよ」

「そうなの?」

「うん。山の向こうには雲の群れがいるんだ。空の点呼のタイミングで飛び出すのが日課なんだ」

「雨の日は?」

「寒いからコートを着てる。その所為でひとりひとりの面積がバカみたいに大きくなってひとつに見える」

「そうなんだ」

 フロントガラスから見える宇宙では、燦爛とした雲が食事をしている。雲は膨張し、黒い海が少しずつ圧されて揺れる。その揺らぎの中に僕らがいることは、奇跡と言い換えられる必然でしかないのだ。

 橋は後ろに消えて、左右が黒い森となる。

「窓を開けてごらんよ」

「疲れちゃうわ」

「仕方ないな。僕が開けるよ」

「ありがとう」

「ねぇ、昨日のディナーはどうだった?」

「あんまり良くなかったかな」

「そう。ちょっと残念。苦労して作ったんだけど、美味しくなかったのかな。もしかして、胡椒を振り過ぎたのかな。あぁ、レモン果汁が多かったかな。わからないよ」

「私にもわからない。明確に何がいけなかったのか」

「わからないままでいて欲しいな」

「我儘」

「ごめんね。でも、みんな我儘だからさ」

 窓から夏の熱を孕んだ空気が流れ込んでくる。車の中は加減を知らないクーラーの所為で宛ら冷蔵庫だ。僕は薄い長袖だし、彼女は赤いカーディガンを着ている。実は彼女のカーディガンは僕があげたものだ。

 対向車がライトを挑発的に掲げてやって来る。僕はそれに慣れていないが、彼女は慣れている。僕は眼を細めながら対向車と擦れ違う。何処か陳腐さが漂う外国の高級車だった。僕は車に関しては昏い。

「眩しかったなぁ」

「そう?」

「そうだよ。配慮が足りないんだ。お高い車だからってさ」

「君は何事も中身で選ぶよね」

「そうだね。外見なんて飾りだからね。高級車だとしてもさ、欠陥だらけの襤褸だったら無意味でしょう?」

「私はどうなの?」

「そうだねぇ」

「どう?」

「例外かな」

「そう」

 彼女は何も言わなくなった。変化に乏しい人だが、それが僕には丁度良かった。僕は目紛るしく動く世界と遅れずに並走する自信なんて何処にもないのだから。越せるならまだいいのに。

 頬が少し熱くなってきた。

 空気の入れ換えが終わって、夏の空気が充満してしまったようだ。彼女は暑いのが苦手だろうから、僕は窓を閉めて、狂ったクーラーに空気の管理を任せることにした。途端に冷気が車内を席巻した。僕はどうでもいい。彼女が優先なのだ。

「寒い?」

「平気」

「何でカーディガンを着てるの?」

「君がくれたから」

「あぁ、それは嬉しいよ。ありがとう」

「私があげたピアスはしてる?」

「してるよ」

「両耳?」

「左だけ。見えるでしょう? 左の耳朶にさ、ワインレッドの小さな石が。ほら、君のくれたピアスだよ」

「右はどうしたの?」

「右は宇宙にあるから」

「そうなんだ」

 黒い森は永遠に続きそうに続いている。僕の他に車は疎らで、きっかり三分毎に一台と擦れ違う。僕はその度にクラクションを叩く。けれど、そいつは死んでるので、うんともすんとも言わない。いつ産声を上げて、いつ断末魔を上げたのか、それは僕の知る由のないことだ。 

