02.少年漫画 少女マンガ(後)
(どうしよう……持ってきてしまった)
巧は校門の近くに着いてからになって心臓がドキドキしてきた。もう一度『恋愛書店』を1巻から(智里から薦められた1巻は封を切ってもいない。家にあった分)読み直した。読めば読むほどやっぱり深みのある作品で、意外と止めることができずに夕飯の後もずっと家のソファに寝転がって読んでいた。兄貴には「またその本かよ」と茶々を入れられたが、そんなことは関係ない。細かくコマの隅々まで呼んでいたら、ようやく2巻まで読むことができた。絵の描写も細かい。
しかし、細かい部分を読んでいたが故に読みきることができず、ついに次の日へ持ち越しとなった。ただ、昨日は日曜で部活がなかったから良かったものの今日からはバッチリ部活だ。なかなか読む時間が取れなくなってしまうだろう。しかし続きが気になってしまい、とうとう学校へコッソリ持ってきてしまった。こんなことをするのは初めてだ。
(まぁ、バレないように読めば……)
今の巧の座席は教室の一番後ろ。先生にも同級生にもバレにくい位置だ。変にオドオドしなければまったく問題はないだろうと思っていた。
「おはよう! たっくん」
後ろから智里が小走りでやって来て、声をかけた。
「おう! おはよ、智里」
「今日も暑いね〜」
「あぁ。やっぱ夏だな〜」
「こんなに暑いのに、やっぱり今日も部活?」
「まぁな〜。暑いから寒いから今日は部活ない!なんてのはサッカー部にはなかなか無い話だよ」
「そうなんだ……大変だね」
「好きでやってることだからな。大変と思ったことはないぜ」
「たっくんらしいや」
智里はクスッと笑った。
智里とこんな風に話すのはずいぶん久しぶりのような感じがする。中学に入って、1年生のときはクラスが別。2年と3年のときは一緒になっているものの、お互い妙に意識してなんだかよそよそしくなってしまっていた。
(『恋愛書店』のおかげか?)
ククッと思わず笑ってしまった。
「どうしたの?」
智里が首を傾げて巧の顔を覗き込んだ。
「いや! なんでもねぇよ」
巧はなんとか平静を装った。
「ねぇ! 見て」
智里が彼女のカバンの中を指差した。中を見ると、『ストライカー』の7巻が入っている。
「コッソリ授業中に読むの」
クスッとまた智里が笑った。
「俺も」
そういって、巧もカバンの中を見せた。
「お互い授業中、バレませんように」
「ホント、それだよな」
二人は靴を履き替えながら笑い合った。
5時間目のチャイムが鳴った。
(よーし……バレずに4巻まで突入! 明日中には昨日買った6巻までに辿り着けそうだなぁ)
巧はこっそりカバンから4巻を取り出した。
チラッと智里のほうを見ると、数学の教科書に隠しながらうまく読んでいる。
ふと目が合った。
(うまくやってるね?)
智里が口パクでそう言ったように思う。
(お前もな)
(また後で感想教えてね)
(もちろん)
ニコッと智里は笑って再び『ストライカー』に目を戻した。
10分ほど経った。
ついつい巧はマンガに夢中になって、周囲に目を向けていなかった
「三嶋」
数学の谷沢先生の声がしたので上を向くと、怒った様子で巧を見下ろしていた。
(ゲッ……)
「何を読んでる?」
「……。」
「見せなさい」
しかし、巧は俯いたまま動こうとしない。
パシッと音がして、巧の数学の教科書が床に落ちた。そして、巧の手に握られているマンガを谷沢先生は取り上げた。
「なんだ、これは?」
それでも巧は反応しない。
「答えられないなら答えてやろうか? 代わりに」
「マンガです」
智里が心配そうにこちらを見つめている。他のクラスメイトも巧のほうを見てヒソヒソと何かを話している。
「なんでこんなものを授業中に読む必要がある?」
「……。」
巧はずっと下を向いたままだ。
「聞いてるのか?」
「……。」
「聞いてるのかと言ってるんだ!」
バン!と激しい音がして、巧の机の上のノートや筆箱が転げ落ちた。
「しかもなんだ、お前」
隠していた本屋さんで巻いてもらうカバーを剥ぎ取られて、ピラピラと表紙をクラスメイトが見える位置で谷沢は振った。
「少女マンガじゃないか」
「……!」
巧の顔があっという間に赤くなるのが遠くにいる智里でもわかった。
「マジかよ? 見ろよ、巧が少女マンガ読んでるんだってよ!」
「うそ〜? 三嶋くんが!?」
「信じらんない……子供っぽいんじゃないの?」
「笑っちまうなぁ! 俺ん家の姉ちゃんももう読んでないぜ?」
谷沢は嫌味ったらしい口調で続けた。
「三嶋〜、お前サッカー部でエースストライカーとかっていうことで人気あるそうじゃないか?」
「……。」
「そのわりになんだ〜? 意外と女々しいんだなお前。こんな本を中3にもなって読んでるのか」
巧の腕がプルプルと震えているのに気づいたのは、智里だけのようだった。
「アレじゃないのか? お前は家に帰ったらお人形さん遊びとかやって……」
バァン!
