【環を司る鈴の音】6「彼にとっては、それがきっかけ」
「──────!!!」
獣の咆哮が、衝撃波を伴って周囲の木々を振動させる。その音が響くと、周囲の木々に留まっていた鳥達が一斉に空へと飛び立った。
咆哮の主──赤黒く、固い体毛を全身に纏った比較的小柄な猪は、この森でも二、三を争う強さを持つ魔物だ。秘境とも呼ばれる『輪廻の森』での上位種を認識したならば、大抵の人間や動物は急いで逃げ惑うだろう。
──しかし、その雄叫びを聞いても尚、猪の前に立つ人間が一人。厳密に言うのなら、猪に敵意を向けている人型の生命体が一つ。
「──っ。モンスターのハウリングって、実際はここまでキツイ物なんだな」
右手に剣を持ち、左手から雷光を迸らせている青年は、悪態を吐きながら眼前の猪を睨んだ。
「というか、猪って要は豚だろ。なんで咆哮なんて上げてるんだよ」
威嚇するように鼻を鳴らす猪を後目に、青年はそんなことを一瞬だけ考える。けれども、ここが自分の知っている常識が通じる場所ではないと理解している為か。直ぐに「そういうものだ」と定義して、ゆっくりと膝を曲げ、戦闘態勢に入る。
相手に退く気が無いことを察知した猪も、今にも飛び出しそうに地面を踏み鳴らした。
交錯する視線、互いの肌を刺す殺意、互いの意志に呼応し揺れ動く膨大な魔力。
そんな一人と一頭の様子を、不安げな様子で見つめている少女。
『大丈夫でしょうか……』
意識的に気配を殺し、二者を交互に見やる。
幾ら、初めて会った時からこの森で半年以上鍛錬しているとは言え、あの猪の相手はまだ早いのではないか。
そんな不安で心臓を高鳴らせながら、少女は青年と猪を注意深く観察する。何かあれば、直ぐにでも手助けに入るために。
「まずは……《ファイア》!」
左手の照準を猪に合わせた青年──青原遊夢は、可能な限り魔力を込めて炎を放った。
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人と獣の争いは、平行線のまま進んでいた。小柄──まだ大人ではないとはいえ、この猪はこの森の上位種。それを差し引いても、「猪」という獣の突進力は人のそれを大きく上回っていると認識している遊夢は、基本的に回避に専念していた。
直撃を食らえば、最悪命は無い。
その危機感を常に抱き、まず真っ先に回避。攻撃は二の次で、正面からの防御なんて以ての外。
そんな戦い方をしている為か、お互いに大きな傷は付いていない。
猪の攻撃を遊夢は大きく避けて、遊夢の攻撃は猪に届かないか、あるいは当たっても大した傷にはなり得ない。避けながら撃つ魔法はそれだけで狙いが逸れるものであるし、遊夢自身の魔力制御能力や瞬間火力もこの森では高いとは言えない。
「お、らぁ!」
すれ違いざまに、力任せに剣を叩きつけ、そのまま距離を取る。乱暴に叩きつけられた剣は、ある程度深く猪の身体に裂傷を作り、同時に遊夢の腕に多大な衝撃をもたらした。
明確な痛みを初めて受けた猪は、悲鳴のような咆哮を上げてから、怒りに任せて遊夢に突進する。
大きな衝撃に一瞬痺れる腕に視線を向けかけるが、猪の咆哮によって直ぐに我に還った遊夢は魔法を放つ。
「《マッド》、《ウォーター》!」
続けざまに放たれた二つの魔法は、この世界の戦闘ではあまり使われない事象具現魔法。目潰しが目的のその二つの魔法は、愚直に駆ける猪の目に当たり、その視界を黒く塗りつぶした。
「ブモッ!?」
感覚器官の一つをいきなり閉ざされた猪は驚き、少し減速しながらも突進を続ける。しかし、目を潰された動揺からか、今まで一度も逸れることが無かった突進はコースを歪められ、近くにあった木に激突し、圧し折るだけに終わった。
木を圧し折った猪の次の行動は、鼻を使っての索敵だった。嗅覚を用いて人間の位置を探って、次はそこに突進しようと足を踏み鳴らす。
そして、いざ飛び出そうとした瞬間。
あまりにも不自然に加速した遊夢によって、その横腹に剣が突き立てられた。
「ッ!? ────!!」
「───うる、せぇ!!」
咆哮のような悲鳴を上げながら、猪はその場でのたうち回ろうとする。その気配を察知した遊夢は、またもや加速しながらその場から飛び退いて、今度は突進するような勢いで、猪の頭に剣を突き立てた。
「オォォォオォオオ、──────!!?」
「……っ。こ、の!」
叫び散らしながら、自身の頭に突き立てられている剣を振り払おうと暴れる猪。しかし、遊夢も負けじと剣をより深く捩じ込んでいく。
……最後の力任せの攻防は、先に大きな傷を与えていた遊夢の勝利に終わった。息の根を絶たれた猪は、力なくその場に伏した。
