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黒い猫  作者: 豊福 れん
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序章 無念の行き先

 夏の暑い日だった。

 日差しが鏡に反射したように輝いている。湿気を帯びた熱気が充満し、蜃気楼でも出そうな暑さだ。

 とある植木屋の宅地の一角に、離れがあった。布団一組と葛籠つづらが一つずつあるだけの小さな部屋だ。厚い布団の中には痩せこけて青い顔をした男が目を瞑り、それは寒そうに横たわっている。

 男は眠ってなどいない。けれど、彼は目を開けるのにもいちいち決心しなければならないほどひどく衰弱していた。時折血を吐きながら激しく咳き込み、ただ布団を被ってじっとしている。

 男は本来なら、今頃は愛刀を振るい、今この時も戦場を駆け巡っているはずだった。そして敬愛する恩師の盾となり剣となり、死ぬのならその為だと決めていた。かつては剣でその男に敵うものなど誰もいなかったし、敵対する者には恐怖の対象ですらあった。なのに今はもう、自分の身さえままならない。

 縁側の風鈴がちりんと鳴った。ぬるい風が、男の伸びすぎた黒い髪をさらさらと撫でてゆく。


 どこからともなく、一匹の黒猫がひらりと現れた。黒猫は濡れ縁になっている床板に立ち、一声鳴く。横たわる弱った男に、自分が来たことを示すかのようである。

 燦々と降り注ぐ日差しを直に受けた黒猫の身体は黒々として美しい。日に透かすと、艶々とした猫の体毛はうっすら紫がかって見えた。


「ああ、あの猫は……また来ているんだなあ」


 黒猫とはすっかり顔馴染みになっていた男は、か細い声で呟いた。黒猫は縁側に座り込み、男をじいと見つめている。


「お前には、ついぞ逃げられてばかりだったなあ。けれど、それも……終いだ」


 だんだん男の息が上がってきた。口を動かすこともやっとで、口を開いた拍子に乾いた咳が出る。だが、程なくして呼吸を落ち着けた彼の表情は穏やかで、苦しみなど微塵も感じさせない。


「近藤先生は、お元気かなあ」


 男は息を切らしてそれだけ言うと、彼はまた眠ったように静かになった。

 黒猫はすっと立ち上がると、静かに歩き始めた。男の枕元で座ると、男の匂いを幾らか嗅ぐ。そして、その小さな口を目一杯大きく開いた。すると男の胸のあたりから、キラキラと細かく輝く霧のような物がふわりと漂い始めた。球体へと変化したそれは、猫の口へと真っすぐに吸い込まれて行く。

 全て飲み込んだ黒猫は立ち上がると、さっとその身を躍動させた。音もなく、あっという間に部屋から姿を消してしまった。


 黒猫と入れ替わるように、老婆が縁側を歩いて来た。カチャカチャと膳に乗った食器を揺らしながら、男に声をかける。


「沖田さん、お加減はどうで――」


 横たわる男の顔が見えた時、老婆は歩みをピタリと止めた。彼の顔が、老婆にはいつにも増して青白く見えた。


「ま、まさか……」


 老婆は男の元へ急いで歩を進めた。

 老婆は膳を男のまくら元に置き、手を彼の鼻先や口元へかざす。少し強ばった顔つきで、慎重に空気の出入りする場所を探した。

 男はこれまで、まるで死んだかのように静かに眠っている事があった。老婆はその都度手をかざし、彼の無事を確かめてきている。緊張しながら呼吸を確認し、ほっと息をつく。それを幾度も繰り返してきた。

 だが、今回は違った。どこを探しても、空気の動きを感じない。


「まだお若いのに……それもお武家さまがこんな所で、さぞ……」


 老婆は震え始めた手を引っ込め、自身の胸の前で両手を合わせた。

 うっすらと浮かんだ涙を着物の裾で拭くと、老婆はあたふたと立ち上がる。運んできた膳のことなどすっかり忘れ、老婆は来た道を慌て引き返した。

 程なくして、慌ただしくこの家の主人を呼ぶ老婆の声が家中に響き渡った。




 ピピピ、ピピピ――

 目が覚めた。枕元で、昨晩セットした携帯電話のアラームが律儀に鳴っている。日差しがカーテンの隙間から見えて、眩しい。


「朝、か……」


 身体を起こすと涙がこぼれた。鼻もぐずぐずしている。わたしは手を伸ばし、ベッドの脇に置いた台からティッシュを一枚取った。


「リアルな夢だったな……」


 しばらく立ち直れないのではないかと思うほど、心が痛む夢だった。わたしはまだ少しぼうっとする頭に、思わず先ほどの見たばかりの夢の情景を浮かべる。どうにも胸が一杯だ。思わずため息が漏れる。

 やや覚醒してくると、次はアラームの音が耳につきはじめる。携帯を手に取り、けたたましくなり続ける音を消した。途端にしんと静まり返る部屋が、なおさら虚無感を煽るようだ。

 携帯電話を待ち受け画面に戻すと、メールが届いている事に気付いた。


「え……どうしよう」


 メールは同期の酒田くんからだった。明日の夜、食事はどうかという旨のメールだが、わたしはあまり乗り気になれない。夢の余韻でどこか晴れない気分に、さらに拍車がかかった。

 しかし、無情にも時間はいつでも均等にすぎて行く。特に朝は五分でも貴重だ。携帯の画面端の小さな時計を見たのと同時に、今度は枕元の目覚まし時計が鳴った。さあっと血の気が引く。完全に覚醒した。


「ち、遅刻する……! 」


 わたしはハンガーに吊ってあったスーツを掴み、大慌てで着替える。朝食もままならないまま、わたしはドタバタと家を出た。

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