第6章:『Lune Fleur』プロジェクト始動
翌日、美月は言われた通り、自作のアクセサリーの中から特に出来の良いものをいくつか選び、母の形見である古い桐の小箱にそっと収めた。それを抱え、涼の後について「Éclat」本社の最上階、役員会議室へと向かう。心臓は、今にも口から飛び出してしまいそうだった。
重厚な扉を開けると、そこには会社の重鎮である役員たちがずらりと顔を揃えていた。鋭い視線が一斉に自分に突き刺さり、美月は思わず身を縮こませる。場違いな場所に来てしまった、と後悔が押し寄せるが、もう引き返すことはできない。
涼は、そんな美月の緊張など意にも介さず、会議室の奥、議長席へと堂々と歩いていく。そして、並み居る重役たちを前にして、まずこう切り出した。
「紹介しよう。私の妻の、葵美月だ」
役員たちの間に、ざわめきが広がる。これまで公の場に一切姿を見せなかった社長夫人の突然の登場に、誰もが戸惑いの表情を浮かべていた。
しかし、涼が次に放った言葉は、その戸惑いを驚愕へと変えた。
彼は美月に目配せし、桐の箱をテーブルの中央に置くように促す。そして、箱の蓋を開け、中のアクセサリーを全員に見せながら、高らかに宣言した。
「彼女が趣味で作っているこのアクセサリーを、我が社の新規事業として商品化したい」
一瞬の静寂の後、会議室は騒然となった。
「社長!ご冗談でしょう!」
「素人の、それも奥様の趣味を商品になさるなど、前代未聞ですぞ!」
「会社の私物化も甚だしい!我々はそんな道楽に付き合うわけにはいきません!」
年配の役員たちから、非難の声が嵐のように巻き起こる。それは当然の反応だった。巨大企業「Éclat」が扱うのは、トップクリエイターたちが作り上げた洗練された商品ばかり。こんな、名もなき素人の手慰みを事業にするなど、正気の沙汰とは思えなかったのだろう。
しかし、四方八方から飛んでくる非難の矢を、涼は表情一つ変えずに受け止めていた。そして、役員たちの声が少し途切れた瞬間を狙い、冷徹なまでに冷静な声で反論を始めた。
「皆さんの言い分はわかる。だが、市場が見えていないのではないか?今の消費者は、単に有名なブランド品を求めているわけではない。そこにある『物語』や『共感』に価値を見出す時代だ」
彼はテーブルに置かれた小さなピアスを一つ、指先でつまみ上げる。
「このアクセサリーには、大量生産品には決して真似できない温かみと、作り手の想いが込められている。一つ一つが手作りで、微妙に表情が違う。その不完全さこそが、今の時代に求められる『本物』の価値だ。ターゲットは、既存のラグジュアリー層ではない。自分だけの特別なものを求める、新たな顧客層だ。これは必ずヒットする」
涼は、美月のアクセサリーが持つポテンシャルを、ビジネスマンとしての鋭い視点から的確に分析し、説得力のあるデータや市場予測を交えながら、役員たちを一人、また一人と論理でねじ伏せていく。その姿は、いつもの冷徹な経営者そのものだったが、彼の言葉には確かな熱がこもっていた。
やがて、会議室を支配していた反対意見は、次第に沈黙へと変わっていった。
そして、涼は最後に、呆然と成り行きを見守っていた美月に向き直ると、決定的な一言を告げた。
「君には、デザイナーとしてこのプロジェクトに参加してもらう」
「え……わ、私なんかが、デザイナー、なんて……」
突然の指名に、美月は声が裏返ってしまう。アルバイトを掛け持ちして、借金を返すだけの毎日だった自分が、日本を代表する企業のデザイナー?あまりに現実離れしていて、頭が追いつかない。
しかし、涼の目はどこまでも真剣だった。
「これは、君にしか作れないものだ。責任を持ってやれ」
その言葉には、有無を言わせぬ力と、そして、彼女の才能に対する絶対的な信頼が込められていた。
こうして、美月のささやかな趣味は、『Lune Fleur』――フランス語で『月の花』を意味するブランド名を冠し、会社の威信をかけた新規プロジェクトとして、正式にスタートを切ることになった。
それは、美月が「社長夫人」という借り物の立場ではなく、一人の「デザイナー、葵美月」として、初めて涼の仕事の世界に足を踏み入れた瞬間だった。




