【環を司る鈴の音】10「嗤う」
未来とは不確定なものであり、結末とはそこに至るまで定まらぬものである。それはどこの世界でも、少なくともこの世界では誰もが漠然と思っている、決まり事だ。
しかし、例外的に決まってしまう未来が存在する。それは力の持つ者が望み、世界が受け入れることにより発現する、『運命』である。
ここであった出来事は、そんな『運命』が定まる前の一幕。起こるべきでも、起こらないはずでもなかった偶然。それ故に、いずれ結末さえも捻じ曲げるものとなる。
「お前、何やってんだ!」
彼――青原遊夢は、その顔を真っ赤にしながら魔族へ向かって駆け出していた。剣を下段に構え、走る勢いのままに切りかかる。
魔族は突如現れた人間には大した注意も払わず、今しがた貫いた女神の肉体を確認している。少なくとも、彼にとって脅威足り得るのは神であり、それが消滅するまで警戒は外せない。いくら彼という魔族が神に有効打を持っていたとしても、種族による出力差はどうしようもないと判断している。
その観点から判断した場合、魔族にとって青原遊夢という常人は。
「静かにしていろ」
大剣の腹を乱雑に振り回す。一般的な常人を圧倒する膂力は、遊夢程度に太刀打ち出来るものではなかった。
受け流そうと構えた剣に叩き込まれる、圧し潰すかのような衝撃。受け止めきれないことを直感した遊夢は、地面を蹴って宙を舞う。
衝撃を受け入れるように後方へ跳んだ遊夢を迎え入れたのは――悠然と佇む木々である。受け身を取れるはずもなく、彼は背中から叩きつけられた。
「がっ」
空気を吐き出して、その場に倒れこむ。僅か一撃。遊夢と魔族の力の差は、それで十分に明かされた。
よろめきながら立ち上がる遊夢を気配だけで察知しつつ、魔族は鈴音を見つめている。虚ろなまま、開いているだけの瞳。腹部から段々と広がっていく血液。どう見ても死の間際ではあったが。
「まだ死んでいない」
未だに肉体を保っている女神を見下ろしながら、魔族は一歩踏み出す。
「しつこい」
「ぐぁ!?」
大剣を地面に突き刺して、右方向へ回転蹴り。杭を打ち込むような勢いの一撃は、拳を振りかぶっていた遊夢の脇腹に突き刺さり、吹き飛ばした。どうやら、彼の剣は先の攻撃で砕けたらしい。どうでもいいことだ。
「まだ女神は死んでいない。貴様は後だ」
「……させ、るか」
女神は目を開いている。絶えず流血を続けている。そのような状態で、ぴくり、と。細い指を動かしている。懸命に息を吸い、吐いている。まだ生きている彼女を見下ろすことが、どうやら魔族にとっては心地良いものであるらしかった。
だから、遊夢への苛立ちが募っていく。
「――まだ女神は死んでいない。だから、まだもう少しは生きるだろうか」
「この!」
拳を振りかぶって、最高速度で駆け抜ける遊夢。既に動きは見えている。見切るまでもなく対応可能な魔族は、遊夢の腕を掴んで彼の力を受け流す。
勢いを殺せずたたらを踏む遊夢へ向けて、膝と肘を挟み込むように打ち込んだ。動物の呻き声のような音が魔族の耳に届く。
腕を掴む手は離さず、空いている拳で遊夢の顔面を二、三度打つ。彼の膝が力なく曲がっていることを確認してから、無造作に放り投げた。
投げた先は、女神の隣。遊夢の落下音が耳に届いてから、魔族は苛立ったように唇を噛む。もう少し離れたところに投げるべきだったと、どうしても視界に収まる二人分の身体を睨みつけた。
「いや」
そうして、気付く。力なく手を伸ばす女神の腕が、男の方へ向いている。その現象を確認して、一つ彼の脳裏に疑問が浮かんだ。
女神との戦闘において、彼女がやったことは明白である。何らかの手段で魔族の位置を把握し、しばらくの間を置いて、魔族の魔力を奪おうとした。結果的に魔族の特性によってその作戦には失敗したが、そんなことはどうでもいい。
なぜ、補足されてから遅れて、女神の攻撃が届いたのか。どうして、女神が戦闘不能になってから、この男が現れたのか。
魔族の考えていることは、一切の根拠のない、言わば下衆の勘繰りのようなものである。彼が根拠として考えている現象は、全くの偶然であってもおかしくはない。
しかし、捻くれた思考回路と色眼鏡の視点を以てして、彼はその結論を叩き出した。
「ああ。女神より先に、貴様を殺した方が愉しそうだ」
痛みを吐き出すような勢いで咳き込む遊夢へ、はじめて意識的に視線を向ける。かの人間は地面に両腕をつけて、折れそうになるほど強く歯を食いしばりながら魔族を睨みつけている。今や立つことすら出来ない彼には、それだけしか出来ることがなかった。
「貴様に関心はない。脅威とは見なさない。面白くもない。だが、女神と関わったのが運の尽きだ」
右手の中に闇を集め、形を成す。長大な棒状になったそれは、《闇の槍》と呼ばれる魔法である。槍を握り、振りかぶる。それは遊夢を狙っているというよりも――鈴音にこの光景を見せつけているようであった。