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猪が地に伏して、遊夢さんがその場に立っている。いくつか危ない攻防もあったが、私が手を出さずとも彼は立派に戦えたようだ。
倒れている猪は、あの種にしてはまだまだ小柄な方ではあるが、それでもかなり強力な魔物だったはずだ。それを間一髪とはいえ倒したということは。
『……少なくとも、普通の人間よりは才能がある、ということですね』
神としての視点で、冷静に彼の能力を分析する。
身体能力は、この世界の住人に比べると少し高い程度。けれど、魔法に関する能力はかなり高い。少なくとも、鍛錬を積んだ戦士に現段階で近付いている程度には。
彼は以前、魔法を初めて見るような反応をした。つまり、彼は前世で魔法の鍛錬らしきものには全く触れていなかったはずである。にも関わらず、この短期間でここまでの成長を遂げられるというのは、どう考えようとも異常である。
『本人が意識していなかっただけで、昔から魔法には触れていたと考えるのが妥当ですが……』
いかんせん、情報が少ない。神である私の知識の中には、『冥界』と呼ばれる場所について多少記録されているが、それまで。
私が今居るこの世界と、数多の世界を繋ぐ『冥界』。私が知っている世界はこの二つだけであり、それ以外の世界に関する知識は何一つとして存在しないのだ。
『…………』
遊夢さんの魔法適正能力は、本人の言が真実だとするのなら、絶対に努力の賜物ではない。となれば、残る道は二つ。元々、彼の魔法の才能がかなり高いか、そういう【スキル】を既に持っているか。魔法の能力を上げる【スキル】といえば、真っ先に【超魔法】が出てくるが……。
『……流石にそれは無いですね。いくら遊夢さんが才能に溢れてても、城までは壊せな──』
【超魔法】を持ち、また十全に使いこなせたとするのなら。あの程度の猪は、遠距離から一方的に倒せていたことだろう。しかし、彼の力は、まだ一人の人間が出せる常識の範囲に収まっている。
ならば、やはり元々魔法に適性があったと考えるのが妥当だが……。
そうしてまた考え事をしようとした時、誰かが座り込むような音が聞こえた。
直ぐに誰か──遊夢さんの方へ目を向けて、彼の様子を遠目ながら伺う。
もしかすると、私が気付いていないところで傷を負ってしまったのだろうか。不安で胸がいっぱいになりながら、彼の下へ駆け寄る。そして、彼の様子を間近で見た私は、困惑すると同時に、傷どころの問題ではないことに気が付いた。
「───は、はぁ、───ぁ」
彼の身体に、大きな傷は付いていない。細かい傷や猪の返り血なんかはあるが、それまで。致命傷になりそうなものは一つもないし、あの猪に呪いを掛けるような能力は備わっていない。
ということは、猪と戦っていた疲れが、安心と共に押し寄せてきたのか。それも違う。それならば、確かに深い呼吸を繰り返していることの説明はつくが、彼の身に起こった異常はそれだけではなかったのだ。
彼の身体が、小刻みに震えている。全身をガタガタと震わせて、瞳も焦点があっていない。それはまるで、怖がっているような様子だった。恐怖のもとであろう猪は、たった今彼の手によって倒されたというのに。
何故彼がここまで怖がっているのか、分からないが──。
どうにかして彼の震えを止めてあげたくて、私は彼の傍で膝を着き、そっと彼の背に腕を回す。そうして正面から強く、彼を抱きしめる。
すると、彼の身震いが、恐怖がこちらに伝わっているような感覚を覚えた。
『大丈夫、大丈夫ですよ、遊夢さん』
抱きしめた状態のまま、そっと彼の背を擦る。すると、まるで恐怖を私に訴えかけてくるように、彼も私の背に腕を囘し、抱きしめ返してきた。
私の肩に顔を埋めるようにしている彼の口元から、息を飲むような──或いは、息を詰まらせるような感覚が伝わってくる。今、彼がどんな表情をしているのかは分からない。分からない、けど。
『───』
今怖がっている彼の分まで、ほほ笑みながら抱擁を続ける。そしてそれは、震えが止まった彼が、ささやかな抵抗を続けるまで続いた。
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分からないことだらけだった。
恐怖心の原因が分からない、彼の表情が分からない。そして何より。どうして、彼が怖がっていると落ち着かないのかが分からない。
恐怖の視線を見たことは、ある。それも、私に向けた物をだ。あの時だって、悲しいだとかそういう感情は浮かんでいたけれど、今回の物とは種類が違う。
分からない、分からない。理解できない、推測できない。
分からないことだらけの生活、分からないことだらけの彼。
そんな日常が、私には───きっと、愛おしく思えたのだろう。そして、それが意味することは……まだ、語るには早い。