 ガソリンが残り少しでなくなりそうだ。最後に補充したのはいつだろう。近くにガソリンスタンドは見当たらないし、どうにもならないなら、行けるところまで行くしかない。

「いいよね?」

「いいよ。時間はあるし」

「僕はないんだけどね。今日の昼、暇なの?」

「そう。もう面倒なお仕事とはさようなら。ワークライフバランスなんて歩くのが好きな言葉は知らないの」

「善く生きるって難しいからね」

「ソクラテス?」

「そう。僕にはできない」

 僕はアクセルを強く踏んだ。ガソリンは気にしない方向で行こう。帰れなくなったらタクシーを呼ぼう。

 僕の車は悲鳴のような音を上げながら人気のない国道をずんずんと走る。まるで凱旋パレードの先頭のように、或いは百鬼夜行の魁のように堂々と走っている。

 僕は少し頭が痛くなってきたので、スピードを緩めて、錠剤を口に放り込んだ。コーラのペットボトルは彼女の膝の上にある。

 頭痛はすぐに引き、黒い森が幾分か朝に近くなる。

 ペルシャの絨毯に乗った着ぐるみのパンダが僕の車と並走し、テールライトが好きなヘレニズム時代の王様が僕の車の後ろを車間距離も無視して走っている。フロントガラスの端で蛙が蜥蜴に経営学を教えている。楽しげな音楽は後部座席から聞こえてくる。

「騒がしくなったね」

「そうね。もう少し、静かな方がいいのだけれど」

「今だけだよ。花火みたいにさ」

「花火とか雷は好きじゃない」

「あぁ、そうだね。大きい音が苦手なんだっけ」

「そう」

 しかし、彼女を無視するかのように、或いは知っていて歓迎するかのように雷管が閃光とともに弾け、無数の風船が一斉に割れた。

 彼女は表情を変えなかった。

「大丈夫?」

「大丈夫。全部、幻なんだから」

「いや、現実だよ」

「現実なんかじゃない」

「見えるものの全ては現実なんだよ」

「私はそうは思わないよ」

「別に一致させたいわけじゃないからね」

 僕は手を伸ばして彼女の頬に触れた。粘土のような感触で、クーラーに冷やされているのか、体温も粘土のようだ。

「冷たいよ?」

「そんなに?」

「うん。火星の地表みたいだ」

「それは過言だよ」

 ガソリンメーターの針がEから離れなくなった。この行方知れずのドライブも終わりが近いようだ。

 無数の星が車を尾けている。

「綺麗だね。まるで僕らが世界の中心みたいじゃない?」

「それは傲慢なんじゃない?」

「傲慢さ。うん、わかってるよ」

 ペルシャの絨毯がアスファルトを擦って燃えている。着ぐるみのパンダはもういない。ヘレニズム時代の王様も消え、フロントガラスの蛙も蜥蜴も消えた。音楽も止み、ただ、夜の特定不能のさざめきだけが耳に聞こえてくる。黒い森とオレンジ色の光は、まるでループしているかのように思える。輪廻とはこういう風に、憂鬱で退屈なものなのだろう。

「あとどのくらい持つかな」

「目的地があるの?」

「決めてないよ。希望はある?」

「ないかな。もう過ぎたことだもの」

「僕にとっても同じだよ」

 オレンジ色の光が百四十八回巡って、車が急激に速度を落とし始めた。ある一定のリズムを刻んでいたけれど、それがスローモーションになり、やがて止まった。

 車が止まったのは黒い森の途中。煌々と光るオレンジ色の光と光の間。追加で光を百十五回通過したが、他の車とは会っていない。ここは人もいない、場所もわからない、隔絶された世界なのだ。

 僕は車から降りて周りを観察した。

 ただただ夜の微細な喧騒が大気を澱めている。

 僕は煙草を取り出して、口に咥え、火を点けた。煙を勢いよく吐き出すと、空が少し曇り、星も人工の光も霞んだ。僕は咳き込んで、吐き気を覚えた。道路沿い、名前も知らない草が生い茂る場所に吐いた。さっき飲んだ錠剤の副作用だろう。アップすればダウンする。そんなの当然だ。

 僕は長くなった前髪を弄った。

 骨と皮の腕をなぞった。

 鎖骨と鎖骨の真ん中を押した。

 そして、また吐いた。

 胃には殆ど中身がない筈だ。一昨日からコーラと錠剤しか口にしていない。生きるための栄養は賄えているだろう。これ以上は過分だ。

 彼女は車から降りて来ない。クーラーの効いている方がいいのだろう。こんな噎せ返るような夏夜の渦にいるよりも。

「降りようよ」

「暑いでしょう?」

「夏だからね」

「今年は冷夏じゃなかったの?」

「冷夏も夏だからね」

「それはそうだね」

「降りようよ」

「降ろして。疲れちゃった」

「仕方ないなぁ。じゃあ、お姫様抱っこでいい?」

「任せるよ」

 僕は助手席のドアを開け、彼女に手を伸ばす。彼女の腰に右腕を、左腕を膝の下に潜り込ませる。予想はしていたけれど思っていた以上に、動く気のない人体は重いものだ。それでも、持てないわけではない。

