05.いいだろ、別に。(前)
「まったく……今年に入って何回目だと思ってるの」
瀬戸南中学校3年4組担任・的場 ちえは出席簿にボールペンをカンカンぶつけながらため息を漏らした。
教卓に伏せてまたため息。そして、その正面には担任をしている4組の男子生徒・木戸 亮平。
「さぁね。5回目くらいじゃね?」
亮平は悪ぶれた様子もなく無愛想な顔をして机に肘を突きながら答えた。
ちえは立ち上がって亮平の頬を思いっきり右手でつねった。
「痛ててててて! なにすんだよ!」
亮平は慌てて手を頬から離そうとするが、ちえは意地でも離さない。
「だいたいね〜! アンタはいつも反省の色が全然見えないのよ!」
「だって反省しないといけないほどのことをやってるとは俺は思ってないんだもん」
「十分悪いの! アンタのやってることは、犯罪なのよ!」
今年に入って5回目だ。
亮平が万引きをするのは。
初めてそれが起こったのは新学期早々の4月。学校区外のコンビニエンスストアでなぜか亮平は人参を万引きした。初回ということもあり、更生可能と見なしていただけた。しかし、5月のゴールデンウィークには学区内の駅前にあるレンタルCDを無断で持ち出した。最近、警報装置がこの手の店に完備されているのをどうやら亮平は知らなかったようだ。このとき持ち出したCDは「胎教に良い音楽」。思わずその名前を聞いたときには笑ってしまいそうになり、こらえるのが大変だった。
3回目は間もなかった。1週間しか経っていなかった。今度は「子どもモリーズパンツ」。オムツだ。ここまで来ると訳がわからない。それ以前に、そろそろ罪を免じてもらうわけにも行かず、家庭訪問という形を取った。
ちえは今年から教師として教壇に立った。それがまさかこんな子がいるクラスの担任になるとは夢にも思わなかった。
亮平の家は見るからに古そうな平屋建ての家。インターフォンを鳴らすが中から「どうぞ」と声がするだけで母親らしき人物は出てくる気もないらしい。
(どんな躾をなさってるのかしら)
失礼します、といって中に入ってちえは愕然とした。
山積みになった食器。もちろん、油汚れたっぷり。いつからしていないのかわからないような洗濯物の山。1997年5月10日の新聞(ちなみに、家庭訪問をした日は2008年5月28日)が見える。それ以外にも雑誌、紙くず、空き缶など部屋中が散らかり放題。そしておぞましい部屋の一角にキレイな白い布団が敷かれており、その上に――まだ生後4ヶ月程度の赤ん坊がスヤスヤと眠っていた。
亮平の母親――木戸 明子はなんと中学3年生、つまり亮平と同じ15歳のときに亮平を生んでいたのだった。しかし、別に先走ってそのようなことをしたわけではなかった。本当に好きな人と付き合い、その果てにできたのが亮平だったというわけだ。付き合っている相手も真剣になってくれた。高校に行かず、働く。そう誓った。一所懸命子育てする。明子もそういった。けれども両親が許してくれるはずもなく、二人の仲は引き裂かれた。
いろいろあった末、亮平を産み育てることだけは認めてもらえたそうだ。その後の話し合いで相手方から毎月仕送りも来るようにはなった。
しかし、その仕送りを明子は毎月無駄遣いしているのだと亮平はボヤいた。挙句の果てに亮平の知らない所で男を作り、このザマだと嘲笑気味に亮平は言った。
「でもまぁ、母親だし。できることはしてやんねぇと」
そういいながら、亮平は作ったミルクを哺乳瓶に入れて妹の梨未ちゃんに「梨未〜、ミルクでちゅよ〜」と言ってあやしながらミルクを妹に飲ませていた。
明子は――産後うつになっているという診断が下されていたらしい。
明子が産後うつになったのは4ヶ月前。つまり、今年の1月だ。それ以前に亮平がどんなことをしていたのかは知らない。
話を聴けば、春休み中にも亮平の素行はあまり良くなかったという。それが顕著になり始めたのは4月に入った頃。同じ頃、明子のうつの症状が悪化した。
その事情を知っている近所の人は亮平が罪を犯しても情状酌量のような扱いをしてくれているらしい。しかし、そろそろ限界だ。
