3 ナツメヤシ
次の日も寺院はとても冷え込んで、湖には氷がたくさん浮いた。
けれど、一面凍りつきはしなかった。
特別な魔法の護符をつけた漁師の舟はいつもと変わらず、網にいっぱい魚を引っかけてきて、船着き場で降ろしていってくれた。
サリスは手際よく魚とりの当番を済ませて、待ち合いの広間に走った。
鐘鳴る朝、天井や壁に美しい鳥の絵が描かれているそこに、幼い弟子たちが集まる。
岩の舞台で風編みをした導師たちが降りてくるのを、迎えるためだ。
弟子たちはそのまま小食堂についていって、朝餉をとる師の給仕をするのである。
「今日はずいぶん魔力を使った」
石の階段を降りてきた師は、やれやれとため息をついた。
「上空で、氷の女王がひどく吹き荒れている。困ったものだ。もし湖が凍ったら結界が弱まるだろうし、魚がとれなくなる」
「穴をあけて、釣ったらいいんです」
サリスはぽそりとつぶやいた。
「氷に穴をあけて餌を垂らせば、魚が集まります」
「ふむ。釣りをしたいのかね?」
「いえ別に、そういうわけでは……」
やりたいことなんて、なんにもない。だって、やらなければならないことがあるから。
一所懸命修行して。黒き衣の導師になって。
『サリス。我が息子よ。いにしえの英知を会得して、我が家を守れ。北五州でもっとも高貴な血筋を誇る、この家を。蒼鹿家を、なんとしても存続させるのだ』
父の望み通りに。お家を継ぐ兄のために。落ち目のお家を、助けなければならないのだから。
寺院に来る前に、全部処分した。
銀の兵隊も。神獣が描かれた対戦カードも。よくしなる釣り竿も。それから、スケート靴も、すべて。
『我が息子よ。我が家を狙う者どもを、許してはならぬ!』
ためらってはだめだ。迷いは禁物。
サリスの実家は今、北五州の一州を統べる金獅子州公家に、脅かされている。
すなわち。かの州公家を守っている師は、サリスの敵だ。
だからきっと、近い将来、師を倒さないといけなくなるだろう。
でも、平凡な導師では、あの師には到底かなわない。
黒き衣のセイリエンは、偉大な魔導師。
いにしえの魔書を紐解いて、大いなる奇跡をこの世に放つ――
(お師さま。僕はあなたに、勝たなければなりません)
だから何かをしたいなんて、願っているひまはない。
寝る間も惜しんで修行して。この寺院で一番強い導師にならないといけないのだから……
「サリス!」
刺すような声で呼ばれたサリスは、びくりと背筋を伸ばした。腕に抱えていた葡萄酒の瓶が、ぼちゃりとはねる。
「は、はい。お師さま、なんでしょうか?」
「赤箱が来ていない」
「あ、すみません!」
赤箱には、師の大好物が入っている。桃色の砂糖衣がたっぷりついた、ランジャのナツメヤシ。ほどよく甘くて口の中でサッと溶ける、実に高価なお菓子だ。
長老の特権で何箱も氷室に保管していて、いつも食事の皿といっしょに出していたのに。今日はうっかり忘れてしまった。
厨房に走り、慌てて赤箱を確保すると。調理当番の子たちが、並べた大樽を前にして、なにやら話し合っていた。
「やばいよな」「うん、やばい」
「これ開けたら、まずいよな」
「うん。絶対、このまま捨てた方がいい」
――「あの、何が入ってるんですか?」
たずねた瞬間、サリスは後悔した。
「え? おまえ、見えないの?」
腕組みしている年長の子が、バカにしてきたからだった。
「韻律を唱えれば、見えます」
か細い声で答えれば。他の子たちもくすくす笑ってきた。
「透視ぐらい、韻律無しでできないとね」
「ほんと。わざわざ、魔法の気配をおろすまでもないよ」
「おまえそんなじゃ、うっかり樽を開けちゃって、どっかーんってやらかすぞ」
「腐った魚ってほんと、ガスが出て危険だよねえ」
あははわはは。笑い声を浴びたサリスは、逃げるように厨房から走り出た。
魔力はある。魔法の気配はおろせる。羽を浮かすことだって。小さな精霊を喚ぶことだって、なんとかできる。
でも……
くやしい思いを押し込めて、まっかな箱を師に渡したら。
さらにぐさりと、するどい槍のような言葉が胸をえぐってきた。
「おや? この箱にはナツメヤシがほとんど、残っていないようだ。赤箱をもうひとつ頼む」
師はそう命じてきた。箱のふたはほんの少しも、開けないままで。
サリスは一瞬ひきつけたように息を吸い込み、それから、謝罪の言葉をまくしたてた。