「よいしょ」

「重い?」

「夜の分の重さがあるからね」

 僕は彼女を抱えて歩き、道路を出て、茂みに入り込んだ。

「何処へ行くの?」

「星が見えるところ」

 オレンジ色の光が遠退き、見えなくなった辺りで彼女の身体を降ろした。ここならば星の海が綺麗に見えるだろう。

「暑い?」

「そうだね。やっぱり、私はクーラーが効いてる車の中の方が良かったな。花より団子、星よりクーラーだよ」

「でも、もうガソリンもないし、あれは棺みたいなものだよ」

「棺?」

「そう。つけっ放しはよくないし、切ってくるけど、切ったらファラリスの雄牛みたいになっちゃうね。じゃあ、ちょっと待ってて」

 僕は彼女を置いて、オレンジの光の方へ戻った。


       2


 ヒトはただの哺乳類だった。それだけでよかった。それだけなら何もなかった。しかし、いつの間にか文明を築き始めた。愚かなことだ。

 文明は次第に扇形へと成長し、あちらこちらに統率者が現れ、国が造られた。国は併合と分裂を繰り返し、やがて、今の世界が構築された。

 ふたつの大きな戦争を経て、空をも支配下に入れた。そして、遂に地球を出る技術を得た。

 月への航路は開拓され、いずれは月ですら無住の地ではなくなるのだろう。もう地球にはヒトの場所がない。全てを得た結果、自らの居場所を自らの手で狭めたのだから。

 今、飛行船で月へ旅立とう。

 まだ羅針盤は残っている。

 燦爛たる星の海は広大無辺に広がっている。

 銀の弾丸は三つ用意する。でも、火薬は抜かなければならない。何故なら、月では無意味だからだ。

 ラングレンの地図に従って安住の地へ。

 月には怪物がいるらしい。

 それは蛇に似ていて、母星に似て煌々とした冷徹な眼をいくつも持っている。その尻尾の棘にはマイトキシンが含まれているそうだ。

 そんな絵物語。

 今、その港にいる。

 黒い森が渦を成し、黒い空が渦の中心に広がる。

 無限かと思える星の輝きが大地を刺すように降り注いでいる。

 空気が圧縮されて熱を孕んでいる。

 夏の夜だ。

 何度の夏を過ごして、何度の夏を無視したのだろう。

 けれど、もう無視はしない。

 しっかりと受け止めよう。

 二十四回目の夏がゆっくりと終わりへ走っている。

 夜の空気は重いので動けない。

 とりわけ、夏の夜は重い。

 澱んでいるようにも見える。

 美しく、低俗な夜だ。

 こんな夜には挽歌(ラメント)がよく似合う。

 ここが世界の中心ならば良かったのに。

 もしそうなら、この声は届くのに。

 夜が完全に落ちる前に、叫ばないといけない。声の限り振り絞れば、何か変わるだろうか。そうすると、飛行船の乗船資格は剥奪されるが、それでいい。それ以上は望まない。

 ラメントが頭の中で盛大に、騒がしく、空気も読まず、木の根のように広がっていく。

 草の擦れる音が聞こえてきた。

 やっぱり、月に行こう。

 乗船資格はまだある筈だ。

 荷物は要らない。必要はない。

 さて、行こう。

 それでいいよ。

 それでいいんだ。


       3


 エンジンを切った。車は路上に置いたままだ。誰も通らないだろうけど、もし誰かが通って気付いてもらえたらラッキーだと思ったからだ。

 僕はここにいる。

 この自己主張が空振りしないことだけを祈るばかりだ。

 エンジンを切ったことで、一層、さざめきが強くなる。僕は残っていた錠剤を全てコーラで流し込んだ。心臓が大きく跳ねて静かになる。やけに周りの音が大きく聞こえる。さざめきに食べられてしまいそうだ。

