1 セイリエンのジェリ
こおこおひゅうひゅう、冬の風が、天にそびえる岩壁に打ちつける。
魔物の唸り声のようにおどろおどろしいのは、岩壁にたくさん、穴があいているからだ。
これらは全部、人の手によって丹念に穿たれた窓。
いと高い岩山の中も、穴だらけだ。長い回廊。いくつもつらなる狭い部屋。無数の穴が彫られている。
ここは、遠い遠い北の果て。霧深い湖を見下ろすこの岩山は、「岩窟の寺院」と呼ばれている。
中に住んでいるのは、太古の時代の遺産を守る、黒き衣の導師たち。
それから――
「すっげえ! 氷が浮いてる!」
蒼い影が、岩の回廊を横切った。岩の階段を駆け降りて、ぶあつい岩のアーチ門をくぐって外に出る。
「すっげえすっげえ、すっげえ!」
きらりと、太陽の光が蒼い影を照らす。板を連ねた船着き場に駆けていくのは、蒼き衣を着た少年だった。
導師見習いがまとう衣のすそをひるがえして、一目散。少年は、湖の岸辺にぷかぷか浮かぶ氷の破片をつっつき始めた。金色の豹の目は、ぎんぎんきらきら、燦々と輝く太陽のよう。まるで太陽神のごとしだが、その格好はかなり変である。蒼き衣の上に羽織っているのは、ぶあつい豹の毛皮。首に巻いているのは、ふさふさの豹の尻尾。黒い巻き毛はすっぽり、豹の頭の中に収まっている。
「ひゃあ、冷てえ! でもうめえ!」
氷をつかみあげてガリガリかじるし、言葉にはまったく、品位のかけらもない。
だから、彼のあとから門をくぐって岸辺に出た子は、思わずぎりっと豹の頭を睨みつけてしまった。両手には巻物の山。険しい眉間に垂れる金髪が、寒風を受けてふわりと舞う。
「セイリエンのジェリ。はしたないです」
「いいじゃん! こんなに氷があるんだからさ!」
「巻物運ぶの、手伝ってください」
「は? 俺に命令するなよ、セイリエンのサリス。俺って、おまえより年上。兄弟子様なんだぞ」
「まったく……」
金髪の子は銀ギツネのえりまきに口を埋めて、冷たい悪口を押し殺した。
(……これが一国の王子? まったく、信じられません)
ジェリの本当の名前は、ジェリドヤード・エル・ケルティーヤという。
ふるさとは、常夏の南王国。大陸の南方に広がる、密林の国だ。
父親は、南王国を治める大君。母親は四番目の妃で、腹違いの兄弟がたくさんいる。
大君の大理石の宮殿は、まっしろで壮麗な見てくれとは想像もつかないぐらい、真っ赤でどろどろで恐ろしく怖いところらしい。だからジェリは、王位を狙う兄たちに殺されないよう、北の果てにあるこの寺院に逃げこんできたそうだ。大きな湖と風の結界で守られたここは、大陸で一番安全なところだと、ひそかに知られているからである。
『俺んちの血統は、まじで由緒あってさ。豹頭の神さま、ケルティーヤの血を引いてるんだ。まさに、豹の毛皮や尻尾をまとうにふさわしい、すっげえ王家なんだぜ!』
ジェリはいつもそう自慢する。けれど、こんこん雪ふる北国の、とても上品な家に生まれ育った金髪の子は、それを聞くたび眉をひそめてしまうのだった。
(獣の皮をそのまま被るなんて。蛮族としか思えません……)
金髪の子は、岩壁に沿って長く長く続く岸辺を進んで、岩の円堂に入った。
仏頂面で巻物をおろした先に、目の覚めるような金髪を垂らす、蒼き衣の背中が見える。
しゃがんでいるのは、一番上の兄弟子だ。師の書庫から運んできた巻物を熱心に読んでいる。
「ラデル兄さま。寒くないんですか?」
「ん? あ、大丈夫だよ」
円堂の柱から、びゅうびゅう寒風が吹きぬけてくる。なのに、一番目の兄弟子は、蒼き衣の上になんにも羽織っていない。寒さに耐える修行でもしているのだろうか?
兄弟子ほど真面目で優秀な導師見習いはいない。いつでもどこでも書物を読んでいるし、韻律を扱うどころか、自分で編み出すこともできる。頬にひと筋ついている傷跡は、「偉大な探求者の証」だ。自前の韻律をためしたら、いきなりまわりが爆発してしまって、砕け散ったギヤマンの瓶で負傷したのである。
「それより、ジェリったら大興奮だね。きゃあきゃあすごいな。きっと生まれて初めて、湖に浮かぶ氷を見たんだろうね」
「でも兄さま、」
金髪の子は口をとがらせて、兄弟子にぼやいた。
「あんなの、ちょっとうっすら氷が浮かんだだけじゃないですか。シアティリエの息で凍った湖なら、まだしも」
「シアティリエ……氷の女王か。君の故郷の湖も、一面凍るんだね」
「ええ、毎年がちがちに固まります。とても分厚く、まっしろに。百の湖が全部、凍ります」
北五州は湖だらけ。陸より水が多いから、みんな舟を使って街から街へ移動する。
氷の女王が吹き荒れそうになったら、大人たちは湖から舟をいったん引き上げる。
湖が凍ったら、長い橇足と大鹿を繋ぐ綱をつけて、湖上をびゅんびゅん走るのだ。
子どもたちは大はしゃぎ。みんなスケート靴をはいて、湖で遊ぶ。ひゅおうびゅおう、冷たい吐息を背に受けて、まっしろな湖面をくるくる滑る――
「ここは、僕のふるさとよりずっと北ですが。湖がすっかり凍ることはないのですね」
目を伏せてうつむく金髪の子を、一番上の兄弟子は、澄んだ水色の瞳でじいっと見つめてきた。
まるで心の中を読み取るように。
「うん……この寺院は、かつて大陸を破壊した、とっても危ないものをたくさん封印してる。だから人を寄せつけないために、お師様たちは毎日、岩の舞台で惑わしの風を編んでるわけだけど。その風は、通行を許可してない舟を押し戻すだけじゃなくて、氷の女王も押し出してるんだ」
「黒の導師さまたちの韻律の御技は、空にまで及んでいるんですね」
「そうだよ。お師さまたちってすごいよね。今年は寒波がひどくて、少し氷が張ったけど。それでもここの湖は、絶対凍らないよ」
「絶対……凍らない……」
「寒波だけじゃない。風編みの風は、熱波も追い払ってる。だからここの夏は、とっても涼しいんだ」
金髪の子は、やわらかな銀狐のえりまきの中でため息を押し殺した。
「そうですか。追い払ってるんですか……」
シアティリエ シアティリエ
僕はけっしてつかまらない
あなたの息なんか、こわくない
背を向けたまま、勝ち逃げしよう
さよなら さよなら おそろしい氷の女王
永遠におわかれだ……