「もう5回目! いい加減にしてもらわないと本当にアンタ、少年院に連れて行かれ……」
ちえが真剣な顔つきで怒鳴るより前に、亮平が唇を噛み締めながら涙で目をうるませていた。
「だって……もう俺も限界だもん……」
「……。」
「毎日汚い部屋で、自分の飯もロクに食えないのに梨未のミルク作って、梨未の寝るとこだけキレイにして、梨未のオムツ替えて、お風呂ともいえないようなバケツの風呂で梨未の体洗ってあげて……。でも、俺には何にもない。おいしいお菓子もないし、おもしろいマンガも買えないし、ほしい服も何にも買ってもらえないし、梨未の世話してやっても母さんがアレだからほめてももらえない……」
そのうち、ヒックヒックと泣いてしまってすっかり声も出せないような状態になってしまった。
「これ以上、あの部屋で過ごすの、ヤダっていうのね?」
コクン、と小さく亮平はうなずいた。
不意に、ちえはいろんなことが頭をめぐった。
新学期。
身体測定のとき、やけに亮平が小柄だなと感じた。実際、身長は158センチしかなかった。体重は49キロ。視力も極端に悪かった。ずっと暖かくなるまでゴホゴホ咳をしていた。
どうしてもっと早くこの子の異変に気づいてやれなかったのだろう。でも、今からでも遅くない。
「行くわよ、木戸くん」
ちえは出席簿を抱え、教室を出ようとした。
「行ぐっで、どごに?」
鼻声で亮平が聞いた。
「決まってるでしょ。君の家に行くのよ」
「本当にいいわけ? 教師がこんなことして」
亮平がキョロキョロと周りを見回しながら聞いた。
「別にやましいことをしているわけじゃないんだから、いいでしょうに」
「じゃあ、どうぞ」
亮平がドアを開けると、家庭訪問のときよりも強烈な臭いがちえの鼻を突いた。真夏なのだから、こんなにゴミを溜め込んでいたら異臭も発生するようになってしまう。
「やっぱ臭いよね……」
亮平が苦笑いでかつ鼻をつまみながら言う。
「でも、そうも言ってられないわ!」
ちえはグッと腕まくりをすると、部屋の片づけから始めた。少し明子もそれに反応したが、特に声もかけずにジッとその様子を見つめているばかりだった。
5分で大まかなゴミを袋に詰め終わった。次第に汚れた床が見えてくる。ゴキブリやなんだかわからない虫が出てくるたびに「ギャーッ!」と悲鳴を上げつつも掃除を続けるちえを呆然と亮平は見つめていた。
「ちょっと! 木戸くん」
ちえに呼ばれてハッと気づいた様子で何とか部屋らしい様子を戻してきた亮平が恐る恐る部屋に入ってきた。
「梨未ちゃん、抱っこしてあげて」
「え?」
「こーんなホコリっぽい部屋に寝かせてあげちゃダメでしょ? ほら、抱っこして表であやしてあげて」
グイッと押し付けるようにしてちえは彼女を亮平に抱っこさせた。
「ほらほら、外であやしてあげる!」
「あ、うん……」
亮平はそっと外へ出てスヤスヤと眠る梨未の顔を見つめた。
30分もすると、掃除機の音が聞こえてきた。コッソリ覗くと、部屋は見違えるようにきれいになっていた。
「梨未〜、お部屋とーってもキレイでちゅね〜」
それを聞いた梨未は「キャッ! キャッ!」と笑い声を上げた。20分もすると今度はお味噌汁のいい匂い。
「木戸くん、ご飯できたわよ〜」
「え!? ご飯!?」
「そうよ〜。最近、マトモにご飯食べてないんでしょう? お母様の分も用意できたから、一緒にみんなでいただきましょう」
「……うん!」
亮平は嬉しそうに部屋に梨未と一緒に戻っていった。
30分ほどたった時だろうか。インターフォンが鳴った。
「あ、俺が出るよ」
亮平が箸を咥えたままドアを開けると――教頭の近藤 那美子がすごい形相をして立っていた。
「的場先生?」
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。
亮平のために尽くしたちえ。しかし、行き過ぎたところがあったのか? どこからとなく現れた教頭に見つかってしまい――。