1-01 柚子になりました ①
「記憶の混濁……? 柚子、私達のこと覚えてないのっ?」
「琴音っ、声が大きい。あの子が不安がる」
「あのね、今の柚子は覚えていることもあるし、忘れていることもあるの。あの子って絵本を読んだり、あなた達が映画を見る時、一緒に見たがっていたでしょ? 熱のせいでそれらの記憶が混ざって、現実と区別が付かなくなっている可能性があるって」
「それって……治らないのか?」
「時間が経てば落ち着くだろうって、お医者様は言ってたけど……」
「柚子は元々身体が丈夫なほうじゃないし、無理に思い出させようとするなよ。余計に混乱してまた熱を出すかも知れないから」
「うん……」
「分かったよ、父さん」
……ってな会話が、リビングのほうから聞こえていた。
話していたのは、お父さんとお母さん、お兄ちゃんとお姉ちゃん。
とりあえず私に聞かれたくないなら、もう少し声を小さくすればいいのに……。
「……ふぅ…」
階段の一番上から下のリビングに向かおうと思っていた私は、家族の声に軽く溜息を吐いて、さっきまで寝ていた自分の部屋に足を向けた。
その部屋までが地味に遠い。二階建てだけど、二階に部屋が六室もあるので、結構大きな家なんだと思う。……こんな家だったっけ?
でも遠く感じるのは、私が小さいからだ。
私は、身長がドアノブくらいまでしかない、5歳の小さな女の子……。
“柚子”だった。
記憶の混濁か……。確かに自分の名前も呼ばれるまで分からなかったけど、混ざった記憶も凄くリアルだったのよねぇ。……あんな映画を見たのかな?
でも確かに家の中を見たり、家族と会うたびに思い出すことが増えていく。それでも全部じゃない。写真を見せられても思い出さなかったことも多かった。
私、こんなんでまともな生活出来るのかなぁ。
昨日、お部屋を見て泣いた後、あの女の子が“お姉ちゃん”だって事も覚えていなかった私は、会社から大慌てで戻ってきたお父さんとお母さんに付き添われて、大学病院に連れて行かれた。
そこでお医者さんに記憶がどうとか言われた訳でして、私は『そうなんだ~』って感じだったけど、両親はかなり狼狽えていた。
まぁ、私がまだ五歳だから、これから普通に生活していれば、ゴチャゴチャになった記憶も新しい思い出に塗りつぶされるんじゃないかな。……私が普通の五歳児なら。
自分で言うのも何だけど、変な記憶があるせいか子供らしくない。
混濁した記憶の断片的な場面では、黒髪の私が制服を着て中学校に通っていたり、金髪の私が西洋のお城のようなところに居たこともあった。
そのせいで子供らしくなく気を使って大人しくしていたら、まだ具合が悪いのかと、強制的にベッドへ直行させられた。
そう言う訳で、私いま、すっごく暇なんです。だって落ち着くまで、お部屋の絵本もテレビも封印されちゃってるんですよ。
そんで熱もないのに寝られないから下に向かったんだけど、そうしたら丁度家族があんな話をしていた訳なんです。
さて、お部屋に戻ったのはいいけど、本当にやることがない。大人しくベッドで眠るのは私の候補にありません。
とりあえず私は、お部屋にあった姿見で自分を見てみることにした。だって自分の顔も良く覚えてなかったしね。
「……あ、こんな顔なんだ」
鏡に自分を映してみると、薄桃色のネグリジェを着た黒髪の女の子がそこにいた。
記憶に残っていたのか、自分でも思ったよりすんなり自分の容姿を受け入れられて良かった……。自分を鏡で見て違和感があったら、この先の人生に不安しか感じない。
お姉ちゃんがそれなりに可愛かったからそんなに心配してなかったけど、私の顔も幼児にしては整っている。……不自然なくらい。
やっぱアレだよね……。それなりのお金持ちだと、美人のお嫁さんやお婿さんが来るから顔が整っていくんだね。
でも目がタレ目だ……。お姉ちゃんはお母さん似で普通なのに、私は亡くなったお祖母ちゃん似らしく目が若干垂れていた。
