4-06 狂気の哀歌 ④
【悪魔将軍】ノア・インキュバス
シルベール教国東にあるその街は、領主である子爵の方針により強固な壁で覆われ、この地帯ではもっとも安全な街として有名な場所である。
南国故に自然の恵みは多く、森には果実が実り海には魚が溢れていた。だがそれがなくても農場や牧場にも強固な護りが施され、飢えることない安全なこの街では犯罪も限りなく少なく、人々には笑顔が溢れていた。
領主の子爵はそんな街を歩くのが好きだった。歳も六十近く衰えを自覚していたが、彼の父もその父も領民の安全を願い、その願いが彼の代でようやく実を結び、街を歩きこうして民の笑顔を見るのが一番の楽しみであった。
最低限の従者のみをつれて歩く子爵を、人々の笑顔が向かえる。
貴族として決して裕福な暮らしではないが、次の子爵である彼の息子も彼の考えを理解してくれて、この街を護ると誓ってくれた。
そろそろ引退して息子に引き継いでもいい頃だろう。果樹園に近い別邸でその果実から作られた果実酒を飲み、たまに孫の相手をする――そんな贅沢をしても良い頃だろうか。そんな夢を見て街を歩く子爵に、露店から一人の女性がオレンジを幾つか差しだしてくれた。
子爵は思う。そんな光景が当たり前のように許されるのも、すべてはこの国の女神である女王のおかげだろう。
実際はこれだけの護りを備えて維持をするには、税金をかなり引き上げなければいけない。それでは民の安全は守れても領民の生活は苦しくなる。
そして壁の中で生活出来る人口には限界があり、常に危ういバランスの中で保たれていた平和だった。
だが女王は、この街で働けなくなった老人や病人、孤児や生活が出来なくなった母子などを無償で引き取り、女王の管轄する『実験施設』にて“有用な仕事”を与えてくれたのだ。
その者達がどうしているのか、遠くに行っているので分からないそうだが、子爵は今の生活を守るために希望者を募ってさえ、毎月のように『実験施設』へ領民達を送っている。
今の生活があるのもすべて女王の加護であろう。
そう思いながら差し出されたオレンジを笑顔で受け取ろうとした子爵の耳に、通りの向こうから微かなざわめきが聞こえてきた。
通りを歩く人の流れが割れて、そこの向こうから一人の執事姿の少年が歩いてくるのが見えた。
いや、成人を超えているようなので青年というべきだろうか。その凛とした立ち振る舞い、遠目にも仕立ての良い執事服を当然のように着こなしている姿を見るに、何処かの大貴族、もしくは王族関係者に仕える執事だろうか。
だが人々が溜息と共に思わず道を譲ってしまったのは、彼の美貌のせいだろう。
サラサラと流れる艶のあるブルネットの髪。背が高く細身ながら均整の取れた身体。その端正な顔立ちに浮かぶ甘い微笑みに、女性達は皆頬を紅色に染めて熱い溜息を漏らしていた。
彼は何者だろう? 確かに美しいが男達は女達ほど心も瞳も奪われずに、彼のような人物がどうしてこの領にいるのか疑問に思う。
彼が上級貴族家に仕える者ならば、その要件があるのは領主である自分だろうか? そう考え彼のほうへ向き直った子爵が口を開こうとすると――
ダァアンッ!!
