【環を司る鈴の音】9「最終日」
その日は、目覚めた時から気分が悪かった。昨晩寝てから起きるまでの間に、大きな悪夢でも見たような。けれどもその内容は覚えていないままに、私は一日を過ごそうとする。
「……鈴音、大丈夫か?」
『え、ええ。心配ありませんよ、遊夢さん』
気分が悪いといっても、身体は健康そのものだった。習慣である家事や食事は平然とこなせるし、能力が下がっているような様子もない。
家を出て、空を見上げる。小さく確かな木漏れ日が目を突いた。そのまま数秒光を見つめ返して――なんとなく、周囲を見渡す。今日の天候は快晴、森の魔物が妙に活気づいているような様子もなし。少なくとも、今この場所は昨日までと同じような、日常を送っている。
だと、いうのに。
頭の中を雑音が駆け巡っている。既に見たような光景が、霧に飲まれたように思い出せない。確かな変化が私を襲っているのに、その原因が特定出来ない。
『遊夢さんは、何か感じますか?』
私の問いかけを聞いて、彼は眉をひそめる。先ほど私がしたように空を見上げ、「眩し!」とすぐに目を閉じた。人間には、陽の光は眩しすぎるらしい。次に周囲を見渡して――やはり、何も見つけられないらしい。考え込むような様子だった。
「空にも、森にも、それらしい気配は感じられない。でも、鈴音が何か感じてるなら、それは間違いないと思う」
『そう、ですかね』
「それじゃあ、後で森中回るか? 異常がないか、確かめに行こう」
彼の提案に、頷く。この異常の元が何なのかは分からないけれども、探さない訳にはいかない。
探さなければならないと、そんな気がするのだ。
午後になってから、私たちは捜索を始めた。遊夢さんからは手分けして探すよう提案を受けたが、それは私の方で断った。
確かに彼はこの一年で強くなった。正面戦闘ではこの森の魔物にさえ負けることはないだろう。しかし、私が感じる違和感の正体が何なのか分からない以上、彼を一人にするわけにはいかない。
仮に違和感が危険なもので、私を狙っていたのだとしても。巻き込んでしまった彼を逃がす程度の隙は稼げるはずだ。
そう判断して、私は彼と共に森を歩く。彼が右手、私が左手側を捜し、何か見つからないかを逐一報告し合っていた。
「何かあったか?」
『……ええ』
遊夢さんの呼びかけに生返事をしながら、私はそれを見つめる。森の中で、その赤色は嫌でも目を引くものだった。
「鈴音、どうし――それは」
『猪ですね。以前遊夢さんが倒したものの、成体です』
猪が、全身を引き裂かれた状態で横たわっていた。身体に触れると、手に冷たい温度が伝わってくる。絶命してから、相応の時間が経っているのだろう。
『誰が』
鋭い魔力で引き裂かれたようであった。刃物を使うよりも派手な傷口に、微かな魔力の残滓が見える。
解体された様子はない。食べるために殺したのではなく、殺すために殺したのだろう。周りの草木が荒れている様子もない。この猪は、暴れる暇もなく倒されたというのか。
『戦闘能力に秀でた、闇魔法使い』
獣人ではない。彼らは身体能力に優れた種族だ。魔法で絶命させるのは非効率的である。
妖人でもない。彼らが得意な魔法は、火や水などの自然に基づいた魔法である。闇魔法は積極的には使わない。
常人とは考えにくい。彼らは殺しの能力に優れた種族ではない。例外とも言える能力がなければ、この現象は起こせないはずだ。
『――魔族』
その仮説が上がると同時に、【輪廻】を起動する。この森全体に、私の魔力を張り巡らせて、異物を探す。
今現在のこの森の状況を、私の脳裏に投影。件の下手人の居場所を察知しようとする。
「『な、なんだ今の!?』」
『ブォ!?』
『ピョエェ?』
『すみません、お気になさらずに!』
森全てに住まう生物に魔力を通すこの技術は、私の技量不足もあってか対象に気付かれてしまう。
直ぐ隣に居る遊夢さんから、森の出口辺りに佇んでいる幽霊の驚愕までを把握した私は――当然のように、それを認識した。
『探られているな。そのような芸当――神か?』
『遊夢さん』
当然、あちらもこちらを察知する。居場所が割れたとは思わないが、おおよその方角は認識されたはずだ。
私の声を聞いて、彼が振り向く。全身に魔力を流された動揺は隠せないようで、「うぇ?」と気の抜けた返事をしてきた。
思わずふふ、と笑ってしまってから、意識的に感情を削ぎ落す。彼は私をただの女性と思っている節があるから、いつもの調子で話しては聞いてもらえないかもしれない。
『侵入者です。私が倒しますので、貴方は先に戻るように』