 残ったコーラは茂みに捨てた。もう炭酸も消えていて飲む気も起きなかった。ペットボトルは同じように捨てられたペットボトルの群れに合流した。そこはコミュニティであり、墓だ。

 黒い森に入ることに恐怖はなかった。恐怖なんて今更なことで、生きているうちにどんどん削ぎ落とされてしまった。

 煙草に咳き込んだ。けれど、吐き気はない。夜が優しく包んでくれているからだ。視線も、罪科も、さざめきも、僕に害を為す全てを退けてくれる。夜は万人の、とりわけ、死に近しい人々の庇護者だ。

 彼女の元への道標はない。けれど、何となくわかった。一度通った見知らぬ風景が前から後ろへ滑るように、無数のさざめきを引き連れて流れていく。その喧騒は名もないまま、終わらない夜を彷徨うのだ。

 オレンジの光が届かなくなる辺りに彼女はいた。木に凭れ掛かって眠そうにしている。或いは眠っているのだろう。

「おはよう」

「おやすみだよ」

「時間はね。でも、起こすのには『おはよう』でしょう?」

「どっちでもいいよ」

「寂しかった?」

「ううん」

「残念だなぁ。寂しくて泣いてるかと思ったよ」

 彼女は白い顔を艶かしく傾けた。細かい傷はあったものの、それはサブナックの呪いは受けていないようで、赤く細く装飾されているようだった。僕はその細かい傷を撫でた。

「痛い?」

「痛くないよ」

「それならよかった。傷があっても綺麗だよ」

「ありがとう」

 僕は彼女の右腕を握った。シンプルなデザインの腕時計が巻かれている。実は左腕にも同じデザインの腕時計が巻かれている。片方は僕のものだったが、もう時間なんて不要だから彼女にあげたのだ。

 僕は彼女の横に腰を下ろした。

 彼女の凭れ掛かっていた木は、かなり古いらしく、凭れるとミシミシと不安な音を鳴らした。幹の途中から樹液が流れていたが、そこは閑古鳥が鳴いている。僕ら以外に来客はいないようだ。

「今日って月は出ないの?」

「新月でしょう? 多分」

「新月っていいよね」

「どうして?」

「星が見えるでしょう?」

「それは街から離れた場所だけ。こんな黒い森みたいな」

「怖いの?」

「怖くないよ。ちょっと、虚しいだけ」

 僕は彼女の眼を覗き込む。星灯りだけではよくわからないが、何処か遠くを見つめているような眼だ。とても美しい。

「眠いんでしょう?」

「うん」

「いいよ、おやすみ」

 僕は彼女の瞼をそっと撫でる。寝息は聞こえない。よっぽど眠かったらしい。だったら、車の中で寝てれば良かったのに。ああ、でも、ドライブが目的だったっけ。

 僕は彼女の細い腕の真っ白な大地に小指を滑らせた。腕にも赤く細かい傷が散見された。

「綺麗だよ」

 僕はそう呟いた。しかし、彼女の耳にそれが届くことはなく、ただただ原理を秘匿してばかりの宇宙の黒さに消えていった。今、僕が吐いた二酸化炭素も、昨日、僕らが吸った酸素も知らず知らずのうちに消えていくのだ。行方を知っているのは宇宙の何処かに鎮座する誰かだけだ。

 僕は煙草を取り出して口に咥えた。これが最後の一本らしい。一昨日、コンビニで一箱だけ買った。人生で初の煙草だった。何で吸おうとしたのかはわからない。

 少しだけ背伸びがしたかったのかもしれない。

 けれど、やっぱり咳き込んでしまう。これでラストだ。吐いた煙は言葉のように夜のベールの向こうへ消えていく。

「分岐だらけの道だったなぁ」

 僕は灰になりゆく煙草を眺めながら呟いた。

「でも、思えば一本道だったんだね」

 煙草がじわじわと消えていく。それは命という概念にも似ている。命は無数に漂っているが、その内のどれだけが生きているのだろう。死んだ命は剥離し、大気を彷徨い、やがては宇宙に消える。それだけだ。

 灰になった煙草を湿性の土に落として隠す。

 僕は立ち上がり、咳き込んで、再び国道へと歩き出した。


       4


 アルコールが不足している。

 薬も不足している。

 一緒に摂ったら毒になる。

 でも、同じ速度で消えていく。

 窓を開けっ放しだ。

 誰かが閉じてくれるだろうか。

 目覚まし時計もセットしたままだ。

 誰かが止めてくれるだろうか。

 電気代も水道代もガス代も未払いだ。

 こんなことしか心残りがない?