その青年執事が懐から取り出した木の筒が、唐突に火を噴いた。
「……ぁ……?」
くの字に曲がった木製の土台に小さな金属の筒がついたそれは、この大陸ではあまり見ない、魔力で鉛の弾を撃ち出す『魔式短筒鉄砲』であった。
それが火を噴き、子爵が腹部に火箸を押し付けたような熱さに手で触れると、触れた手は自分の血で真っ赤に染まり、傷口の熱さと冷たくなっていく身体に子爵は信じられないような顔で膝をついた。
「きゃあああああああああああああああっ!?」
「御屋形様っ!?」
「き、貴様っ、何をするかっ!」
突然の暴挙に響き渡る悲鳴、駆け寄る人々、剣を抜く従者達。
周囲から浴びせられる憎しみと怒りの殺気の中で、青年執事の優しげな笑みは変わることなく、それどころか花が咲くような笑顔が浮かび――ついにそれが始まる。
『………ぅ…ぁ……ぁああああガアァアアアアアアアアアアアアアアッ!!』
撃たれた子爵が苦しげな呻きを上げ、それが叫びと変わると。その肌がドス黒く変わって猿のように歪み、服を引き千切るように身の丈二メートルを超える獣毛に覆われた身体に変わると、いびつに歪んだ角の生えた顔で果実を渡した女性の頭部を丸ごと食い千切りガリガリと噛み砕いた。
「………悪魔……?」
子爵だったそれは正しく人間の恐怖を象徴――【下級悪魔】の姿だった。
恐怖と驚愕に固まる人々の耳に再び銃声がこだまする。
「ひっ!?」
「きゃあああああああああああっ!」
響く悲鳴の中で何度か銃声がして、その度に撃たれた人間が【下級悪魔】へと変わり果てて周囲の人々を襲い始めた。
誰も青年執事を止めようとは思わなかった。そんなこと出来なかった。ただ死ぬのならいい。例え知らない者でも人を庇って死ぬのならいい。でも、悪魔になって人を襲うような存在にはなりたくない。
朗らかな笑みを浮かべながら、青年執事が悪魔に逃げ惑う人々を短銃で撃ち抜き、その度に悪魔が増えていく。
人々は命を失う恐怖よりも、人間としての尊厳をなくし、魂が黒く穢される恐怖に怯えて逃げ惑う。
短銃から撃ち出されたのは悪魔の魔核だった。
もちろんそれを埋め込まれても人間は悪魔に成り果てたりはしないが、その“魔核”は人が持つ“罪”を糧として撃ち込まれた人間の魂を悪魔に堕とす。
この街の人々は、ここに生きているだけで重大な罪を犯している。なぜなら彼らの平和と生活は、ここから送られていなくなった、キマイラの原料にされた人間達によって支えられていたのだから。
通りから生きている人がいなくなり、数百人の無惨に殺された死体と、数十体の悪魔達が残されると、さらなる犠牲者を求めて軽く手を振り、悪魔達に殺せと命じた。
轟轟轟っ!!!
その時、通りが数百メートルの範囲で突如爆発するように燃え上がり、生まれたての【下級悪魔】達が焼き尽くされた。
その只中で執事服の肩についた煤を軽く払う青年執事だけがそのままで残されると、燃えさかる炎の中から、炎よりも真っ赤な髪をした美しいメイド服姿の女性が、静かに歩いてくるのが見えた。
「少々おいたが過ぎますよ、ノアさん」
変わらぬ笑みを浮かべる青年執事ノアに、シルベルタルの側近頭であるエタンセルが困ったような苦笑を浮かべる。
「どうやら、多少ですがあなたは理性が残っているようですね。他のお三方は、皆さん狂ったように暴れていると報告が来ていますが……」
「……そうですか、あの三人は狂いましたか」
エタンセルの言葉にノアが呟くように声を零す。でも、その顔には落胆も悲しみもなくただ晴れやかな笑顔だけが浮かんでいた。
「あら? お仲間が気にはなりませんの?」
その様子を不審に感じてエタンセルが尋ねてみる。
あの三人の悪魔は、主であるユールシアの消滅で勧誘することも出来ないほどに狂ってしまった。
だが、このノアは、通常の悪魔と同じように主を失ったフリーの状態になったのではないか? 彼ほどの悪魔は稀少でありシルベルタルの寵愛を得られれば、ニュイやレヨンを超えて、ネージュや自分の位にまで迫れるだろう。