我ながらちょっと眠そうに見えるなぁ。なるほど、これならすぐに、寝ろ寝ろ言われる訳ですよ。
まぁいいか。髪がつやつやの黒髪だから、大人しそうなお嬢様に見えるでしょ。
「あああ、柚子っ、寝てないとダメでしょっ」
そんな事を考えていると、私の部屋に入ってきたお姉ちゃんが、鏡の前にいた私を見つけて大きな声を出した。
「琴…お姉ちゃん?」
少し自信なさそうに私が声に出すと、琴お姉ちゃんは一瞬寂しそうな顔をして……でもすぐに笑顔に戻して私を抱き上げた。意外とパワフル。
「そうよぉ、琴お姉ちゃんだよ~。柚子はベッドに行きましょうねぇ」
「……だって、眠くない」
「そうねぇ……なら、一冊だけ絵本持ってきてあげるっ」
塔垣琴音。私のお姉ちゃん。私立中学に通う三年生。14歳。結構私と歳が離れているのね。
見ての通り、お姉ちゃんは私に優しい。それは、お父さんとお母さんの仕事が忙しくて家にあまり帰れなかったから、寂しい子供時代を過ごしたことが原因みたい。
お手伝いさんもいるけど、住み込みじゃないから夕方には帰ってしまう。
この広い家に二歳上のお兄ちゃんと二人で居ることが多かったから、二人は私という家族が増えたことを凄く喜んで、歳が離れた妹を、昼夜を問わずに無茶苦茶可愛がっていた。……らしい。
そこら辺は記憶が曖昧だから良く分からない。それでも現状でこれだけ可愛がってくれれば容易に想像も出来る。
「柚子っ、プリンを持ってきたぞっ」
琴お姉ちゃんが仕舞ってある絵本を取りにドアに向かうと、私を甘やかすもう一人の人物がプリンを片手に部屋に入ってきた。
塔垣大葉。私のお兄ちゃん。私立高校の二年生。16歳。
えっと……ノックは無しですか? ここは女の子の部屋ですよ、お兄ちゃん。
五歳児にプライバシーなんて存在しませんね。
「ああっ、兄さんっ、それは後で私が柚子にあげるはずだったのにっ」
「ええっ、誰だって良いじゃんっ。琴が買ってきた訳じゃないだろ?」
「じゃあ半分っ、半分は私が柚子に食べさせるっ」
いつの間にやら食べさせられることが決定していた。
プリンかぁ……何かとても久しぶりに感じます。もちろんプリンが嫌いな幼児なんて存在しませんから喜んでいただきます。
そう言えば、起きてから美味しくないスポーツドリンクと、味のないお粥しか食べてない。なのにお腹はまったく減っていない。自分で気づかないだけで、私まだ具合が悪いのかな?
「ほら柚子、あ~んして」
「…あ、あ~ん」
ちょっと恥ずかしい。私が五歳児としても妹としても自覚が無いからだけど、いくらお兄ちゃんでも、年頃の男の子からそれをされるのは照れていまいます。
でもいただきます。
「……ッ」
「美味いかぁ?」
「……う、うんっ」
……やばい。なにこれ……。味がないっ?
熱のせいで味覚がおかしくなっているのかと思ったけど、もう熱は下がっているし、ちゃんと玉子とミルクとお砂糖の味は感じている。
なんと言えばいいのかな……。プリンから、ミルクと玉子の“コク”と“旨み”を綺麗さっぱり抜き取った感じ。お手伝いさんが作ってくれたお粥も、ちゃんと美味しい味が付いていたのかな……。あんまり食べないで残しちゃって悪いことをしたかも。
「次はアイス食べるかぁ?」
「冷たい物ばっかりだとお腹壊すでしょっ。お姉ちゃんがホットケーキ焼いてあげる」
「ううんっ! 大丈夫っ。食べたら眠くなってきたなぁ」
お姉ちゃん達の愉しげな提案に、私はぶるぶる首を振る。ごめんなさい、これ以上の苦行は無理ですっ。
たぶん、アイスは柔らかい砂糖氷で、ホットケーキは甘い小麦粉焼きにしか感じないと思う。
やっぱり……私って変だ。
知らないはずの知識と知恵がある。お腹が減らない。食べ物の味も分からない。
お部屋にあるファンシーなベッドに横になる私に、眠るまで琴お姉ちゃんが添い寝をしてくれたけど、彼女からはとても甘い果物のような香りがして……
とても“美味しそう”だと感じてしまった……。
次回、ちょっと外に出てみましょうか。