第3章:偽りの新婚生活と、秘密の場所
九条涼が住むマンションは、美月が雑誌やテレビでしか見たことのない、超高級タワーマンションの最上階、ペントハウスだった。エントランスを抜けるだけで目眩がしそうな空間に、美月は完全に気圧されていた。
案内された室内は、彼女がこれまで生きてきた世界とはまさに別次元だった。広すぎるリビングには、高価そうなデザイナーズソファと大きなローテーブルが置かれているだけ。生活感というものがまるでなく、まるでモデルルームのように無機質だ。最新鋭のシステムキッチンは、一度も使われたことがないのではないかというほどにピカピカだった。
「こちらが、美月様のお部屋になります」
橘に案内された部屋は、美月が住んでいたアパートの三倍はあろうかという広さだった。大きな窓からは都心の夜景が一望でき、ウォークインクローゼットまでついている。ベッドも、これまで寝ていた煎餅布団とは比べ物にならないほどふかふかだ。
「涼様は、ほとんどご自宅にいらっしゃいません。朝は早く、お帰りは深夜になることがほとんどです。食事も外で済まされますので、お気遣いはご不要です」
橘はそう言い残し、何かあればいつでも連絡を、と電話番号を渡して帰っていった。
だだっ広い空間に、一人取り残される。シーンと静まり返った室内は、人の温もりというものが全く感じられなかった。ここが、今日から一年間、自分の家になる。そう思っても、全く実感は湧かなかった。
涼との生活は、橘の言った通りだった。彼は朝、美月が起きる前には家を出ており、帰ってくるのは美月が寝入った後。週末も仕事かゴルフでほとんど家にいない。たまに廊下ですれ違うことがあっても、交わす言葉は「おはようございます」「ああ」といった、事務的な挨拶だけ。まさに、契約通りの「他人」であり「同居人」だった。
美月は戸惑いながらも、契約にあった「家のこと」をこなそうとした。しかし、この家には週に二回、完璧な仕事をする家政婦がやってきて、掃除や洗濯、日用品の補充まで全て行ってくれる。美月にできることなど、ほとんどなかった。
それでも、何かせずにはいられなくて、美月はキッチンに立つことにした。涼が食べないことはわかっていたが、せめて温かい食事が用意されている家に帰ってきてほしい、というささやかな願いからだった。栄養バランスを考えた和食を中心に、彼の帰宅時間に合わせて食事を用意する。しかし、涼はそれに手をつけることなく、いつも外食か、簡単な栄養補助食品で済ませているようだった。テーブルの上にラップをかけて置かれた料理は、翌朝、美月が一人で食べることになる。
日に日に、孤独と居場所のなさが募っていく。この豪華な鳥かごの中で、自分は何のためにいるのだろう。まるで、価値のない置物になったような気分だった。
そんな虚しさを埋めるように、美月は涼に許可された唯一のこと、自分の趣味に没頭し始めた。
与えられた広い部屋の隅に、持ってきた小さな折り畳みテーブルを置く。その上に、大切に梱包してきた道具箱を広げた。色とりどりの押し花、様々な形のシリコンモールド、レジン液、UVライト、ピンセット。そこだけが、この無機質な空間で唯一、美月自身のものと言える場所だった。
窓から差し込む光を浴びながら、彼女は無心でアクセサリー作りに取り組む。
色鮮やかな花びらを一枚一枚、ピンセットでつまみ上げ、デザインを考えながら型の中に配置していく。透明な樹脂液を静かに流し込み、気泡が入らないように慎重に混ぜる。そして、UVライトを当てて硬化させる。その一連の作業は、瞑想のように彼女の心を静かに満たしていった。
カモミールの花言葉は「苦難の中の力」。忘れな草は「私を忘れないで」。小さな四つ葉のクローバーは「幸運」。一つ一つの作品には、彼女のささやかな願いや、母との思い出、道端で見つけた小さな喜びが、宝石のように閉じ込められていく。
このだだっ広いマンションの中で、唯一、自分の息ができる場所。自分の存在を肯定できる場所。
テーブルの上の小さな聖域。そこは、この偽りの新婚生活における、彼女のたった一つの、秘密の場所だった。