「いいえ、私は誇らしいのです。あの三人は正しくユールシア様の“悪魔”だから」
だが、そんなノアから返ってきた答えにエタンセルの綺麗な眉が微かに歪む。
「ああ、素晴らしい。我らはそうでなくてはいけない。偉大なる母、魔界の黄金の太陽、我らはその微笑みのためだけに生きて、滅びなくてはいけないっ!」
「っ!」
ノアの瞳に腐り果てたような狂気を見て、エタンセルがわずかに飛び退いた。そんなエタンセルにノアは晴れやかな狂気の笑顔のまま、静かに彼女に向き直る。
「エタンセル殿……。我らの望みは、我らが創造主である母に世界を捧げること。その母がいないのなら……世界なんて存在する意味がありませんね」
ピシッ…とノアの額が罅割れ、雄山羊の頭蓋骨が迫り出し悪魔の仮面に変わる。
その肌が黒く染まり、捻れた黒い山羊の角が現れ、身体が歪みその脚が雄山羊へと変化すると、溢れる膨大な障気が執事服を擦り切れた襤褸に変えた。
障気の余波が燃えていた炎を消し飛ばすように広がると、街中のまだ生きていた人間達から苦痛と恐怖の悲鳴がざわめきのように轟いた。
「…………」
それを無言のまま見つめていたエタンセルの顔に、真っ黒な牙を剥き出すような獰猛な笑みが浮かぶ。
「ノア……それがあなたの“本性”かしら」
「ええ、そうですよ、エタンセル。我らの魂をぐちゃぐちゃにしてユールシア様が与えて下さった、我々の真の姿です。ただあまり上品ではないので、ユールシア様のお目に掛けることがありません」
「いいえ、それも素敵な姿よ」
エタンセルの肌が赤銅に変わり、その瞳が真っ白に染まってメイド服が障気によって襤褸布に成り下がると、二体の悪魔は同時に顎を開き、『爆炎』と『毒障気』を撃ち放った。
二つの力がぶつかり合い、少し前まで人の笑顔に溢れていた街は膨大な黒い炎に包まれ、巨大なクレーターだけが残された。
その上空に浮かぶ黒山羊の悪魔と赤銅の悪魔。
その障気に呼ばれるように周辺の森から元人間であった大量の【下級悪魔】達が集まり、エタンセルは腕を横に振るうようにして【下級悪魔】達を薙ぎ払うと、片腕を天に掲げ、直径10メートルもあるような獄炎の火球を生みだした。
「滅びなさい。ノア」
撃ち出される巨大な炎の余波に【下級悪魔】達が燃え尽き、まだ残っていた周囲の森が一斉に燃え上がる。
迫り来る火球にノアが大きく両腕を広げると、その腹部に『扉』を模した黄金の魔法陣が浮かんだ。
「開け、【失楽園】」
その瞬間、ノアを中心に“黒”が半紙に垂らした墨汁のように拡がり、そこから狂気の叫びを上げる大量の【上級悪魔】が飛び出すと、狂ったように火球に群がりそのほとんどが滅びながらもエタンセルの炎を食い尽くした。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!
次々と現れる、一万体の狂った【上級悪魔】の特殊固体が獣の雄叫びを上げる。
それを封じようとエタンセルが複数の炎を生み出すと、ノアの呪詛である【放出】の衝撃波が炎をかき消した。
「ノア……あなたは、あの空間の管理人ではなく【扉】そのものだったのね」
エタンセルの言葉にノアは無言のまま歪んだ笑みを浮かべ、生き物がいなくなった森の上で、再び殺しあいを始める本性を解放した悪魔達の、獰猛な嗤い声だけがいつまでも響いていた。
悪魔達、大迷惑。
ノアは精神に幼さが残る他の三人と違い、狂気を制御してします。
ユールシアが気まぐれで魔改造したために、四人は生まれて数年で膨大な力を得ることが出来ましたが、その存在は非常に“歪“です。
はっきり言ってシルベルタルを批難できないほどユルは無茶苦茶していますが、違いといえばされた側が喜んでいることでしょうか。
次回はまたユルに場面が戻ります。





