第4章:偶然の夜食と、初めて見せた素顔
その夜も、美月は自室のテーブルでアクセサリー作りに没頭していた。新しいデザインのピアスがもうすぐ完成するという時、リビングの方から、ガタン、と何か物が落ちる音がした。
びくりとして、美月は顔を上げる。こんな早い時間に、涼が帰ってくるなんて珍しい。普段なら、まだ会社にいるはずの時間だ。何かあったのだろうか。
気になってそっと部屋のドアを開け、リビングを覗き込む。すると、ソファの上に、スーツ姿のままの涼がぐったりと倒れ込むように座っていた。ネクタイは緩められ、ジャケットも脱ぎ捨てられている。いつも完璧に整えられている髪も、わずかに乱れていた。
彼の顔には、普段の鉄仮面のような冷静さはなく、深い疲労の色が浮かんでいる。閉じられた瞼がぴくぴくと痙攣し、眉間には深い皺が刻まれていた。よほど大きなプロジェクトが難航しているのだろうか。その弱った姿は、普段の彼からは想像もつかないものだった。
明らかに夕食を摂っていない様子なのが見て取れた。お節介かもしれない、いらないと言われるに決まっている。そう思ったが、彼のあまりに疲れ切った姿を見ていると、どうしても放ってはおけなかった。
美月は音を立てないようにキッチンへ向かうと、冷蔵庫を開ける。幸い、家政婦がストックしてくれている食材は豊富にあった。彼が食べるかはわからないけれど、温かいものを少しでもお腹に入れれば、少しは体が休まるかもしれない。
美月は、胃に優しそうな、昆布と鰹節で丁寧に出汁を取ったお茶漬けと、生姜を効かせた温かい野菜スープを小さな盆に乗せた。
リビングへ持っていくと、物音に気づいたのか、涼がゆっくりと顔を上げた。その虚ろな瞳が美月を捉え、わずかに驚きに見開かれる。
「……何をしている」
かろうじて絞り出したような、かすれた声だった。
「夕食を、まだ召し上がっていないようでしたので……」
美月がおずおずと答えると、涼はこめかみを押さえながら、ぶっきらぼうに言った。
「……いらないと言ったはずだ」
いつもの拒絶の言葉。しかし、その声には不思議と、普段のような刺々しい響きはなかった。むしろ、言い返す気力もない、といった風に聞こえる。
美月は、彼のそばのローテーブルにそっとお盆を置いた。立ち上る湯気から、優しい出汁の香りがふわりと漂う。
「温かいものを召し上がった方が、少しは休まるかと思いまして。……お邪魔でしたら、すぐに下げます」
そう言って静かに立ち去ろうとした、その時だった。
「……そこに、置いていけ」
ソファに深くもたれたまま、涼が小さな声で呟いた。美月は驚いて振り返る。彼は顔を背けていて、その表情は窺えない。それでも、その言葉が拒絶ではないことだけはわかった。
「……はい」
小さく頷き、美月は足早に自室へと戻った。心臓が、とくん、と小さく音を立てる。ただ、それだけのことなのに、なぜか胸が温かくなった。
自室に戻ってからも、リビングの様子が気になって仕方がなかった。彼は、あのお茶漬けを食べてくれただろうか。それとも、やはり手をつけずにいるのだろうか。
しばらくして、リビングから食器の触れ合うかすかな音が聞こえてきた。どうやら、食べてくれたらしい。その事実に、美月の口元に知らず知らずのうちに笑みが浮かんだ。
翌朝、美月がいつもより少し早く目を覚ましてキッチンへ向かうと、シンクの中に、空になったお茶碗とスープ皿が、綺麗に洗って置かれていた。そして、その横のカウンターには、小さなメモ用紙が一枚。
そこには、彼のものと思われる硬質な筆跡で、たった一言だけ、こう書かれていた。
『悪くなかった』
そのあまりに無愛想で、素直じゃないメモ書きに、美月は思わず「ふふっ」と声に出して笑ってしまった。素直に「ありがとう」や「美味しかった」が言えない、不器用な人。
でも、そのぶっきらぼうな一言が、どんな言葉よりも彼の誠実さを伝えているように思えた。
氷のように冷たいと思っていた社長の、ほんの少しだけ人間らしい一面。それを垣間見た気がして、美月の心に、ぽっと小さな温かい灯りがともった瞬間だった。この無機質な城での生活が、少しだけ色づいて見えるような、そんな気がした。