「ごめんなさい! 何個入ってるか、分かりませんでした! ごめんなさい!」
「む? いや、あやまることは――」
「見えなくて、申し訳ありません!」
叫びというより、ほとんど悲鳴だった。
封を切っていない赤箱をとってきて、師におしつけると、サリスは食堂を飛び出した。
歯をぎりりと、噛みしめながら。
シアティリエ シアティリエ
あなたがここにいなくたって
泣き顔になんてなるものか
ああでも今は とてもなさけなくて
僕は、あのひとの顔をみることができない
いつの日か倒さなければならない あのひとの顔を
「え? 代わりにお師さまの世話係になってくれ? どうして?」
突然図書館に来たサリスに、一番弟子のラデルは面くらった。
ラデルは朝餉のあとに、必ず書物を漁る。それを知っていてやって来たサリスは、今にも自分の胸に剣を突き立てそうな顔をしていた。
「僕に、お師さまの給仕は無理です。見えないし、予知もできませんから」
「え? 何言ってるの? 透視できなくたって、何も問題は――」
「だめです! ナツメヤシが、見えないと!」
「は?」
「赤箱を、完璧に扱えないと、いけません!」
「え? ナツメヤシを?? あつかう……???」
そのとき。困惑するラデルの背後の書棚からひょっこりと、豹の頭をかぶった子が顔を出した。
「なんだおまえ、お師さまの世話したくないのか? じゃあ俺がやる♪」
「ジェリはだめです! 予知も透視もできないでしょう?」
「は? 何言ってんの? おまえが寺院に入って来るまで、俺がお師さまのお給仕してたんだぞ。衣にひのしかけて、靴はぴかぴかにみがいてたし。夜は、寝床をあっためてたし――」
「でも、見えなきゃだめです! というか! 豹をかぶった野蛮な姿で、お師さまに近づかないでください!」
「はぁ?!」
豹の頭のどこが野蛮なんだと、ジェリはぷんぷん怒りだした。
「豹頭は、王族しか、かぶれないもんなんだぞっ!?」
「でも恥ずかしいです! この……野蛮人!」
「だ、黙れ、白ネズミ! メン・ハンテン・マー! ドゥーヤ!」
豹をかぶったジェリは、猛獣のように犬歯をむき出しにして、金髪のサリスにつかみかかった。共通語を忘れて故郷の言葉を叫ぶほど、いきり立ちながら。
サリスは床に倒されたものの、思い切り足を蹴って応戦した。
組んずほぐれつ、二人はごろごろ転がったけれど。
「止めろ! 本棚が倒れる! 暴れるな!」
ラデルが雷まとう声とげんこつを落として、二人を引き離した。
「サリス、君は南国の文化をちゃんと知るべきだ。ジェリも、北方人の気質を本で調べるといい。二人とも、文化の違いをよく学んで、お互いを尊重しないとだめだ!」
公正なラデルは、二人にそれぞれ読むべき本を選んで押しつけて。それから、大丈夫だと、サリスを励ましてきた。
「魔力のないジェリだって、ちゃんとお師さまのお世話をしてた。多少失敗したって、お師さまは笑って許してくださるよ」
「失敗なんて、できません!」
なにごとも完璧に、卒なく。
でないと手をびしりと、鞭で叩かれる。こわい家庭教師に、毎日そうやってしつけられてきた。
ここにはこわい人はいない。お師さまは、とても優しいけれど――
「今夜は、共同部屋で寝させてください。どうか」
その日の夕餉の給仕をなんとかこなしたサリスは、ふるえる声で師に願った。師の寝床をあたため、火の番をするために、世話係の弟子は、師の部屋で眠ることになっている。
仕事ができないと言った弟子を、師は怒らなかった。サリスの頭を撫でながらそうかとうなずいて、すんなり許してくれた。
寺院に来て、半年。
弟子たちの部屋で寝るのは、ほぼ初めてで。サリスは、ずらりと並ぶ寝台の固さに驚きながら、頭から毛布をひっかぶった。
(ふさわしくない。僕は、お師さまにはふさわしくない。頭を撫でられる資格なんて、ない)
並ぶ寝台から、弟子たちの囁き声が聞こえてくる。
「今夜はなんだか、風の音がいやに大きいね」
「ほんとだ。獣が吠えてるみたい」
サリスは耳をそばだてて、毛布越しに窓穴を塞ぐよろい戸を貫いてくる音を聞いた。
びゅおうひゅおう ひゅおうびゅおう
風は一晩中、ひどく荒れ狂っていた。まるで何かと戦っているかのように。
シアティリエ シアティリエ
あなたがここにいなくたって
泣き顔になんてなるものか
ああでも今は、とても悲しくて
胸が痛くてたまらない――