「侵、入者……?」
『三度はありません。家へ、戻りなさい』
もはや彼と話すべきではない。先ほど調べた限りでは、かの魔族らしき反応に傷も疲労も見られない。
遊夢さんとの力の差は歴然。何かの間違いで彼が攻撃されてしまったら、どのような末路になるか。
膝を曲げて、前へ跳ぶ。吸い寄せられるような勢いで木々へ向かい、幹を蹴って突き進む。三度木を蹴る頃には、遊夢さんの姿は見えなくなっていた。
『――来てますね』
何回かに一度、【輪廻】を再起動して位置を探る。
座っていた影が立ち上がり、歩き出し。三度探る頃には、私を捕捉して駆け出しているのがハッキリと分かった。
立ち止まり、周囲を見渡す。私の腰の辺りまで草が茂り、所狭しと木々が並んでいる。戦いには向かない地形であった。
しかし、私には関係のない話である。ここは『輪廻の森』、私の支配地。
目を閉じて、その場に屈む。生い茂る草たちは花弁の真似をするように広がって、私を避けてくれている。手を草に重ねて、その先に続いている地面を見据える。
ここまで近付いて、改めて確信した。
疑いようもなく、それは魔族であること。姿を見るまでもなく、それは悪意に満ちていること。
それだけ分かれば構わない。息を吸って、意識する。この一言で、終わらせる。
『【迫る貴方へ、朽ちよ】』
『な、に……!?』
神の手から、大地を伝ってその肉体へ。私が支配するこの土地で、私を逃れるものは誰も居ない。私の言葉は絶対であり、それに従う『輪廻の森』は魔力を奪う。
どす黒い色の魔力が、彼から湧き出る。彼の呻き声を認識しながら、魔力を私の元へと集める。
人間一人の生命であれば、私の器に収まるだろう。彼が死ぬまで吸収を続け、それで終わりだ。
『では』
魔族が飛び退いて。木へ飛び移る。無駄だ、足を着けた時点でこの森からは逃れられない。
彼の魔力を吸収する。実際に、こうやって魔力を奪うのは初めてだ。思ったよりも、不快感が強いらしい。紫色の魔力が入ってきた瞬間、強い吐き気を覚えた。
よろめいて地面へ落ちた魔族は、こちらへ駆け出した。遅い。それでは私を攻撃する前に死に絶える。
近付いたことで、魔力の吸収量が増加する。頭が割れるような痛みが走り、内臓が働かなくなるような感覚を覚えた。熱が、体を逆流して喉を通り過ぎる。
ここに来て、ようやく間違いに気づく。魔族の魔力を吸収し始めてからおよそ五秒。獣人の成人男性であればとうに倒れている量の力を奪い取って――やっと、それが
『……ええ』
喉を逆流した熱の正体を確かめるように、目を開く。地面を見つめる視界は、いつの間にか赤黒い色に覆われていた。
ぼやけている視界の中で目を凝らして、赤黒い部分に手を触れる。ぬるりとした、液体の感触は、自分の血液だろうか。
そういえば、遊夢さんの魔力を借りた時には、痛みなんてありませんでしたね。
鈴を加工した時のことを思い出し、苦笑する。最初の一秒で気付いていれば、こうはならなかっただろうに。
『なんとか、たてますね』
舌も痺れてきた。立ち上がった勢いで、木に体重を預ける。喘ぐように息をついて、その方向を見つめた。
もはや人相すら分からない、かろうじてそれだと分かる人影が、私の前に躍り出る。
「やはり、神か」
『あなたは、まぞく、ですか?』
「如何にも」
木に持たれかかったまま、人影の位置を把握する。ぼやけた視界の中で、精密な攻撃は不可能と判断。木々には申し訳ないが、広範囲の魔法で消し飛ばす他ない。
『まりょく。毒、だった?』
先程の問いかけと比較し、返答に間があった。何か、考えていたのかもしれない。
「ああ、そうだとも。神のみ殺す、毒の魔力だ。貴様のような小娘が神とは、惜しいな」
『それは、やっ、かい』
言葉を絞り出しながら、心の中でそれを唱える。《神光》。
なけなしの体力を、腕へと回す。だらんと垂らした状態から、相手へ向ける僅かな時間に、膨大な魔力の圧縮は完了している。
『ですね』
悠長に話すつもりなんてない。このまま正面戦闘を行えば、勝てるかなんて分からない。
私はどうなっても構わない。どうせ次は生まれてくる。けれど、この魔族と遊夢さんが出会ったら――。
不意打ちで放った光は、野太い光線となって突き進む。それは魔族を飲み込み、跡形もなく消し飛ばすための魔法である。
きっと、その余波で森の端までが消し炭となるだろう。直線上に居る生物が死に絶えるだろう。そんなことを考えたのは魔法を放った後で、けれどもこの結論に後悔は出来なかった。それで、あの人を守れるのなら。
(……あれ?)