 こんなのが私なのか?

 もっと自由に生きるために生まれた。

 そう望まれて名付けられた。

 レールに不備はなかった。

 不備がなかったから憎いのか。

 髪を染めたのはいつだろう。

 ピアスを開けたのはいつだろう。

 学校なんて牢獄も同じ。

 自由が欲しかったんだ。

 わかってる。

 いや、わかってる。

 その願いの終着駅のこと。

 それはきっと無人駅だ。

 飛行船が朝夜の二回だけ訪れる。

 私は乗り過ごさないように走る。

 乗り過ごさないように生まれたのか?

 ただの準備期間だったのか?

 だとしたら、まだ足りないのか?

 ああ、アルコールが不足している。

 私をホルムアルデヒドの水溶液に浸して。

 そんな必要はないか。

 思えば、この噎せそうな夏の夜もそうだ。

 既にホルマリンの中だった。

 或いはカノプス壺。

 世界が生まれた時、世界の内臓は分割された。

 そして、私たちが造られた。

 その壺の何処かが今日の夜。

 ニュースでは冷夏と言っていた。

 キャスターは嘘吐きだった?

 コメンテーターも?

 信用なんかしてないけれど。

 何だか裏切られた気分だ。

 昔は転んでも痛くなかった。

 いや、痛かったのかもしれない。

 でも、すぐに忘れた。

 今はどうだろう。

 小さな傷に蛆が湧くまで放置するしかないのか?

 痛みはあった。

 でも、どうでもいいと思えるようになった。

 それが大人になるってことなんだ。

 わかるよ。

 今は子供なんだ。

 身体が中から食べられる感覚。

 大丈夫だよ。

 これも忘れられるから。

 だって、私はまだ子供なんだから。


       5


 後部座席に積んでおいた道具を取り出す。これはサプライズだ。しかし、彼女は薄々気付いているだろう。彼女は賢いし、僕よりも鋭い。何処かで道を間違えなければ、いや、こんな話に意味はないか。

 意味のないことなんだ。

 今からのサプライズだって意味がない。人間の行動なんて遡れば全てが自己満足に辿り着く。自分の不足を埋めたいから他人を助ける。神も仏もみんなそうだ。本当の善意なんて、純粋さなんて何処にもないのだ。

 みんな知っている癖に知らない振りをする。知らない振りができないヒトは落ち零れる。そして、誰も拾ってくれない。まるで月の海に忘れられたように、誰も手なんか差し伸べてくれない。

 死にたい。

 そんな精神安定剤を口の中で転がして日々を生きてきた。

 こんな考えばかり、僕は夜に毒されたのか? いや、デフォルトか。錠剤の効果も案外短いものだ。計画的に服用して下さい。そんな注意書きは知らないし、もう何でもいい。

 ペルシャの絨毯と着ぐるみパンダの灰が夏の夜風に連れ去られる。ヘレニズムの王様の遺骨は夜に透過する。リアガラスでは蜥蜴が蛙を啓蒙している。音楽はノイズ。

「あーあ。何も埋まらないや」

 僕は道具を抱えて茂みに入った。三回目ともなれば、すぐに彼女まで辿り着けた。ヘンゼルたちもパンなんて撒かなくてもよかったのに。大切な路は消えないものだ。

「お待たせ。まだ寝てるのかな? できれば、起きて欲しいな。ねぇ。サプライズがあるんだよ」

 彼女は起きない。揺すっても揺すっても起きる気配がない。

 まるで死んでるみたいだ。

「そういうのつまんないよ」

 僕は道具の入っている袋のチャックを開けた。

「ラングレンの地図で辿り着けると思わないでね」

 袋からシャベルを取り出して地面に刺す。

「やっぱり、夏なんだね。悪く思わないで」

 周辺の土は軟らかく、どんどん掘ることができた。

「憶えてる?」

 僕は手を動かしながら訊ねた。

「僕らが出会ったこと。君はレールから落ちて動けなかったんだよね。だから、僕のレールに乗せたんだ。ガタガタだったでしょう? ごめんね。でも、いいよね?」

 土はどんどん凹んでいき、彼女が横たわることができるサイズの窪みが完成した。僕はスコップを土に刺し、道具を入れていた袋に彼女を詰め込んだ。寝袋に道具を入れたのは我ながらナイスなアイデアだ。