巧が勢いよく立ち上がった。同時に椅子が後ろへ倒れた。
教室が一気に静まり返る。
「……っさい」
「なに?」
谷沢が恐る恐る聞き返した。
「うるせー!」
そのまま巧は外へ飛び出していってしまった。
「たっくん!」
慌てて智里も立ち上がって後を追った。
智里の机から『ストライカー』の7巻が落ち、表紙がパラッとめくれた。
「たっくん! 待って、たっくん!」
智里は大声を上げて巧を追いかけた。しかし、サッカー部のストライカーだけあってあっという間に姿が見えなくなってしまった。
「えっと……えーっと」
智里は迷った挙句、屋上へ向かった。屋上へ上がると、息を切らした巧がハァハァと言いながら座り込んでいた。
「たっくん……」
ポタッと巧の頬から何かがこぼれおちた。初めは汗だと思っていたが、肩が震え始めていたので泣いているのだと気づいた。
「もうイヤだ……」
そっと智里は巧のそばへ座り込んだ。
「疲れてるんだ、正直……。エースストライカーだからとか、人気があるからだとか、がんばれとかもう全部……」
「……。」
智里は何も答えない。それでも巧は話し続けた。
「そんなマンガみたいにうまくいかないんだよ、現実なんて」
「……そうかもしれないね」
「でも、現実がうまくいかないから、マンガに俺は息抜きを求めてたんだ」
「その気持ち、わかるよ……私もそうだったから」
「え?」
智里はまっすぐ前を向いたまま、続けた。
「あたしね、好きな人いるの」
「……。」
「いきなりゴメンね、こんなこと」
「いや、いいよ……続けて」
「うん。ありがと」
サァッと夏にしては冷たい風が吹いた。どこかで夕立が降っているのかもしれない。
「私の好きな人ね、笑顔がステキなの」
「そうなんだ。智里、笑顔がステキな人が好みって言ってたもんな」
「うん。でも、この中学校ってサイテーだよ。なんか下品な男子多いし、汗臭いヤツとか多すぎ! もう失笑だよ」
「ハハハ……確かに、俺の部活でもそういうヤツ多いしね」
「でもね、その人は違ったんだ」
智里が急に嬉しそうに笑った。
「その人、なんかスゴい選手らしいんだけど全然プレッシャーとか感じさせない感じでね。すっごいがんばってるのが伝わってくるの。あたし、取り柄なんてないけど……その人と同じ学校でその人の姿を見ていたらがんばろうって気にさせてくれたの」
巧の心臓が高鳴り始めた。
「でもさ……やっぱり誰にでも弱いところってあるよね。あたしの場合、自分に自身が持てないところ。その人は……」
「弱音を吐かないところ」
「……え」
「だろ?」
「……うん」
「でも、俺、弱音を吐いていないわけじゃなかったぜ」
「そ、そうなの?」
「あぁ」
そういって、巧はポケットから『恋愛書店』の未開封の1巻を取り出した。
「これを見つけて……知ったおかげで、少し強くなれた」
「それって……」
「智里……チィちゃんがこの本読んでて、面白そうにしていたから、読んでみた。面白かった。何より、夢があっていい」
「……。」
「でも、現実逃避じゃないんだよな」
巧はゴロンと寝転んで空を見上げた。少し曇っているが、たいして気にならない。
「夢を持たせてくれる。マンガも、小説も、雑誌も何でも」
「そうだね。あたしも、そう思う」
隣に智里も寝転んだ。
チャイムが鳴り響いた。
「5時間目、終わっちゃった」
智里が小さい声でつぶやいた。
「そだな。シマンチュに怒られそう」
シマンチュとは担任の島田先生のこと。
「ま、こういう日もいいんじゃない?」
「そだな」
クスッと二人は笑い合った。
「そろそろ行こうか」
智里が起き上がろうとした瞬間、隣から「チィ」と声がした。
「え?」
横を向くと、唇に巧の唇が触れた。
「……俺とずっと一緒にいてくれる?」
「そ、それって……」
「一緒にいて、俺にもっと夢を与えてほしい」
まぶしくて巧の顔が見えない。
「付き合って……ください」
立ち上がって、巧はハッキリと言った。
「ハイ」
智里が半泣きになって返事をすると、巧も涙目になりながらギュッと抱きしめてきた。
「キャッ!」
智里の見ているほうに、団地に住んでいるらしいオバサンと目が合った。
「ねぇ……人が見てるよ」
「関係ねぇよ、そんなの」
「……ありがと」
巧の手から落ちた『恋愛書店』の1巻が、二人の姿をジッと見守っていた。