過った思考に、疑問が湧き出る。そんな思考は問題外だ。状況的にも、神という機能としても。脅威度が不明な魔族を葬るために、森の一部を吹き飛ばすのは理解出来る。生まれた時の私でさえ、そのように判断したのなら実行しただろう。
(違います。今、考えるべきは目の前の)
頭の回転の制御さえ、ままならない。目の前の出来事を理性的に考える能力は削がれ、ふと湧き出た感情を処理することに思考が誘導されている。これは先ほどの毒とは関係のない――余裕がなくなったことで露呈した、私自身の不調だ。
森を吹き飛ばすであろうことに後悔はない。非情であったとしても、思考に誤りはない。ただ、動機がおかしい。それでは、まるで。
「運が、悪かったな!」
『――――』
考えていたことは中断される。魔力の流れが異常であることを指先の感覚が捉え、魔族の雄叫びを耳が聞き取る。現実に引き戻された意識は、ぼやけたままその光景を認識していた。
溢れんばかりの光を切り裂いて、黒い大剣が私に迫る。魔族の様子は伺い知れないが、迫る剣撃から察するに、有効打は与えられていないだろう。
放っていた魔法を中断して。次の魔法を――間に合わない。拳や足を利用しての攻撃は――無効。今の弱った身体では、見た目そのままの力が限界だ。
敗北を悟った私は、【輪廻】を起動する。何か逆転の一手を見つけた訳ではない。せめて彼の姿を認識して、魔族を巻き込み自爆でもしようと思っただけのこと。
『あ』
しかし、その目論見は裏切られた。
自爆。自身に巡る魔力を暴走させ、単純なエネルギーとして周囲に放つ原始的な魔力攻撃。魔法とも言えないそれは、単純であればあるほど力を増す。出力の調整を放棄して、範囲の測定を断念して、周囲の生命を廃棄する。
――それで、あの人を守れるなら。
「鈴音!」
今まで聞いたことのない悲痛な叫びを聞いて、思わず首がそちらを向く。家に戻っていろと指示したはずの彼が、青ざめた表情でこちらを見ていた。
「人間か? こんなところに」
彼の声を聞いた魔族が、大剣を引き抜く。自爆を躊躇った一瞬に、既にかの剣は私の腸を両断していた。
……倒れながら、体内の魔力を傷口に集める。傷が塞がることも、流血が抑えられる様子もない。やはり彼の一撃は、私にとっては致命的なようだ。
「お、前は」
どしゃり。自身が倒れこむ音を聞きながら、この先を想像する。今すぐにでも逃げてほしいけれど、きっと彼はそうはしないだろう。
二人揃って、共倒れ。なって欲しくない末路こそ、一番可能性の高い未来だった。
彼と過ごした一年はどこにも残らず、次に生まれる森の神は、何も知らないままあの家を使うのだろう。
何となく、それは寂しいですね。
絶望には届かないほどの、漠然とした虚無と痛み。その刺激を一身に受けて私は目を閉じ――――。
朝から抱いていた、違和感の正体を視た。