 寝袋のチャックを彼女の胸元まで閉じ、彼女を窪みに横たえた。

「君はよく言ったね。『救いはない』って。うん。なかったね。少なくとも今までは。でもさ、これが『救い』だから」

 僕は彼女の顔に自分の顔を近付けた。

 命を絞った香水が彼女の存在を鮮やかにしている。

「綺麗だよ」

 僕は唇を重ねた。今までで一番熱い口付けだった。僕の唾液が彼女の口内に入り込む。僕だと思って連れて行ってくれればいい。

「はぁ」

 僕は彼女の横に寝そべった。

 さざめきが煩い。まるでオーケストラだ。こんな夜には詠唱(アリア)がよく似合うに違いない。彼女もそう思っているだろう。

「見てよ。星が綺麗だよ」

「……」

「僕は星座とかわからないからさ。君の方が造詣深いよね。ひとつでいいから教えて欲しいな」

「……」

「そう。ダメか。ねぇ、やっぱり、僕が憎い?」

「……」

「だよね。憎いよね。でも、心配しないでね。時間ってのは速いんだから。先に月で待っててよ。僕もラングレンの地図で行こうかな」

 彼女の髪にそっと指を通した。

「こういうの何て言うんだっけ。忘れちゃった」

 僕はチャックをゆっくりとゆっくりと閉じた。彼女の顔が消えていく。その顔は僕の網膜に記録された。他の全ての記憶を捨て去っても残るくらいに強く鮮やかに。

「おやすみ。またね」

 僕はシャベルで彼女に土を掛けた。

 土の中は冷たい筈だから、少しでも暖かい方がいいだろう。

 彼女が生きる世界と僕が生きる世界が完全に擦れ違った。それは近い筈なのに、絶望的な距離があることを理解できる。

「君は挽歌(ラメント)だとでも思ってるのかな。でもさ、それは似合わないと僕は思うんだ」

 僕は彼女から離れて、離れて、オレンジ色の光が見える辺りへ近付いた。サイレンの音が無数に聞こえてくる。真っ赤な光がオレンジ色と交差して混沌を作り出す。

 僕は光に導かれる蛾のようにふらふらと歩いて、アスファルトを踏み締めた。何人かの視線が僕を捉え、それらが近寄ってきて、僕は動けなくなった。動く気もなかったけれど。

 誰かが怒号を飛ばし、僕はアスファルトに押し付けられる。

 呆気ないな。

 誰かが僕をひっくり返した。

 オレンジ色や赤の混沌に隠されて、星はひとつも見えなかった。さざめきもサイレンとヒトの鳴き声に消されてしまった。

「幸せっていうのは不完全なんだね。思えば、欠けてばっかりで、最後には何もなかった」

 誰かが僕の頬を拳で殴った。

「慈悲は降らないのかな。こんなにも綺麗だった夜なのに。僕はその原理をまだ知らない。もう叶わないのかな」

 誰かが僕を無理矢理立たせて歩かせた。

 ふと、彼女の髪のイメージが頭に浮かんだ。ベランダで夜風に靡く彼女の長いブラウンの髪。脱色の繰り返しで傷んでしまった、と言っていたが、そんなことはなかった。

 彼女の眠る黒い森に大勢が侵入していく。どうして起こそうとするのだろうか。寝かせてやって欲しいのに。

「ああ、そうか。思い出した」

 僕は立ち止まり、上を見上げた。

 飛行船が幽かに見えたような気がした。

 彼女の髪が窓越しに揺らぐ。

 僕はその髪にそっと指を通す。

「カフネだ」

 飛行船から彼女が慈悲を降らせたのだろう。一瞬、混沌の中に燦爛とした星の海が見えて、すぐに消えた。消えたのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