槍が放たれる。目にも止まらぬ――集中力さえ足りなくなっている状態では、目視さえ叶わぬ速度。
躱すことも防ぐことも出来ないその一撃は、魔族の狙い通りに遊夢を貫き、死に至らしめるだろう。
「あ」
迫る闇を、どこか冷たい思考が捉えている。もはや恐怖さえ浮かばない彼の脳裏には、記憶のはじまりである『輪廻の森』の光景があった。
自宅だと認識出来るようになってきた家が建っていて、何故かいつも清潔さが保たれている湖があって。森を歩けば危険な魔物や、豊かな自然があって。そういった世界を、彼女と歩いている光景。
いつの間にか当然となっていた、新しい日常。自分が死んだあとは、一体どうなるのだろうか。
「……はは」
乾いた笑みを浮かべる。未来に希望を馳せる笑みではない。思わず口を出ただけの、全てがカラになる直前の反射行動。
彼の身体は動かない。動くより先に、槍が彼を終わらせるだろう。思考さえもはや止まっている。両目は無意味なガラス玉のように、その光景を映すのみ。
――だから。それを認識したのは、一連の動作が終わったあとだった。
数秒遅れて意識を動員した彼は、真っ先にそれを視界の中心に収める。女の身体だ。深紅の髪をより赤黒い液体で染めながら、それは力なく地面に横たわっている。
「は?」
首をキョロキョロと動かして、遊夢は今の出来事を整理しようとした。自分は魔族に投げられて、彼女の横に倒れこんで――それがどうして、彼女は自分の眼前に倒れているのか。
「庇ったか」
魔族の声など耳には届かない。全身を芋虫のように動かして、遊夢は鈴音へと近づいた。彼女の傷口は二つ。剣で貫かれた腹部の傷と――今しがた魔力の霧となった槍が残した胸部の穴。
腕に全霊の力を込めて、その場に座り込む。倒れた彼女を腕の内に抱えて、
「鈴音?」
名前を呼ぶ。彼女の瞼は、先ほどからうっすらと開いている。遊夢には瞳を見ただけで意識を判断する能力を持ち合わせてはいなかったが、まだ残っていると疑えなかった。
傷口に手を添えて、不得手である回復魔法を唱える。遊夢の手から光こそ溢れるものの、彼女の傷口には一切影響を及ぼさない。
「治れ……治れよ! 魔法なんだろ、おい!?」
《ヒール》、《光よ》、《癒せ》、《治してくれ》。
思いつく限りの呪文を唱えるも、それはただ一つの回復魔法である。彼女の傷口は塞がることはなく、遊夢は魔力の消耗により頭を痛める。それでも唱え続け――。
「無駄だ」
魔族が嘲笑する頃には、遊夢の手から光が溢れることさえなくなっていた。うわ言のように「ヒール」と唱え続ける彼の視線には、何も映ってはいない。割れるような頭痛で、他の物事を考えられない。眼球が取り込んだ情報さえも、意識は正しく認識出来ない。魔族の嘲笑なぞ持っての他だ。そんなことよりも、彼女を治さなければ。
しかし。壊れたように繰り返される行為にも、終わりは来る。ヒール、と幾度も繰り返した呪文を一度だけ噛んだ時。彼はもう、どうしようも無くなっていることを理解したらしい。
「――ははっ」
絞り出していたような呪文とは対照的に、その声は流れ出るように口から出てきた。
「はは、はははっはははははははは!」
溢れ出た笑い声は、彼に止められるものではなかったらしい。
遂に壊れたか? 嗜虐心を刺激され、僅かな歓喜を浮かべる魔族など存在しないかのように、彼は笑い続けている。
「はは、ハハハハハハ、ヒャーハハハハハハ!!!」
今の彼が思考を言語化出来たのであれば、恐らくこう言っていたのであろう。
『こんなことは見たくない』
『もうどうなったっていい』
『何もかも、知ったことか』
圧倒的な強者に付けられた敗北と、愛する女神が亡骸となりつつある事実。これらを覆す力は彼には無く、ただこの状況を見過ごすことしか出来なかった。
肉体的・精神的に限界であったらしい彼は、ただただ嗤う。こんな事態になってまで、何も出来ない自分自身を。
彼女の身体は足元から魔力の粒子となって消えて行っている。徐々に、確実に終わりに向かっている。
座り込んでいる彼の身体を、神の血液が濡らしていく。段々と広がっていく血の染みは、いずれ彼の全身を覆うのだろう。
「ははははは――――あ」
喉がかすれて、笑い声が止まる。笑うことさえ出来なくなった遊夢は、ゆっくりと顔を上げた。人間的とは思えない、壊れた機械のような動き。その視線の先には、あの魔族の姿がある。
「……なんだ?」
睨め付けるでもなく、涙を流すでもなく。けれども、心を喪ったようにぼうっと見つめるでもなく。
ただ、眼前の光景を正常に認識したかのような瞳が、魔族にとって気持ち悪かった。
「【狂人化】」
青年は、表情を動かさないままにそう呟いた。視界には変わらず、魔族の姿だけが映っている。




